一話目 それは目覚めとともに始まった(1)
洗面台の前に立った時は、全く気が付かなかったのだ。寝起きの顔もまんざらでもないと満足し、自慢の金髪をすいっと搔き揚げるまでは……。
「う、うわあああっ」
咥えた歯ブラシが悲鳴と共にどこかに飛んで行った。血の気が引いた顔から眼玉をはみ出させながら、頭をぐるりと鏡に映す。
背中を流れているはずの自慢のサラサラレイヤーの金髪が、てっぺんから後頭部にかけて、ない……! いや、ザクザクと地肌が見えるほどに短くカットされているのだ。俺は輝くような金髪だった我頭を撫で上げた。首筋近くの切り残された髪が、肩甲骨あたりまで申し訳程度に垂れている。後頭部を撫でると、指が地肌に触れる。頭のてっぺんに向かうほど、春先の芝生のような感触だった。
どんな結末の悪夢であっても良いから、まだ目覚めてないと言ってくれと、俺は鏡に呟いた。しかし首をもげんばかりに回して映した頭は、あまりに悲惨だった。わなわなと唇が怒りに震える。起きたての朦朧とした頭を、これほどはっきりと目覚めさせてくれるのは、姉ちゃんしかいない!
廊下を転がるように走って、怒りをまき散らしながらキッチンへ辿り着くと、姉ちゃんは弁当用のタコウインナーを焼いていた。
「こおら、里香子! て、てめえ、なんちゅうことをしやがる!」
「あら、リン。おはよう」
白々しくもにっこり笑った姉ちゃんは、俺の弁当に長い箸でつまんだウインナーを突っ込んだ。思わず見ると、弁当箱に七匹もの赤いタコがむぎゅっと詰まっている。苦しさからか、目の切込みがすべて釣り目だ。生みの親である当人は黒縁のウエリントンのメガネを偉そうに指で持ち上げ、日々クラスの注目を集める弁当作りに余念がない。昨日の特製マンゴウ入りフルーツ弁当は、すごかった。教室中に南国の香りを運んできたのだ。ジューシーなマンゴウとキイウイ、苺にオレンジ、黒ずんだバナナ。なぜか爪楊枝の刺さったうさぎリンゴまで……。登校中にうまい具合にシャッフルされて、砂浜の貝殻のごとくご飯に埋まったフルーツ。嫌な予感に恐る恐る(いつものように)蓋を開けると、(いつものように)期待に覗き込んでいたクラスメートは流石に呆然となり笑いも起きなかった。気持ち悪くて誰も笑わなかったぞ……と言うことではなく、フルーツと飯がいかに合わないか……と言うことでもない。
「お、お、おまえ、どうしてくれんだ! こ、この頭!!」
今朝の文句はこれだ。
姉ちゃんは平然として再びにっこり笑い、
「あら、先生から言われたでしょう? 短い髪に挑戦しろって」
と、不細工な黒縁メガネを持ち上げた。
「て、てめえ! よくも、よくも……」
パニクッて舌を噛みながら、一五〇センチしかないちびの姉ちゃんを見下ろすように、前に立ちはだかった。こいつをもっと早くぎゃふんと言わせておくべきだったのだ。
「どうしたんだ? 朝から騒々しい……」
親父が起きてきて、キッチンの悪趣味なレースのフリル付き暖簾から、顔を出した。途端に、
「え……」
と、ハトが豆鉄砲くらったような顔で絶句した。
「お父さん、おはよう」
理香子が俺の体を押しやって笑いかけたが、親父の目は俺の頭に釘付けだ。そして口元をひくつかせると、ぶうっと噴き出した。
「おまえ、沙悟浄じゃあるまいし、その頭!」
「お父さん! リンが豚だなんて、ひどいいいかたね」
沙悟浄は豚じゃねえ……。
「起こしたらかわいそうだから、後ろしかカット出来なかったのよ。お弁当が出来たら、前髪と襟足もそろえてあげるから」
目が覚めなかった自分をボコりたい心境で、歯ぎしりしながら理香子を睨みつけた。
「かっちゃんとこへ行ってくる!」
と、笑いを必死に堪えて、涙目になっている親父のそばをすり抜け、部屋に向かった。
「あ、リン、学校は?」
そんなこと知るか! 俺のビジュアル系バンドリーダーとしての尊厳にかかわる由々しき事態だと言うのに!
