彼岸花の君
川の土手にも彼岸花が咲き始める。すらりとした茎から伸びる深紅の蕊の曲線は美しい猫ひげのようであり、繊細に力強く、燃える赤々しさが秋の深まりを感じさせた。
田畑の畦道を埋め始めたこの季節を、私は一年間ずっと待っていた。
ある少女と出会ったのがこの季節であり、大きな傷を拵えたのも今では誇らしい記憶である。
町とは反対の山の麓には、かつてこの地域を治めていた旧家の屋敷群が残り、その一件の娘と私は出会った。住む世界の異なる彼女と私とを結びつけたのが、眼の前で爛々と咲き誇る彼岸花である。
日付も憶えている。
少女の言葉は勿論、一挙手一投足に至るまで、忘れたことはない。
いや。忘れることなどできなかった。
友人に用事を頼まれ、断り切れなかった私の帰宅は夜九時を越えていた。虫の音がいやに大きく聞こえ、冴えた満月が足許を静かに照らす。
誰も居ない夜道には微風が吹き、空気の澄んだ夜は、一人で考え事をするには、とても気持ちのいい季節であった。
収穫の終わった田圃の土の匂いを感じる視界の隅に、きらりと何かが艶めく。
それは彼岸花であった。
街灯の頼りない光に茫と浮かび、月明かりを反す花は一瞬で私を虜にする。今まで意識することもなかった花は殊の外美しく、作り物めいた造形の妖しさに心を奪われた。
遅くなった苛立ちに乱れ掛かった心も気が付けば凪ぎ、友人を責める気も失われてゆく。
お好きですか。
自分一人きりと思っていた私には、驚きも一入であった。思わず振り返れば月を背負う人影が二つ、一間ほどの間を空けて立っていた。
夜にも係わらず陽傘を差し、表情は見えないものの年若そうな女の声は、静かで弱く、夜に消え入りそうな玲瓏な声であった。
隣で傘を差し出すもう一人も同世代らしい少女であり、私が振り向いて以降は微動もしない。
返答に窮した私に、言葉が付け加えられる。
彼岸花、お好きですか。
出し抜けに投げ掛けられた問いに素直に答えたのは、相手が少女であったことが大きかったに違いない。儚く灯り夜に彩を添える彼岸花は婀娜めき、私を魅了した。
今、好きになりました。
私の言葉に少女は満足気に頷き、幽かに漏れた吐息は華やかに夜に溶ける。それ以上彼女は何も云わず、二人連れ立って屋敷群へと立ち消えたのだった。
一人残された私は身体が動かず、二つの影法師を眼で追うことしかできなかった。先程まで煩いほどに響いていた虫の音は、嘘のように鳴りを潜めた。
今の少女は夢ではなかったか。狐花の名を受けて、狐狸の類に抓まれたのではなかったか。夢と現の区別も曖昧に滲み、境界を彷徨う模糊とした感情のまま夜を明かした。
その光景は夢に出るほど強く印象に残っていた。
満月の彼岸花に、陽傘の少女。
代わり映えのしない、繰り返しであった日常に現れた少女の存在が、私を外へと駆り立てた。
休日の朝は寝過ごすのが常であったはずが、陽が昇る前には眼が覚めていた。少女のことが引っ掛かり、寝付かれなかったけれど、眼覚めは悪くなかった。
秋晴れの一日が予想される夜明けは涼しく、山際から緩やかに色合いの変わる空は幻想的に広がる。雲を抜ける朝陽はグラデーションを描く。
早朝から家を出たのは、昨日の名残に触れたかったのかもしれない。
彼岸花までの道中では、犬の散歩をするもの、ジョギングをするもの、部活に向かう高校生と、昨晩の静けさが嘘のようであった。
自分の眠っている時間から世界が動き始めていることを知り、緩やかに明るむ空が新鮮であった。
朝から世界は命に溢れていた。
