パン屋
パンというのは西洋において長く主食として用いられてきた。
パン作りに向くコムギは米や大麦と比べると粥状にして食べるのには向かない。というのも、小麦の胚乳は硬いふすまに覆われているため、やや食べづらい。古代において粥が主食であった時にはコムギよりも大麦の方が重視されていたようである。
しかし、碾き臼が発明されると、粘りと弾力のあるたんぱく質を多く含むコムギはパンに用いやすく、広く主食として用いられるようになる。
日本においても米が都市部を中心に食べられていたように、中世西洋においてもコムギのみで作られたパンは都市部でのみ食される高級品であった。特に、篩でふすまを取り除いた白パンというのは上流階級しか食べることができなかった。これは単純に敢えて嵩を減らす贅沢という意味だけでなく、穀物以外からどれだけ栄養が補給できるかということにも関わっている。現代において栄養学的見地から全粒粉が見直されているように、ふすまには多くの栄養が含まれており、中流階級以下の者にとって貴重な栄養源であったのである。
コムギに次いでパン作りに向いているのはライムギで、その他の穀物はタンパク質の割合や性質の面からパン作りには向かない。ライムギもコムギほどパン作りに向いているわけではないため、コムギと混ぜて使われることが多かった。
都市にはいろいろな階級の人々が暮らしているため、自身の所属している共同体を明らかにするため服装や振る舞いを変え、それぞれの階級を演じる必要があった。パン食についても同じことが言え、上流階級は白パン、そこから全粒のコムギパン、ライ麦パン、雑穀パンと階級が下がるごとに食べるパンの種類も変わっていた。
農村においては領主によるパン焼き窯の使用強制などがあり、雑穀パンなどを食していた一方で、挽き割りのオオムギやその他の雑穀を用いた粥もよく食していたようである。その他にも、粥を焼いてできたというガレットやクレープのような発酵させない薄焼きパンや、ピタのような発酵させた薄焼きパンなども地域によって食べられていたようである。
さて、中世の都市において、パンの単価というのは都市当局やギルドによって固定されていることが多かった。最も小さいもので半小銀貨一枚分で、その倍数ごとに重さが指定されていたようである。穀物の不作などへの対応は値段ではなくパンの重さを変えることでなされていた。
居酒屋の項でも書いたが、食品を扱う店というのは常に目方を誤魔化しているのではないかと疑われていた。都市当局やギルドは常に各々の店のパンが規定より軽くないか、混ぜものが加えられていないか監視していた。そういった規定がない時分には、木の根や木の皮などの混ぜ物で嵩増ししたパンが平然と売られていたのである。
薪を多く使い、竈の所有税まで取られていたパン屋であるが、パンというのは毎日消費されるものであるため、必ず売れる。もちろん、品質の良し悪しで人気の有無がかわるであろうが、パン職人というのは基本的に裕福である。パン職人たちの中でも住み分けがなされ、上流階級を相手にするものや、一般市民を相手にするもの、あるいは貧困労働者を相手にするものもあったようである。
ある程度貨幣経済が農村まで浸透してくると、都市に近隣の農村から作り売りのパンが入ってくる。入市税は取られたようだが、近隣の農村からの商品には基本的に関税がかからず、ギルドに所属している訳でもないため、雑穀パンを作るパン職人にとって、やや目障りな存在だったようである。
中世西洋において、ドライイーストなどという便利な代物は存在しないため、前回のパン種を少し残しておき、それを用いてパン生地を発酵させる。当然単一発酵ではないため、乳酸菌などが繁殖して酸味が出る。ここから残し種のことをサワードウと呼ぶ。発酵力が弱く、時間もかかるため、現在のパンより目が詰まったものとなる。発酵によってできた気泡を支えるためのタンパク質はコムギが最も多いため、コムギの割合が少ないほど目が詰まる傾向がある。
こういった作り方は今でもなされており、黒パンは基本的に酸味がある。この酸味によって、日持ちがしやすくなるのである。乾燥した黒パンに湯と麦芽や酵母を加えて発酵させたクワスという黒パン酒がロシアにはある。
市民は数日分のパンをまとめて買うため、最後の方にはナイフが通らないほど固くなる。とあるギルド規約には石や鈍器と並んで硬くなったパンという記述があるくらいである。食するときには、スープやワインに浸すか、スープと一緒に煮て粥状にする。
現在でもフランス辺りでは祭事の際にパン屋が菓子を焼くように、パン職人というのは元々菓子職人を兼ねている。「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」のお菓子はブリオッシュのことで(この言葉はねつ造であるが)、中世のパンと焼き菓子は非常に近しいものである。
十五世紀ごろになるとパン屋と菓子屋の分業が進み、菓子屋は酒類や揚げ物なども売るようになる。農村部では修道院などがそういった店を兼ねていることもあったようである。




