貨幣2
中世ヨーロッパの貨幣制度について簡単に記す。
古代ローマにおいて、三世紀ごろ皇帝の権威の低下や内乱による全般的な混乱が起こる。四世紀に入りコンスタンティヌス帝が物価騰貴などの経済混乱を収束させるために貨幣価値の安定を図ってソリドゥス金貨を鋳造され、これが基軸通貨となった。金貨:銀貨:銅貨(青銅貨)=1:24:180程度だったようで、銅貨の表面には銀が塗布されていた。以後、西ローマはもちろん東ローマの滅亡に至るまで継承されることになる。
さて、西ローマ滅亡後の西欧においてもしばらくは模倣されていたが、八世紀ごろに改定され、
1リブラ=20ソリドゥス=240デナリウス
という貨幣体系が確立されて、以後の貨幣制度へと発展していく。ただし、それぞれの呼び名はブリテン、ガリアで異なっていた。
また、リブラもソリドゥスも計算上の単位にのみ存在し、実際に流通する貨幣としては存在していなかったようである。流通している貨幣はデナリウスかそれに相当する銀貨およびそれを補助する低額貨幣のみだったようで、半銀貨は実際に銀貨を半分に割ったものということもあったようである。計算上の単位としてのみ通用する貨幣の存在が中世初期の貨幣の特徴といえる。
度重なる十字軍遠征による東ローマ及びイスラム圏の文化の流入、また、農業の発展による人口増加とその受け皿としての都市の発展、余剰作物の売買による農村への貨幣経済の浸透などにより貨幣経済の転換点が訪れる。
それは十三世紀の金貨の復活に象徴される。特にイタリアの都市フィレンツェではフィオリーノ金貨が発行され始め、それを模倣、対応する形でイタリア・ドイツ・イングランドに金貨が広まっていくことになる。ただし、フランスでは限定的な発行にとどまった。
銀貨においても従来のデナリウス及びそれに相当する銀貨よりも大型の銀貨が発行される。これらによって、銀本位制から金銀複本位制へと転換していくことになる。
新貨幣導入によって貨幣の計算体系にも変化が起きる。
イングランドにおいては伝統的に王権が強く、上記のデナリウスを基準にした計算体系が通用した。ただし、三分の二リブラに相当するマルクという計算単位も並行して存在していた。イングランドのノーブル金貨は先のフィオリーノ金貨の約二倍の価値(金含有量)をもち、1ノーブル=6ソリドゥス8デナリウスの換算率が維持され、大型銀貨であるグロートについても1グロート=4デナリウスが維持された。
イングランドにおいては金貨や大型銀貨、銀貨の他に半金貨や四半金貨、半銀貨、四半銀貨、半大型銀貨に相当する貨幣などが存在するが、計算上の単位はデナリウス体系に準じたままであり、貨幣の名前に切り替わることはなかった。
大陸側では、都市や諸侯が各々発行する貨幣の流通圏によって、様々な貨幣や計算単位が乱立していた。それと同時に度量衡もバラバラなのだから手に負えない。
フランスでは多少複雑化するがまだましな方で、基準となる同名の銀貨が二種類存在したことと、大型銀貨の発行や流入したフィオリーノ金貨、限定的に発行された金貨などが新しく貨幣計算体系として登場した程度である。
新体系と旧体系は併存し続け、法令によってしばしば換算比率が変更された。例えば大型銀貨の価値を上昇させる法律があったが、貨幣計算体系でのみ上昇し、結果として貨幣価値が下がるという結果になっている。
フィレンツェにおいては十進法貨幣の導入も検討はされていたようである。
どれにおいても、新金貨の登場が古代ローマの金貨と一致はしていないため、古代ローマの貨幣体系は計算上の単位としての貨幣という側面が強まった。
造幣というのは政府、つまりは王権の象徴の一つというべきものである。しかし、それを実質的に維持できたのはイングランドくらいのもので、大陸側諸国では名称のみが共有され、聖俗諸侯および都市が独自の通貨を発行したり、各々の貨幣換算体系が存在していた。それらは時代や地域によってまちまちである。
交易商人は各地で変化する度量衡および貨幣体系を理解し換算していたのだから、恐れ入る。