きらきらと世界が煌めきを増してゆくのとは対照的に、昨晩の彼岸花からは少しく色が抜け始め、燃えるように見えた赤は白との斑となり、ぴんと張っていた蕊は肩を落とす。
輝く世界の中で、彼岸花だけが死へと進んでいた。
盛りを過ぎる彼岸花に気を留める人は、私の他には一人もいなかった。
お好きですか。
昨晩と同じ言葉が。
昨晩と同じ声が。
昨晩と同じ調子で。
耳に届いた。
たった一言ながら、その音色を忘れるはずがなかった。
振り返れば二人の少女があり、一方は血の気がなく儚い、ぞっとするほど整った顔をしており、薄暗い中ではさらに蒼褪めて見えた。
一方の少女は儚さとは無縁の鋭い眼差しで、凛とした佇まいのまま蒼い少女へ紺青の陽傘を差し掛け、ひっそりと付き添っていた。
私の顔を認めた少女は、昨夜と同じ人間に声を掛けたものと気付いたようだった。
あら、昨晩の。
嫋やかな微笑とともに言葉を続けると、傘から逃れて彼岸花の傍らにしゃがみ込む。
枯れゆく花を慰めるように、蕊を一本ずつ撫で始め、肉付きの薄い指が触れる度、茎に、花に、色が戻るかと思われた。
御供の傘が再び少女へと影を落とし、近付いた彼女の切れ長の瞳が射貫くように私を見つめた。
鋭い視線に思わず息を吞む。
陽傘に隠れた蒼い少女は一頻り花を慈しんだ後に立ち上がり、真っ直ぐ私へと向き直った。
うちにはよい彼岸花がありますよ。
よければ、あなたに差し上げましょう。
少女の言葉にまず反応を示したのは御供の少女であり、知らぬものを招くことは御止しなさいと、低い調子で感情もなく、有無を云わせぬ響きであった。
けれど彼女はどこ吹く風と、御供に優しく微笑み掛け、私の自信作をお見せ致しましょう、と軽やかに告げる。
余りに無邪気な発案に御供はそれ以上何も云えず、一度開いた口を静かに閉じる。矛先が私に向いたのがわかった。
少女は口振り同様、驚くほど軽やかに歩き出し、くるくると踊り、空を踏むような足取りであった。
呆気に取られた私は、振り返り手招く少女に促されるまま彼女の背中を追い、隣で零れた御供の溜息は聞こえない振りをした。
二人の淀みない歩みに嫌な予感がしたが、彼女たちは山麓の屋敷に縁のある、お嬢様とその付き人であった。
彼岸花の数が一際多い道中ですれ違った老人が二人に会釈をし、私に怪訝な眼差しを向けていたことも予想の裏付けとなった。
次第に人の往来がなくなるとともに田畑の割合が増し、豪農の名残を感じさせる風景が広がる。
やがて少女が足を止めた屋敷に私は眩暈を覚えた。
高い塀には中を窺い覗ける隙間もなく、加えて眼隠しのように背の高い松が外界を拒絶するように点在している。建物の屋根が僅かに見えるものの、しんと静まった敷地からは人の気配を感じることもない。
御供が重厚な門扉を開き、少女が悠々と歩み入る。
少女の背後に広がる庭の景色は荘厳な庭園であった。
飛び石が母屋へと伸び、玉砂利が間を埋める。整えられた松の枝葉が柔らかなシルエットを描き、瓢箪型の池は空を映す。
庭の水面が静かに波立つのは、美しい鯉であった。立ち並ぶ燈籠を透かした池の奥には縁側が覗き、人の背丈ほどもある大きな石甕と並ぶのは手水鉢。
名前も知らない木花が其処此処に植わりながらも散った花弁や木の葉は一枚も見当たらない。
整いに整った庭の誂えに狼狽える私を余所に、少女はそっと手を差し伸べる。御供も既に庭へ踏み入れており、扉に掌を添え、私の様子を窺っていた。
きっとこれ以上二の足を踏めば、来客をよく思わない御供によって私は、外の世界に取り残されることが理解できた。
御供の瞳に宿る深い黒羽色が雄弁に物語る。
彼女は私にいい顔をしていないから。
