三話目 道はけわしいものなのだ (2)
昼休みが終わって教室へ戻ると、席について静かに本を読んでいる柳瀬麻衣が目に入った。一番後ろの席に座ると、最前列の小さな柳瀬の丸まった背中を見つめた。
勿論、さっきの弟のことは知らないのだろう。カツアゲされていたことを教えてやるべきかどうか……。この間の様子から考えて、彼女も弟が苛められていることに心を痛めているのかもしれない。
物思いにふけっていると、ガラリと扉が開き、数学教師の東条が入って来た。すがめた目でクラスを見回して、教壇の前に立った。痩せた顔をした嫌なヤツだ。
「五九ページ」とだけ言うと、縦皺の寄った眉間に銀縁のメガネを持ち上げて、授業を始めた。
一番前列の柳瀬は一つに束ねた髪を揺らして、言われた通り教科書を開いている。そしてじっと先生に視線を向ける。
弟がひどい目に遭ったことを知ったら、柳瀬は辛い思いをするだろうと思うと胸が痛んだ。こんなにおとなしくてか細い女の子に、あのガラの悪い連中から弟を守ることなどできるはずない。
「篠崎!」
突如、東条がチョークを持った手で、俺を差した。
「髪を切ってすっきりしたところで、問2の問題を解いてもらおうか?」
「え? ああ、はい」
俺はけだるそうに立ち上がると、前に進み出た。
黒板には細かい字で数式が並んでいる。その前に立つと、ちらっと柳瀬の方を見た。心配そうな顔をして俺を見つめる彼女と視線がぶつかった。大きく目を見開いて、黒い瞳が不安そうに揺れている。不用意にも、ついふっと笑いかけてしまった。柳瀬はますます目を丸くして、パチパチ瞬きしている。
「見た目をかえたって、中身が良くなるとは限らんからな」
皮肉な笑みに口元を歪め、カマキリみたいな顔の東条が言った。まったく、誰もかれも髪の毛のことを持ち出しやがって! 俺はムッとしながら、少し考えて、すらすらと解答を書き込んでいった。自慢じゃないが、数学は得意科目なのだ。いや、国語とかじゃなくてよかった! 日本語は苦手だ。
「見た目と頭ん中は関係ねーよ」
そう言って、チョークを置いた。皮肉屋の東条はぐうの音も出ないようだ。振り向いた目の端に、柳瀬が微笑んでいるのが見えた。何となくいい気分になった。
「さすが、リンね!」
戻った俺に、隣の席の木下さとみが小声で言った。クラスの中でも、彼女はケイオンの熱烈なファンの一人だ。他のみんなも東条に言い返した俺を、称賛の表情で見ている。
「こらこら、集中しろ!」
東条が手を叩いて、俺の解答を説明し始めた。
俺は熱心に聞いている柳瀬の背中を、しばらく見つめていた。
六時限目の授業が終わった時、俺は気持ちを決めていた。柳瀬に弟のことを話してやるべきだと。どっちみち弟と家で顔を合わせれば、何かがあったと気づくだろうし。
俺はざわついている教室を、柳瀬へと向かって歩いた。
今まで自分から女の子に声を掛けることなんて、照れくさくて出来なかった。というか、ケイオンのファンの女の子は沢山いたし、いつもその子たちに囲まれていたこともある。柳瀬はきっとケイオンというバンドなど、興味もなかっただろうし、俺だって可愛いとは思っていても二人で話したいなんて思ったこともない。弟の事件は喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
俺は鞄に教科書を詰めている彼女の横に立った。そして何気ない風を装い、小声で呟いた。
「柳瀬、ワルい。ちょっと話があるんだ。北校舎の屋上へ来てくれないか?」
「え?」柳瀬はまた目を丸くして、俺を見上げた。
「柳瀬幸太、弟だろ?」
彼女の顔が強張った。俺の真面目くさった顔をしばらく見て、柳瀬は小さく頷いた。その顔は驚きと不安に蒼褪めて見えた。
