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道聴塗説  作者: 静梓
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作者と経験

※ 個人の意見です。

 当然のことであるが、人というのは自身の中にあるモノしか表現することはできない。つまり、自分が経験したことしか書けないのである。 もちろん、それは極端な話で、直接経験したことではなくとも書くことはできる。小説、漫画、ドラマ、映画、ゲームなど、間接的な経験も書くことに生かせよう。


 韻文にしろ散文にしろ、文章を書くという行為は、つまり、自分を一度分解し、再構築する行為に他ならない。


 そう考えたとき、直接経験していない事象を整理するというのは、非常に難しい行為なのではないだろうか。


 間接的な経験というのは、一度他者によって整理された経験を受け入れるというものである。原体験から考えるならば、作者や視点人物によって捨象された風景が存在し、読者の死角に入りこんでしまう風景も存在しよう。


 もちろん、そうした捨象された風景に想像を巡らせるというのは文学作品を読む価値の一つであるし、解釈・批評の空間を作り上げることが、そもそも読むという行為に他ならない。しかし、自己の土壌に受け入れたとはいえ、他者の経験を自己のことばで語るというのは、多大な困難が伴うはずである。


 ある人が書く文章の中には、過去に経験したことを見つめる当時の視線と、それを見直す現在の視線が絡み合って存在しているはずである。間接的な経験ではさらに複層的な構造となるに違いない。書くことに限定して考えたが、表現すること全てに言えることであろう。


 そう考えると、表現者にとって重要な才能の一つには、記憶力というものが挙げられるのではないだろうか。暗記的な平坦な記憶力ではなく、同時代的な感性やそのときの感情を物事ともに覚えているという起伏のある記憶力である。


 記録、整理・保存、再生という記憶のプロセスに従うならば、顕在・潜在という現実の複層構造に気づき、記録することと、それを当時の感情に関連付け、何かきっかけがあればすぐに再生できるということが求められるのである。

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