「おまえ……。どうしたんだ、その髪」
キャップを取った俺をまじまじと見た美容師のかっちゃんは、声を裏返した。
「理香子にやられた」
「まさか理香子に何かしたのか?」
かっちゃんは顔を引きつらせた。朝の八時にやってきた客に苦虫をかみ潰したような顔が、みるみる蒼白になる。
「俺が何かしたんじゃなくって、理香子がしたんだ。寝てる間に」
脱いだキャップを隣の散髪台に投げると、鏡の前の席にどさりと座った。かっちゃんはしかめっ面の俺の後ろに立つと、
「そうか、理香子は大丈夫なんだな」
と、ホッとしたように笑いかけた。彼は今でも俺よりも姉ちゃんの立場で物を考えるらしい。
町内唯一の美容院の息子であるかっちゃんは、姉ちゃんの同級生で幼馴染という存在だ。そもそも家が近所で母親同士が仲良しだったから、生まれた時から遊んでいたらしい。俺と六つ違いの姉ちゃんとは高校まで同じで、毎日一緒に通っていた。彼は、勉強はできても頼りない姉ちゃんを、ずっと守って来てくれたと言える。でも、姉ちゃんが地元の大学に進学し、かっちゃんが家業の美容院を継ぐために遠くの美容学校へ行ってから、二人は逢うことも無くなった。先月、都心の美容院で修業してたかっちゃんは、五年ぶりに町へ帰ってきた。どうやら、おじさんを亡くしてから一人で頑張ってきたおばさんの後を継ぐことにしたようだ。
かっちゃんは美容師らしく、毛先を遊ばせた今風のレイヤーカットの髪型が良く似合っている。前髪から覗く切れ長の目は涼しくて、高い鼻にきりっと上がった眉も男らしい。俺より背は低いけど、けっして軟弱なタイプではない。町内のおばちゃん達も、男前の息子が戻ったと色めき立っている。大都会の有名な美容院で修業していたと言うだけあって、鋏の軽い音は腕の良い証拠だろう。
「ここまで短いとスポーツ刈りにしないとダメだぞ」
かっちゃんは俺の頭を梳かしつけながら、鏡を覗き込んだ。
「おまえ、うつぶせ寝だったんだな。几帳面な理香子らしい、丁寧な仕事だ」
度々咳払いするのは、必死に笑いたいのを堪えているからだろう。
俺は涙で潤んだ目をしばたきながら、
「何でもいいから、見られるようにしてくれ」
と、ショックのあまりかすれた声で呟いた。
「おまえ、意外とイケメンだから似合うと思うよ」
慰めにもならない言葉を掛けながら、かっちゃんは残った長い髪を丁寧にカットし始めた。姉のやった極端な行為を、美容師のかっちゃんも称賛してはいないようで、「理香子の奴、何考えてんだ」と呟いている。
「姉ちゃんは学校の呼び出しにショックを受けたんだ……」
鏡の中のかっちゃんの神妙な顔を見ていると、つい姉をかばってしまった。
「呼び出しを受けたのか? 髪型のせいで?」
「ああ。なんせ高三だし、髪を切ったら大学の推薦枠に入れてやると言われて」
「そっかあ。まあな、バンドやってるもんにとったら、髪は命だよなあ」
かっちゃんは茶化すように言うと、指に髪をはさんで慣れた手つきで切りそろえた。俺は唇をつき出して頷いた。
そうだ。バンドは、俺の生きがいだ。中学一年の時におふくろが交通事故で死んで、底なしの鬱にどっぷりつかっていた時、先輩にライブに誘われ、ロックの世界に魅せられた。親父を説得してギターを買わせ、毎日毎日練習した。指先が破れて血が出ても、豆が潰れても、止めようとは思わなかった。
かろうじて入った高校は進学校とは言えなかったし、それなりに自由な校風は気に入っている。目的通りに軽音楽部に入り、部の仲間と憧れてたメタルバンドを組んだ。どういうわけか、結構見栄えの良い者五人がメンバーとなり、そこそこ……の実力をカバーするために、ビジュアル系に移行したわけだ。ロックをかじるものにとって、雰囲気作りは大事なことだ。学園祭でも、レンタルスタジオ主宰のライブでも、俺らはいつも人気バンドなのだ。軽音部のままに「ケイオン」というバンド名は、デスメタルのCOBのコピーバンドとして(町では)けっこう有名なのだ。
俺にとってラッキーだったのは、容姿が次第に過激になっていっても、姉ちゃんも親父も、ギターに熱中する俺を非難するようなことはなかった。それよりもおふくろの死から、なかなか立ち直れなかった俺が、夢中になるものを見つけたことで胸を撫で下ろしたと思う。
中一の二学期の中間試験中に、突然病院へ行けと言われた瞬間を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。明るくて頼りになって、優しかったおふくろの突然の死……。先生に連れられ飛び込んだ病室には、姉ちゃんの悲鳴のような泣き声が響いていた。顔が腫れあがって、血のにじんだ包帯が頭にぐるぐると巻かれたおふくろを見ても、死んだなんて思えなかった。駆け付けた親父も呆然とおふくろを見下ろしたままだった。
