真夜中の病室
お兄さん、入院は初めてかい?
そうかいそうかい、そりゃあ不安だろうねぇ。
特に入院して初めての夜ってのは、なかなか寝付けないもんだ。まぁそう気にしなさんな。気にすればするほど、眠れなくなるからね。
私かい? そうだねぇ、もうずいぶん長いね。古参兵ってやつかな。
まぁ、こんなので良ければ話を聞こうじゃないか。
お兄さん、まだずいぶんお若いのに、どこがお悪いのかね。
へぇ、肝臓? 肝硬変? そいつは大変だ。
うん、よく見りゃ白目も黄色くなってるねぇ、黄疸ってやつだ。
酒? 酒かい?
お兄さん、見たところまだ30代くらいじゃないのかい、そんなに飲んでたのかい?
え、28歳? いや、そいつは失礼。いやぁ、やっぱり病気になると歳はわからないもんだねぇ。
いや、しかしだね? 28歳で肝硬変ってのは、ずいぶんと酒が過ぎたみたいだねぇ? なにか、そんなに酒に走らないといけないことでもあったのかい?
ほうほう、奥さんが? 上司と浮気。……いやぁ、そいつは大変だ。そりゃあ酒に逃げたくもなるねぇ。
わかるわけがない? そんな事はないよ。私も色々経験したんだけどね? その中にゃ女房の浮気ってのもあるんだよ。
私は若い頃は船乗りでね。
あぁいやいや、漁師じゃなくて、タンカーだよ。国際航路のね。
長いときは半年以上海の上でねぇ。家に帰れるのが年に3回なんてことも珍しくないんだよ。
ある日4ヶ月ぶりに家に帰ったら、女房が見知らぬ男と一緒にベッドにいてねぇ。
え? どうしたのかって?
いやぁ、かえって冷静になっちゃってねぇ。証拠写真をその場で撮って、その足で弁護士事務所に行って、あっさり離婚したよ。
女房は結局、一言も詫びたりはしなかったねぇ。
『寂しかった』
の一言でね。
結婚する時に、私は船乗りだ、滅多に家に帰れない、それでも良いのかいって聞いたんだけどねぇ。
まぁまぁ、私の話なんてどうでもいいじゃないですか。
お兄さん、その若さで酒に逃げたくなるのもわかる。確かに辛いよねぇ。女房の浮気ってのは。
そう言う目に遭っても、大抵は男なら我慢しろ、だ。辛いよねぇ。
ただねぇお兄さん、病院に来たってことは、まだ命に縁があったんだよ。
いやいや、未練じゃない。縁だよ、縁。
命に縁が無い者はね、ころんだだけで死ぬ。道を歩いてるだけで、理不尽な事故で命を落とす。
でもね、命に縁がある人はね、心臓が一度止まっても生きるんだよ。
どれ、そろそろ眠くなってきたかい。
良いよ良いよ、遠慮することはない。病人はね、寝るモンだよ。
寝て、医者の言うこと聞いて、早く元気になりな。
あぁそれからね、ここの看護師さん、オバサン達は腕が良いから、安心しな。採血とか点滴も上手だよ。
肝臓は長患いになるだろうけど、頑張りすぎないようにね。何事も程々が一番だ。
あぁゴメンゴメン、眠くなってきたみたいだねぇ。目がトロんとなってるよ。
じゃあ、私もそろそろ、だね。
「……って、そこまで話したのは覚えてるんですよ」
「はいはい、そうですか」
若い医師はさほど興味もなさそうに、黄疸の酷い患者の話を聞き流した。
中性脂肪やガンマGPT、それにASTやALTといった肝臓の状態を示す数値は、どれもバカバカしいほどに絶望的な状況を示唆している。
「城下さん、とりあえずね。もう肝炎通り越して肝硬変、このままだと肝臓がん一直線になっちゃいますから。アルコール依存症の治療も並行して進めましょうか」
「はい……いや、あの先生? この部屋って本当に昨日から俺1人だったんですか? 隣に、何ていうかこう、ちょっと癖のある話し方の爺さんがいませんでした? 元船乗りの」
「いないですよ。昨日はこの病室が空いてましたからね、この個室にしましたけど。四人部屋が空いたらそこに頂くことになります。個室だと入院とかの治療費とは別に、個室料金かかっちゃいますから」
「あの、先生」
28歳の患者、城下は改めて病室内を見回す。
確かに個室だ。一人部屋で、同室のものなどどこにもいない。
昨夜、夢現の状態で話を聞いてくれた、あのタンカーの話をしてくれた老人は一体どこから来てどこへ行ったのか。
半ば寝ながら見た夢にしては、恐ろしくリアルだった。話の内容も異様なくらいに整合性がとれる。
少なくとも、浮気がバレた後の、城下の妻の言い訳の数百倍は筋道が通っている話だった。
「個室料金って、どれくらいですか」
「1日8000円です。まぁご希望であれば、4人部屋が空いてからも個室を使っていただけますけど」
幸いなことに、城下には金だけはあった。
元妻と、その浮気相手からふんだくれるだけふんだくった慰謝料がある。
ただでさえ浮気と、その後のやり取りとで神経をすり減らしてしまったのだ。これ以上ストレスにさらされたくない。
「個室が良いです」
「わかりました。じゃあ、医事課のものが後でここに来ますから、僕からも伝えときます」
「あと、酒もやめたいです……それに、ちょっとなんて言うかこう、カウンセリングっていうんですか……そういうのも受けたいです」
「大丈夫ですよ。心療内科の先生にも申し送りしときますからね。いずれにしてもアルコール依存は内科だけじゃどうにも出来ないからね。長期戦を覚悟してくださいね」
「わかりました……」
医師が病室を出て、入れ替わりになるようにベテランの風格のある看護師が病室へやってきた。
「城下さーん、体温と血圧測ります。具合どうですか?」
「大丈夫です」
「いやいや、大丈夫だったらこんなとこいませんよぉ」
看護師は明るくそう話すと、非接触式体温計を操作して『38度、やっぱりねぇ、肝臓が炎症起こしてるんですって』と話してなにかをメモに書き取る。
「熱のせい、だったのかな……あの船乗りの爺さん」
「あら城下さん、三宅さんに会ったの?」
「え? 三宅さん?」
「そうそう、タンカー乗りの。あらぁ、じゃあ大丈夫よ。元気になるわよぉ」
実に軽い調子で、看護師はさも当然のように医師とも看護師とも違う名前を挙げる。
「え? えっ? ちょ、誰、その三宅さん」
「この病院がね、建て変わる前からずーっといる人」
「ひ、人っていうか、それ幽霊――」
「いやいや、何ていうのかしらね、守り神? 的な? 三宅さんと会った人はね、元気になって退院するの。良かったわねぇ、城下さんは命に縁があったのよ」
そうあっさりと言い残して、看護師は病室を出ていった。
「……命に縁があった……か……」
ベッドの上で横たわったまま、城下はぼんやりと天井を見上げる。
昨夜聞いた、あの穏やかな声は鮮明に思い出せる。
『命に縁がある人はね、心臓が一度止まっても生きるんだよ』
ふぅ、と大きく息を吐いて、城下は病室の窓から外を見る。
これで海やタンカーでも見えれば完璧だったのに。
そうぼんやり考えていると、どこからか声が聞こえてくる。
人生そううまくは行かないもんだねぇ。流石に長野からじゃタンカーは見えないよ。
苦笑交じりの穏やかな老人の声に、城下は気づかぬ内に微笑んでいた。
今回は、今まであまり書いたことがなかった文体に挑戦してみました。




