彼らの小説は誰のもの?
日本文学概論より。テクスト論。
「言説」という語がある。原義はそのまま「言語で説く」ということであるが、批評や文学論では基本的に「特定の社会や文化に根差した言語表現」あるいは「ある言語表現が内包する社会的・文化的文脈」を意味する。
さて、ミステリにおいておよそ全てのトリックは出尽くしたと言われる。とすれば、現在も刊行されているミステリ小説は過去のトリックの焼き直しであることになる。
似たようなことが文学全体にも言われる。
書くことというのは読むことを必ず伴う。書き手の中には読み手としての意識や経験が必ず存在している。書き手がどんなに自由な意思や意図で書いたつもりであっても、それらに混ざり合う先行作品やそれに伴う言説、あるいは同時代的コモンセンスから逃れることはできない。姿や形を変えて必ず引用されることとなる。
そうした考え方に乗っかれば作者は作品に対して「俺のものだ!」と強く主張することはできなくなる。個の作品は他の作品や文化的・社会的な表現との関わり合いの中で存在し得るものなのだから、そこに独創性はなく、作者や作品の特権化は無効化される。
その場合、作品が芸術として成立するのは読者によって読まれたときである。作者と作品、作品と他作品の対話が生み出す複数の文脈が読者との対話によって一つの文脈に定められる。その時にやっと意味のようなものが生まれることになるのである。ここでいう読者とは個人とは限らず、ある世代の集団かもしれないし、国語科教育の現場かもしれない。ともかく、作品は作者と読者を繋ぐ媒体ではなくなり、読者と対話する相手となるのだから読者にも能動的な関わりが必要になる。
一方で“作者―語り手―登場人物―事象”という繋がり・枠組みを無視することにつながる。(こういった枠組みは作品によって異なる。登場人物以後は物語内容であるが、『源氏物語』などでは語り手が「~だったそうだ」という伝聞を取っていたりと語り手と物語内容の間にもう一枚被膜が存在していることもある)
『新明解国語辞典』は「読む辞書」、『広辞苑』は「百科事典の側面を持つ辞書」といった風に辞書ですら編集意図を持つ。物語文において作者の意図という重要な要素を排除しかねない考え方であることも留意しておかなければならない。