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道聴塗説  作者: 静梓
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 西洋中世ではほぼ例外なく、古代ローマ時代のユリウス暦を引き継いだ太陽暦が用いられている。それ以前のローマ歴では現在の一月や二月に当たる月が存在しなかった。これは農耕暦であるため、農閑期の暦は必要なかったことが原因であると考えられる。現在の十月が八を意味する語であるのはこれに由来するものである。


 西暦というのは六世紀中ごろ、ディオニシウス・エクシグウスが算定したキリストの生誕日を基準とした年代の表記方式である。西暦が徐々に広まるのは十一世紀ごろからの話であり、一般に用いられるようになるのは十五世紀のことである。それまでは皇帝や王、領域諸侯などの俗世の権力者あるいは、教皇や司教などの境界の権力者の治世、在位の何年目かによって記されていた。ただし、シャルル二世の「二世」のような序数は年代には記されない。


 さて、先にユリウス暦が用いられていたと述べたが、西洋中世において必ずしも一月一日が年の切れ目にはならなかった。例えば、フランスでは年の転換日は復活祭の日とされていた。もちろん、復活祭は太陰暦をもとにしており「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われる移動祝日である。つまり、一年の内に同じ日付が二度あったり、逆にある年にはある日付が一度も訪れなかったりしていた。この他にも、冬至や春分などの年の切れ目が存在している。


 西洋中世においても、東洋の十干十二支のような循環の概念は存在している。年の変わり目の日の曜日による七年期の他に十五年期などが存在していたが、用いられたのはごく一部の公証人によってのみである。


 各月の名称は古代ローマで用いられたラテン語表記が各地の諸語に取り入れられたものが用いられていた。日付の表記も古代ローマ時代から引き継がれたもので、各月の第一日、第五日(月によっては第七日)、第十三日(月によっては第十五日)を基準として、遡って数えられている。


 もっとも、こういった慣習は次第に廃れ、現在のように頭から何日という形で数える形が広まっていくことになる。地域によっては、月を二つないし三つに分け、前半を頭から、後半を末尾から数えるという方法もとられている。


 また、月という括りに捉われず、復活祭や各聖人の祝日を基準に日付けを定めるという表記方法も存在している。


 曜日に関しては、現在と同じく七日周期のものが古くから用いられている。これは古代バビロニアで発明されたと考えられており、それがユダヤ教で用いられ、そこから西洋に伝えられたものである。日没が日付の変わり目と定めるのもユダヤ教によるものである。


 西洋中世の生活の暦は黄道十二宮と十二か月の労働によって記され、暦絵として各地で題材として用いられている。しかし、農村を描くときには各地に残る諸信仰に触れる必要があり、また動物の擬人化などの手法がとられていたため、そういった非キリスト教的な絵画は時代が進むとともに減少していく。

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