エヴァとマリア
ヴィーナスの項で中世西洋の女性観を述べたが、今度はキリスト教的女性観について考えて行こうと思う。
中世西洋におけるキリスト教的女性は二人、エヴァとマリアである。当時の女性観はこの二つのキャラクターに即して考えられている。
まず、エヴァであるが、蛇にそそのかされて禁断の果実に手を出す、誘惑に弱く、堕落しやすいものと考えられていた。また、アダムにも禁断の果実に手を出させたように、男性をも堕落させる存在であるという。現実の女性もそうした側面を持っていると考えられており、中世西洋における女性蔑視の根幹となっていた。
女性が親方権を持っていた織物工の中には亜麻布職人のように蔑視を受けるものがあり、また、女性の親方は不倫や不法売春などの不当な裁判にかけられることも多かったようである。
キリスト教の禁欲的、男性的論理の中では女性は求道の妨害者であり、誘惑者である。言ってしまえば、満たされることのない情動とそれを抱く自信への嫌悪感に対する言い訳に過ぎない。ただ、聖職者が知識階級のほとんどを握っていたことによってその思想は中世西洋において支配的なものとなる。教育を牛耳っていた教会がそういった思想を持っていることによって、貴族階級にもそうした思想が広まっていった。
そうした女性蔑視の思想は魔女狩りへと繋がっていくことになる。
都市部において、独立色が強まり、女性の地位が向上したのちも、こうした思想は残り続け、男性社会を脅かす存在としても警戒されていたようである。一方で、地位としては従属している者の、精神的には尻に敷かれる男という話は結構残っている。
次に、マリアであるが、中世初期の動乱が収束に向かうとともに聖母崇拝というものが生まれ始める。そこでの女性観は、処女性を持ち崇高な存在である。
聖母崇拝というのは騎士道における貴婦人崇拝に繋がっていくものであるが、社交的な飾り、あるいは文学的な意味以上のものはそれほど持っていないであろう。もしくは、ちやほやされたい女性の願望の投影とも考えられ得るものである。
騎士に対する貴婦人というのは、自らの配偶者でない、配偶者を持つ女性であり、しばしば、女性の方が支配的な立場にあるものである。当然、肉体関係などあるわけはなく、精神的な恋愛に終始するというのが宮廷風恋愛物語の特徴である。
女性蔑視が強く根付いた中世西洋において、高貴な女性や清純な女性というのは理想として崇高な存在とされていたのである。