恐る恐る重ねた少女の手は朝露の冷たさを孕み、細く滑らかな指が私の指を握る。一歩境界を越えると、早朝の静けさとは異なる静謐が満ちていた。
鯉が揺蕩っているはずが、まるで生き物の気配を感じない、耳鳴りがするほど森閑とした空間であった。
外よりも温度の低い庭の空気に交じる花の匂いは甘く、三人が踏む玉砂利の音は嫌に大きく私の耳に響いた。
ぼんやりとした微睡みへ誘われる感覚に足元が覚束なくなり、がくりと膝が折れた私を支えたのは御供の少女であった。
私が少女と手を繋いだままである姿に向けられる視線は如何にも険呑であった。
だからこそ私を支えてくれたのは優しさではない。
手を繋いだまま私が倒れると、主人である少女が巻き込まれてしまうから。ただ主人を守るための行動。
季節の植物が丁寧に世話された庭で色付く花は露を蓄え、零れ漏る朝陽に虹を映す。
こちらです、と連れられた先には格子を打った彼岸花の区画があり、他とは異なり、周囲との調和も無視をして、好きなものを好きなように押し込んだ場所で会った。
等間隔に並び、丈も等しく揃えられ、開き具合も色合いすら均一な、作り物めいた違和があった。何よりも異質であったのは、その花の密度であり、蕊と蕊が絡み、花粉が交じり、境を失うように乱れていた。
この区画だけは私のもので、以前から育てていたのです。
最近は数が増えてしまいましたから、間引かないといけないのですけれど、とても悩ましいですね。
愉し気に語る声は小鳥の囀りで、彼岸花を愛でる人が見つかり嬉しいと僅かに眼尻を下げる。その笑みは、今にも壊れてしまいそうに儚い。
彼岸花はゆらゆらと婀娜めくように揺れ、血の気のない少女との対比で一層鮮やかに匂い立つ。
その日、半ば強引に一株を分け与えられ、私は彼岸花を育てることになった。
親には縁起でも無いと煙たがられたものの、それ以上何かを云われることはなく、野生のものとは比べるべくもない美しい一株を庭へ移した。
それが数年前のことであった。
その年の球根から迎えた翌秋の彼岸。
月が美しい季節に再会した少女の花は残念なまでに平凡な花を咲かせた。
小さな庭を区切り、陽が当たるように、時には肥料も与え、少女の株を贔屓に愛でたはずが、土手から拾ってきたものと変わらない詰まらなさであった。
何がいけなかったのか。
美しく育てる秘訣があるのか。
知りたくて何度も畦道を訪ね、屋敷の近くまで足を伸ばしてみるも、終ぞ二人に再会することはなかった。
まるで二人の存在すら幻であったように、幽かな気配もなく、屋敷からも物音は一つとして聞こえて来ない。
本に当たり、パソコンに頼り、花屋に尋ねてみても、妙案が得られることはなかった。
屋敷の固い扉を叩くこともできず、二人に会えないまま季節は移ろう。
初めて二人に出会ってから幾度目かの秋の逢魔が時、ついに私は再会を果たした。
かつて立ち止まった畦道の中で彼岸花に過去を重ねて懐かしさに耽る中、幽かに届く二人分の足音に私の心は俄に浮き立ち、静かに振り返る。
直前の通り雨に濡れた土を歩む二人は、時の流れから取り残されたように変わりなく、眼許の涼しさ、顔色の悪さ、髪の長さ、艶やかさ、果ては服装まで、過去の鏡写しであった。
陽傘を差す御供の様子も変わらない。
背丈も、射るような視線の鋭さも、ぴくりとも動かない表情も、見蕩れるばかりの立ち居振る舞いも。
こんばんは。
初めて私から声を掛けた声は少しだけ軽い。
お久し振りです。
透き通る囁きも懐かしく、彼女が自分を憶えていたことを密かに嬉しく思った。
彼岸花は、お好きですか。
はい。とても。
