福祉と医療
社会福祉、つまり孤児や寡婦、老人などの社会的弱者、いわゆる鰥寡孤独の救済というのは、歴史的に見て宗教勢力が担うことが多い。中世イスラム国家は救貧税として、喜捨を法整備、義務化しているし、キリスト教圏では「慈悲」「慈愛」という観念から「キリストの貧者」を保護、救済するための慈善事業が行われてきた。
農村などでは血縁、あるいは集村化が進むにつれて地縁的なつながりから、相互扶助が行われてきた。もちろん、そこにも宗教がからむことがあった。
中世欧州諸国の都市では、施療院(ホスピタル、ホスピス)が設立されていくことになる。ホスピタルの語源はホスト、つまり客人、外来者のための場所であり、巡礼宿や同郷者の会館などの宿泊施設という側面が強かった。
この時期の医療施設は古代ローマ時代から受け継いだ兵員専用の傷病兵収容施設が主である。その他にも施設は存在していた形跡はあるものの、経済的地盤が不安定であり、設立と廃絶が繰り返されているため、実態は把握しにくい。施療院もその一つであるが、先述のように基本的に異人受け入れ施設である。
これは中世欧州の基盤となったローマ人が医療というものにあまり興味を抱かなかったことにある。古代ローマ時代において医療技術者というのは職能奴隷か外国人であり、ローマ人は医療技術の研鑚よりもむしろ各地の知識の収集に力を入れていたようである。もちろん、そういった知識の集大成や、学術的興味による実験などによって系統立てられた知識体系は近代に入るまで、医学生理学の基盤として用いられていくものではある。
一方で、実利のローマ人らしく上下水道の整備、スポーツの振興、公衆浴場の建設など、健康生活の実践においては優れていたようである。
十一世紀以後、施療院建設運動が諸都市で起こる。基本的に施療院は修道院に付属する施設であり、建設運動においても、キリスト教の諸派が布教を兼ねて競うようにしてとりくんでいくことになる。有名なものにハンセン病施療院が存在するが、これはハンセン病のみでなく広範な皮膚病に対応したものであった。一方で、中世欧州で猛威を振るったペストに対しては、多くの施療院が作られていても完全に許容範囲を超えており、隔離を行う程度のことしかできなかったようである。
十二世紀にはいると聖職者のみでなく、俗人(市民)層が、施療院の創設にかかわってくるようになる。そこには人口の増加やそれに伴う商業活動の活性化による医療・福祉に対する需要の高まりが存在する。また、十字軍遠征による東ローマやイスラムの文化・知識の流入もその一端を担っているだろう。中世欧州の基盤であるローマ、ギリシアの文化に加え、北欧の諸民族の文化やインド、アラビアの文化、あるいはユダヤの文化が領主によって保護されることにより、技術や知識の熟成が行われることになる。
運営の母体も教会、修道院以外にも都市の参議会などが管理運営する施療院が現れ始める。また、時代が下ると総合医療・福祉施設であった施療院は次第に分化、専業化が行われるようになる。専業化した施設のなかには孤児院、盲人施設、傷病による失業した同業者や亡くなった同業者の寡婦の救済のためにギルドが設立した施設などがある。特に捨て子は中世西欧諸都市にとって重要な問題であった。
施療院にしても病院にしても、あるいは孤児院にしても、都市の富裕層にとって、魂の救済のための寄付や遺贈の対象になっていたのである。
各都市で大学が設立されるようになると、医師の開業に免許が必要になったり、あるいは、医師が社会的に信頼されるために学位が必要となったりするようになる。また、教師の側はそれぞれ専門科目を持つようになる。
外科医に関して言えば、大学出身の医師以外にも床屋外科医が存在していた。大学出身者はしばしば床屋外科医と混同を避けるために服装や言動を床屋外科医とは別のものにしていたようである。大学側が理論医学に傾倒していくと、外科や臨床医学が専門科目から外され、外科と内科の分業化、対立構造が出来上がる。こういった対立構造から中世西欧において外科が床屋外科医と合わせて一段下に見られるようになる。