拉致られて異世界
次に目覚めた時、蒼一の目に飛び込んできたのはアスファルトの灰色ではなく、遮る物が一つとして存在しない空の青色だった。
(ここは……?俺は気を失って、一体どうなったんだ)
取り合えず周囲の状況を見ようと身体を起こすつもりで蒼一が動こうとすると、グリンと視界が九十度その場で動き、正面に向き直る。
視線の先はこれまた青、ただし今度は空だけではなく海の青も視界に映っていた。
そのまま視線をぐるりと一周させ、蒼一は自分が海岸に居る事に気が付く。
(海?俺は一体何処まで連れて来られたんだ。そもそも俺を拉致ったアイツらは?)
わざわざ人を連れ去っておきながらこんな場所に放置するその意図は何だと蒼一が考えを巡らせ、即座に浮かび上がって来たのは良くある人間を集めたサバイバルデスゲームだったが、いやいやまさかそんなと、現実にそんな事がある訳が無いと非現実的な考えは切り捨てて、状況を少しでも把握すべく海岸沿いに移動する。
(右を見ても左を見ても海、か。まさか島……?)
蒼一のその予想は当たり、海岸沿いに回って見たが何時まで経っても片側の海が途切れる様子は無かった。
一体自分はどれ程の時間眠っていたのか、少なくともあの住宅街から車か何かで運び、そこから港へ行き船に乗せられたとすれば少なくても五時間、六時間は眠らされていたに違いない。
(こんな所まで連れて来て、本当に何が目的なんだ?)
それを考える為に、蒼一は意識を失うまでに男が話していた内容を思い返す。
("異世界転生に興味はありませんか?"って、まさかここが異世界だってか?。それならまだ無人島を舞台にしたデスゲームに参加させられたって方が現実味もあるが)
或いは俗世から隔絶されたこの無人島こそ、あの男が言う"異世界"という事なのかも知れない。
異世界の定義なんて人それぞれだし、それがある意味一番有り得そうだなと考えながら蒼一は男達の会話を再び思い返すも、しかし現状の答えになりそうな新情報は何もないと蒼一は思考を切り替える。
(とりあえず、状況確認の為にも海岸だけじゃなく森の中にも入るべきだよなぁ……)
あまり気乗りはしないが、このまま海岸に居ても仕方がないと蒼一は意を決して森の中へと視線を移す。
案の定、誰の手も入っていない森の中は鬱蒼としており、一面緑でそれ以外の情報など視覚からは何も入っては来ない。
(クソ、森に入ってからなんか頭が重いな。ノイズが走ってるみたいだ……それにしても木とか草なんか見たところで、それが何かも分からなければ日本に生えてるような物かどうかも分からんのだよなぁ)
大体、蒼一の人生の中で草木に対して興味を持った瞬間など無いに等しく、とりあえず視界に見える木が樹皮の色からして白樺ではないというのが精々分かるくらいである。
大体三十分は森の中を彷徨っただろうか、何一つ進展も無くそろそろ海岸に戻ろうかと考えていた時、ガサガサと右の茂みから何やら物音が聞こえて来た。
(生き物か?)
今まで感じる事の無かった生き物の気配に蒼一が思わず気を引き締めた時、それは姿を露にする。
緑色の肌に身長は一メートル後半くらいの人型、尖った耳に襤褸を纏ったその姿は――
「グゲゲッ」
(ゴブ……リン?)
ゴブリン、脳裏に過ったその言葉を蒼一は狂ったように反芻させる。
有り得ない――しかし実際に目の前に居るそれを否定する材料が蒼一にはまるで無く、目の前で動く生き物の存否を問い続けていた。
(体毛の無い緑色の猿、なんて訳もないか。まさか、本当に異世界?)