自転車に乗ったおふくろは左折したトラックに巻き込まれたと言うことだった。理不尽で唐突な、家族の死……。満タンに詰まっていた心の四分の一が、しぼんでしまった気がした。何をしてもどこにいても、傾いで立っているかかしみたいだった。でも、そんなへなちょこの俺を、救ってくれたのがギターだったんだ。
鏡に、俺のしかめっ面を覗きこむかっちゃんの顔が映った。鋏の小気味よい音を立てながら、
「それで、理香子は……、元気にやってるか?」
と、躊躇いがちに訊く。
「はあ? 先々週、土産持ってきてくれた時、あってんじゃんかよ」
「いや、理香子とはゆっくり話せなかったし……」
確かに、どこやらの行列ができる(だったかな)有名店のケーキを持ってきてくれて、こっちに戻ったと嬉しそうに言ったかっちゃんを、「あら、わざわざありがとう。じゃあ」で、さっさと玄関払いしていたような……。いや、いつもそんな感じだから、気にもしなかったけど。
理香子の愛想笑いを思い出すとむかっ腹が立って、しかめっ面になった。
「ジコチューの母親役が板についてきた」
かっちゃんはあははと乾いた笑い声を上げたが、我が家の事情はよく理解していると言いたげに、
「理香子は、あいつなりにお前を心配してるんだ」
と、しみじみと言った。
そんなことは言われなくてもわかっている。日替わりで、クラスに動揺をもたらす弁当だって、姉ちゃんなりの愛情の表し方なのだ。フルーツ弁当は俺の頬に出来たニキビのせいで、ビタミン不足を心配してのことだ。今日のタコウインナーは、ゆうべおふくろの幼稚園弁当を懐かしんだ俺の気持ちを汲んでのことだろう。晩飯だって、俺がうまいと一言褒めれば、4,5日同じおかずが続くのは普通で、五穀米が体に良いと聞いた日には、俺と親父が下痢してげっそりする一月間むりやり食わせた(炊き方を間違っていたらしい)。ただ、もう五年も主婦しているのに、今でも家族に忍耐を強いるのは、感性の問題だと俺は思う。姉ちゃんは決して「馬鹿」ではない。物理学を学ぶ大学院生で、ゴキブリを一瞬にして宇宙へ瞬間移動させる理論を研究中らしい(真面目な顔でのたまわっていたが、姉ちゃん流のジョークだと信じたい)。
倫太郎には、姉ちゃんがいるからね――おふくろの四十九日が終わっても涙が止まらなかった俺の肩をしっかり抱いて、高三だった姉ちゃんは言った。それから、独学で主婦業に取り組み始めた。アインシュタインとかシュレーディンガーを神と崇める猛勉少女にとって、母親任せだった家事ほど厄介なものはなかっただろう。でも、失敗をしながら頑張っていた姉ちゃんを知っているから、こんな頭にされても絞め殺そうとは思わなかったのだ。
「で、理香子は来年も大学に残るのか?」
かっちゃんはリズミカルな鋏の音に似あわない神妙な顔で訊ねてきた。
「らしいよ。研究室で助手するって言ってた。物理以外興味はないって、どっぷりつかってるからな」
「そっか……。じゃあ、理香子は男もいないんだ」
かっちゃんはにんまりと、鏡に映る俺に笑いかけた。その笑みが姉ちゃんをバカにしているようでムカッと来た。
姉ちゃんはちょっと個性的だが、目はぱっちりしているし、小柄で可愛いタイプだ。まあ、窓枠のような黒縁メガネはいただけないが。だから、大学でも結構言い寄る男もいたようだが、根っからの男嫌いか、おふくろの代わりという意識が極端に強かったのか、カレシらしきものはずっといなかった。
一番近い存在っていうのが、このかっちゃんだったのだが、結局二人は何もなく、それぞれの道へと進んだようだ。でも、もしかしたら、かっちゃんは姉ちゃんを好きなのか? そういえば、あんなにそっけなくされてんのに、実家へ帰るたびに土産を持って来ていた。
あの姉ちゃんにまさかなあと思いながら、かっちゃんをからかいたくなった。
「バカにすんじゃねーよ。姉ちゃんは熱愛中だ。今年中に嫁に行くんじゃね?」
「え……」
鏡に映ったかっちゃんの呆然とした顔に噴き出した時だ。耳元で鈍い鋏の音がした。ジョキンと。
「ぎょわああっ!」
耳たぶに激痛が走り、ケープにぼとぼとと赤い血が滴った。
久しぶりの投稿です。
今までにない軽いタッチを目指したのですが、どうかな?
どんなことでも、ご感想頂ければ嬉しいです。
中編程度の連載です。よろしくお願いします。