第四話
音がない世界。
彼の言葉に、ふと気がつけば、隣のテーブルの話し声も、流れるクラッシック音楽も、何も聞こえない。
「・・・・っ・・?!」
慌てて周囲を見渡し、自分の置かれた状況を把握した。
理解とは程遠い光景。
彼女は、思わず息を飲んだ。
ある人は、ワインの入ったグラスを口に付け。ある人はウェイターと楽しそうに話しをしていて。またある人は、待ち人が来るのを今か今かと待っていて。
良くできた彫刻のようだ、と思う。
まるで、不自然に切り取られた時間の中にいるようで。
20時27分11秒を指したまま止まった腕時計を見て、憶測が確信へと変わる。
「時間が・・、」
「気づかなかった?」
クスクス、と笑う声。
冷たい感覚が、首筋を伝う。
優しい笑顔に感じたこの感情の理由はきっと、その瞳のせい。
綺麗な翡翠の瞳は、緩んだ口元とは裏腹に冷たい色を宿している。
時を止めた世界の中、
彼はゆっくりと立ち上がった。
「僕は、トドケビト。ここに来たのは仕事なんだ」
わざわざこんなところに来たのは、警戒させないため。
時間を止めたのは、誰にも邪魔されないため。
自分のことを話したのは、これから起こることを理解させるため。
「ごめんね?」
腕を掴むと、逃さぬようにもう片方の腕を肩にまわす。彼女はまだ状況を理解できてないらしい。特に抵抗する様子もみせず、大人しく腕の中に収まった。
「君は、自分のことになると鈍感だね。もっと怖がるかと思った。・・・いや、君は『君』じゃないのか」
最初の言葉は、彼女に向けて。
最後の一言は独り言のように呟いた。
「戸惑うかもしれない。でも、目を逸らさないで」
真実は自分で見つけるしかない。
だって、世界が美しいとは限らないのだから。
ああ、それと。
付け加えるように彼は言う。
「今は『それ』を外さなくていい。だから」
痛みを堪えた様な表情をした彼は、何か言おうと言葉を繋げる。
その言葉は、闇に呑まれて届かなかったけれど。
ーー再び世界は時を刻む。
賑やかさを取り戻したホール。
銀之助は、誰もいなくなった向かいの席を眺める。
何も変わらない。
残酷なものだ、と思う。
一人欠けた世界は、誰も気づかずに時を刻むのだから。
彼はテーブルに置き去りになった腕時計を手に取る。
20時27分11秒を指したまま時を止めた時計。
それを、上着のポケットに大事そうにしまうと、彼はレストランを後にした。
すっかり日の暮れた街に吸い込まれるようにして消えていった彼の姿を見たものはなかった。