よく語られるファンタジー世界から飛び出してきたような生物を見て、そんな考えが脳裏を過るもその現実感の無さに、実は夢ではないかという考えも浮かんだがそれも一瞬で消えていく。
(夢にしては、なんかなぁ……変な話だけど、現実感が無いのに妙にリアルだし、本当自分でも何言ってるか分からんが)
自分の考えている事が矛盾しているのは分かっているが、それ以外に例えようもない感覚を味わう蒼一は、ゴブリンらしき生き物がそのまま茂みの奥まで消えていくのを黙って見送る。
(大きさからして普通のゴブリンというよりは、ゴブリンとホブゴブリンの間って感じだな。何か探してる様子だったけど)
あの外見と先程の鳴き声からして、少なくとも会話が成り立つようにも思えない蒼一はそれ以上の接触は避け、とりあえずスタート地点である砂浜まで戻り状況を整理する。
ここは恐らく無人島、生物の姿は虫なんかを除外すればあのゴブリンらしき生物だけ、人間や小動物は影すら見ていない。
現状で警戒が必要な存在はあのゴブリンモドキだけなのだが……。
(アイツ、俺の前に現れても襲ってくる気配が無かったな。そもそも俺に気付いた様子も無かったような?)
蒼一の視点からしてゴブリンモドキとの間に遮る物は何もなかった筈だし、距離的に五メートルも離れては居なかった筈だ。
あのゴブリンモドキは何かを探している様子で辺りをキョロキョロしており、蒼一に気が付かない訳がないし、それならば何らかのリアクションがあって然るべきだろう。
(そういや、俺の荷物とかどうなったんだ?)
本来であれば真っ先に確認すべきところを完全に失念していた事に気が付き、蒼一は砂浜を見回すもそれらしき荷物は落ちていない。
ならばスーツの内ポケットに入れていたスマートフォンはどうだろうかと考えた時だ。
(ん、あ?)
その違和感に、今さらになって蒼一は気が付いた。
視線は自由に動くもののそれ以外はまるで言う事を聞かない、そもそも足元を見下ろしても自分の身体が見当たらないのだ。
(俺の身体が……無い?)
普通であれば取り乱して然るべきその光景に、しかし蒼一の心は僅かに騒めくだけで身体が無いという事実をアッサリと飲み込んでしまう。
(透明人間って感じじゃないな……そもそも物理的に存在してない?。それならアイツが俺を見つけられなかった事も納得出来るが)
その場合、次に出てくる疑問はじゃあ自分の身体は一体どういう状態なのかという問題だ。
触覚等の感覚は全く感じられないし、視線以外何かを動かせる感じもしない。
感じる感覚は頭の中を走る不快なノイズばかりで、まさか生首が浮いてるという訳も無いだろう。
(喋れないし、口もないって事か。いや肺が無いから口だけあってもどのみち喋れないだろうけど)
自分の事の筈なのにまるで他人事のように何処か楽観的に物事を考える蒼一は、今一度男の話していた内容を思い返す。
異世界転生をさせられたというならば、自分は何かに転生させられた筈だ。
(意識が朦朧としてて判然としてないけど、最後の方に俺を何に入れるかどうかとか話してたような……)
会話の大半は訳の分からない内容だったが、その一部分で何か重大な事を喋っていたのは蒼一も覚えていた。
(確か、最後は"異世界に転生して貰う"とか……あれ、それ最初に声を掛けられた時と何も変わらないぞ。大体、転生させて何に入れるのかって質問に対して異世界に転生して貰うって会話が全然嚙み合って――いや待て、異世界に転生?)
赤髪の男の質問に対する答えとしては不自然な白衣の男の回答を思い返して蒼一が一つの可能性に辿り着く。
実態を持たぬ肉体にフリーカメラのように動く視点、まるで空が、大地が、自然そのものが自分と同化したかのようなこの感じは――
(異世界に転生って、"異世界"そのものに転生させるって事か?……ハ、ハハハ――)
蒼一が導き出したその結論の正否を答えられる者など誰も居なかったが、蒼一はそれが正解であると半ば確信を得ると同時に、乾いた笑いが自然と漏れ出す。
(アハハハハハハハハッ―――!)
自身の置かれた訳の分からない状況に込み上げてくる可笑しさを抑えきれず、そうやって一頻りの哄笑を終えた後、蒼一は有らん限りの感情を込めて叫ぶ。
("異世界転生"って――そうじゃねぇぇぇぇぇぇぇ!!)
文字通り世界に轟くその渾身のツッコミから、蒼一の奇妙な"異世界"生活は始まったのであった。