語り手
物語というのは情報の集合体に過ぎない。目に見えないはずの物語は語り手という装置が設けられることで可視化される。それは仮名の項で述べた音声言語と文字の関係に留まる話ではなく、語り手という装置が物語そのものを定義するということである。曖昧模糊とした物語を定義するわけだから、語り手が定まらなければ物語世界そのものが揺らぐことになる。
代表的な視点をいかに上げていくことにする。
まずは一人称による語り。これは語り手が自らを「ぼく」「わたし」などの一人称で呼び、語り手自身の経験として物語を定義したものである。読者は語り手と同じ位置に立ち、経験やものの見方・考え方を共有することになる。そこで読者に与えられる視点からは、ほかの登場人物の内面や語り手の見聞していない事物を知ることはできない。また、それらに客観的な定義が与えられることはない。
ただし、一人称による語りであっても、過去の回想という形で語られるものは多少性質が異なる。当事者としての語りとは違い、過去の回想では一人称として現れる登場人物と語り手に時間的乖離が存在する。過去に経験したり考えたりしたことを現在の語り手の立場から再定義することになるのである。つまり、一人称で語られはするものの三人称視点に近い形となる。
つぎに三人称による語り。これは語り手がある登場人物の経験やものの見方・考え方を第三者の視点から観察する形で物語を定義するものである。読者は語り手とともに物語を俯瞰的に捉えつつ、登場人物に寄り添うことになる。
三人称による語りには観察の幅や程度によるいくつかの類型が存在する。
一つは限定的な語り。登場人物、多くは主人公に語り手が寄り添い、時にほとんど一人称としてその人物の内面が描かれる。一方で、寄り添う人物は一人でほかの登場人物の内面は描かれない。寄り添う人物と語り手との距離によって読者を引き込んだり、突き放したりすることができる。
もう一つは客観的な語り。登場人物の行動や事象のみが描かれ、内面に関する直接的な描写を行わないものである。登場人物の内面心理が描写されるときには「らしい」や「ようだ」のように推量の形で語られる。
他にも内面外面問わず、登場人物の行動や心理を観察可能な状態での語りもある。これは三人称全知と呼ばれる。
もちろんどの語りにおいても、大切な事柄をあえて語らず、読者に主体的に参加させようという仕組みが含まれる。そうした仕組みから導かれるのが解釈であり、個々の読みということになる。あえて語らないことによって読みが多様化し、物語世界に厚みを持たせることができるのである。一方で抜け落ちた部分が多すぎれば、たちまち世界が薄っぺらい物へと成り果てる。
読者の視点にはこうした明示的な情報と暗示的な情報を区別したり、全体が部分をどのように定義し部分が全体にどのように奉仕しているか考えたり、あるいは、語り手の語り方に着目したりというものがある。読者に提示される物語の切り口は語り手の立ち位置によって定められるが、その切り口をどう眺め、新たに切り込むかはある程度読者に委ねられているのである。