屋上は校内の騒々しさを遮断したように静かで、すがすがしい秋の風が流れていた。
柳瀬は俺の待つフェンスの傍へ、俯き加減でやってきた。
「悪かったな。急に呼び出したりして」
柳瀬は頭を左右に振ると、こくりと唾を飲んで顔を上げた。頬はすこし赤くなっている。
「幸太の……、弟の話って?」
「昼休みに君の弟を見かけた。その、一人じゃなくって、五人と一緒だった」
柳瀬の表情は途端に凍りついた。目が怯えていて、小さな唇が震えている。
「あの、もしかして……。ひどいことをされていたの?」
「ああ、五人は一年生だと思う。やつらに金を渡していた。それでも五人は納得しなかったみたいで、弟は乱暴された」
柳瀬が両手で顔を覆った。何度か大きく呼吸して、肩が持ち上がる。
「偶然ケイオンのメンバーが集まっていて、すぐに止めに行ったから、大してけがはしてないと思うけど……」
「た、助けてくれたのね。篠崎君……」
両手で口元を押さえたまま、俺を見上げた。目は涙で潤んでいる。
「ああ。やつらはメンバー見て、逃げて行ったけど……」
「ありがとう」
頬に零れた涙を手の甲で拭いながら、柳瀬は嬉しそうに微笑んだ。瞬間に俺の心臓は鼓動を止めた気がした。何だか妙に息苦しい。
「幸太は中学の頃から、いじめにあっていたの。おとなしくて気が弱い子だから、逆うことも出来ず……。高校になって、いじめグループの子達とやっと離れたと喜んでいたのに……。私、どうしたらいいかわからなくって……」
柳瀬はまた鼻を啜ると、顔を覆った。俺はどうしたらいいのか、わからず、ただ彼女の震える肩を見下ろしていた。
しばらくして、やっと落ち着いたのか、柳瀬がポケットから取り出したハンカチで涙を拭くと顔を上げた。
「ごめんなさい、泣いたりして」
「大丈夫? カツアゲは犯罪だぞ。担任に相談した方がいいんじゃねーか?」
柳瀬は激しく頭を振った。
「ダメ! 中学の時、両親が学校に訴えたんだけど、問題が大きくなって幸太は学校中から無視されたの。それで引きこもってしまうようになって……」
「そっか、難しいんだな」
「心配してくれて、ありがとう。でも弟も、自分で立ち向かわなきゃあ……」
俺は大きくため息を吐いた。いじめの問題は珍しくもないが、当人にとっては死を考える程苦しいことだろう。運よく俺はその経験はないが、弟を思う柳瀬の苦しい胸の内は理解できる。どうしろとも言えず、俺は黙って彼女を見つめていた。
「篠崎君」
柳瀬が突然、にっこり笑ってふいに顔を上げた。まだ目は潤んでいるが、笑いかけているのは確かだ。俺は瞬間、息をするのを忘れた。
「私ね、実はケイオンのファンなの」
「え?」
「ライブにも何度か行ったのよ。こっそり」
「マジかよ!」
キョトンとして目を瞠っている俺に、柳瀬は鼻を啜りながら、微笑んだ。
「うん。ショーさんの声もすごいけど、篠崎君の速弾きテク、素晴らしいと思うの。ものすごいカッコよかった」
「サ、サンキュー……」
顔が引きつる現象というのは、感情が入り混じった時に起こるようだ。まさに今、驚きと恥ずかしさと戸惑いと、そして嬉しさが一度に押し寄せている。クールなリンにあるまじき、みょうちくりんな笑顔だと思う。
「ありがとう、篠崎君……。ほんとうに……。弟を助けてくれて」
柳瀬は俺にペコリと頭を下げ、再びにこっと笑った。そして髪を揺らして背を向けると、階段があるドアへと向かう。その背中が痛々しいほど小さく見えた。
俺は無意識に両脇で拳を握っていた。そして、奥歯を噛みしめた。
彼女を……助けてやりたい。守ってやりたい。……二度と悲しい顔を見たくない!
柳瀬の泣き顔と笑顔が、交互に俺の頭を占領した。
遅くなりました。
読んで頂いた皆様、申し訳ありません。
今後も更新予定です。
よろしくお願いします。