帝国
英語で「帝国」を表す「Imperial」や「皇帝」を表す「Emperor」というのは、ラテン語で「命令権」を表す「Imperium」が語源となっている。共和政の時代には、インペリウムは命令や権力を意味し、ローマ法に承認された、つまり法に基づく正当な命令を指した。 しかし、ローマが地中海に覇権を確立すると共にインペリウムはローマ人による他民族の支配を意味するようになる。
地中海に覇権を確立する過程の度重なる戦争の中で、元老院は法に基づく命令権の行使よりも、武力や財力による権力行使に偏重していくことなる。食料や娯楽によって大衆操作を行う政治家も増えていくことになる。軍事偏重によって、当然、軍人の力も増していくことになり、とくに辺境では軍人の専制が横行することになる。それはつまり、共和制の衰退を意味していた。
中世における世界地図を思い浮かべれば分かることではあるが、中華、インド、イスラム圏、東欧、西欧それぞれに、興亡を繰り返しつつも一つは帝国が存在している。“帝国”というのは、複数の国や領土をある一つの概念・共通意識によって取りまとめて、一つの国家としたものである。当然、そこには複数の民族が存在するし、“帝国”という概念そのものが、複数の民族を前提としている。
“帝国”へと所属しない民族も存在するし、排除される民族も存在する。あるいは、隣接する二つの帝国に所属する民族も存在する。先述のように“帝国”というのは共通意識によって繋がっている複数の国や領地を内包しており、つまり、複数の概念をもつ国や領地はその情勢に応じてどちらかに所属するということもある。
拡大政策は単一民族のエゴではあるし、支配や服従といえば語感は悪くなるが、文化や文明の発達に国家や民族を適応させる一つの形態であったともいえる。
西洋の絶対王政期には重商主義帝国が登場する。これは戦争・拡大政策と王権の強まりによる専制的統治機構をローマ帝国の文脈で関連付けたものである。広大な版図に象徴される王権の強固さと財力は賞賛すべきものであった。
一方で、輸送や移動の手段が発達し、文字を用いることで情報が共有されることで国民意識が熟成される。そうした意識は政治形態への疑問、つまり、市民革命へと繋がっていくわけである。そうした中で拡大政策は民衆への負担の増大や、政治の膠着化の原因と考えられていく。そうした文脈で、ある民族が領有すべき領土というナショナリズム論理に支えられることで、明確な国境線が定められることになる。本来賞賛されていた拡大政策は一転して批判の対象となるのである。
工業化や資本主義経済の発達により、それまでの帝国では上層階級が担っていた植民地主義を中産階級が担うことになる。そうした世論や民衆に担われる植民地拡大政策は近代文明と資本主義、白人主義的な意識を背景にしていた。
二度の大戦を経たのち、経済的、政治的な帝国主義の矛盾点は浮き彫りとなる。独立・解放が行われた後にも、支配構造や影響力が残り続けているのである。
近代以後の文学において“帝国”がなぜ悪として描かれるかといえば、中世と近代ではこうして、民族と国家の関係性が異なるからである。近代の視点から見れば、ある民族から自身が所属している民族が支配されるというのは屈辱である。中世の視点から見れば、個々の民族はそれぞれ“帝国”に支配されることによって、一つの概念の下に繋がり、保護されているのが当然であった。
文明伝播という名目に覆い隠されていた、近代的な平等主義と差別主義的な拡大政策の矛盾点が浮き彫りになると、さらに、帝国に対する悪という意識は強まっていく。
また、現代の視点から見れば、一国家・一言語・一民族という近代の論理が無効化され、近代的文脈に覆い隠されていたマイノリティにも目を向けている、あるいは、向け始めている。