初めて出会った時の繰り返しのように、似た言葉が続くのはきっと偶然ではない。それはまるで合い言葉のように。
風に攫われそうな細い少女に、彼岸花が綺麗に咲かない旨を告げると、白魚の指を口唇に添え、上品な微笑みを零した。
秘密を打ち明けるように私の耳元に口を近付ける彼女の吐息が耳朶を撫で、花を濾した芳しさと仄かな熱に惑う。
いつかの朝焼けと同じく、差し出された少女の手を取り、私は二度目の屋敷を訪ねたのだった。
御供が門を開き、少女が進み私が後を追う。
屋敷の内もまた以前の記憶と変わらなかった。
月が薄雲に隠れる今日は、庭も息を潜め、梢が戦ぎもせず、瓢箪の鯉も姿を隠す。
不安定なまま少女の手に導かれ、濡れた飛石を渡り、玉砂利を踏む。
ちらと捉えたのは芒や菊が飾られた花手水。
松も燈籠も、池も、花の咲き具合も。
何も変わってはいなかった。
しかし少しだけ大人になった私には、不安心で居心地の悪さを感じる場所ではなくなっていた。
彼岸花の区画もまた広がりもせず、狭まりもせず、まったく同じ広さに同じだけの株が植わっていた。
間引かれた気配もなく、花同士が手を取り合い、茎が捻れ、座ることもできそうに絡み合った、禍々しいほど赤い彼岸花にぞっとした。
敷地の内には誰の気配もなく、障子越しに漏れる一筋の光もない。
本当に何も変わっていないように見えた。
少女も、御供も、屋敷も、庭も。
私が大学生になったことの他、この世界は当時と何一つ変わっていない。
不意に鯉が跳ね、重い水音の直後に小さく水の破裂音が続く。
水面の波紋が凪ぐや否や燈籠が点り、穏やかな明滅が微睡むような陰影を描く。
陰にも茫と明かりが届き、あるいは一層闇を深くする。
少女の濃紺、御供の紫紺は溶けていた輪郭を浮かび上がらせる。燈籠から零れた光の粉が三人の間を抜け、ほんの一瞬間表情を照らす。
そっと盗み見た御供は冷然と私へと視線を向けており、私は交錯した視線をゆっくりと少女へ戻した。
灯火に照らされる彼岸花の深紅は一層純度を増し、濡れたようにぬらりと輝きを返す。燃え広がる蕊は私の視線を引き付けて放さなかった。
誰も口を開かず、風も吹かず、幽かに月の匂いが届く。寂寞に空気さえ凍る。
屈んでいた少女が私へ振り返り、彼岸花に色づいた表情で告げる。
どれでもお好きな一本を差し上げましょう。
桜色の口唇が可愛らしく笑みを湛えて夜に歌う。
鈴が鳴るように空気が震え、遅れて色香が漂う。
前髪の庇越しに見える少女の双眸に火が揺らぐ。それは強くなり、弱くなり。規則的に明滅する橙と黄と朱と赤の移ろいに、模糊とした意識のまま咲き揃った彼岸花を見遣り、強く私を呼び寄せる一輪を指差した。
あの花がいいです。
指差した一輪に片頬笑む少女は、細い指を土へ潜らせ、私の望みを取り出した。別れを惜しむ他の株を優しくいなし、茎にまで花唇の色が染みるように濃い深緑を恍惚と眺めていた。彼女の白い膚を汚す土の匂いには鉄が混じる。
一輪挿しにしてください。
一輪を渡される最中に触れた少女の指が幽かに熱を奪う。小指の太さの茎を握り、夢見心地で彼女の口唇を読んでいた。
不意に差した一陣の風に燈籠は一様に炎を失い、残された夜の庭に今は月の影もない。
三つの影法師が静かに佇んでいた。
御供の小さな咳払いに我に返り、長居の謝罪と礼を伝え、足許の暗い夜道を一人、彼岸花とともに帰途に就いた。
真っ暗な自室に持ち帰った彼岸花を前に、最後に告げられた少女の言葉が蘇る。
内緒話の耳打ちが私の頭を満たしていた。
燐光を発するような蠱惑的な瞬きは脈動するようであり、花の輪郭を夜に広げ、差し始めた月影が透かす影には女郎蜘蛛の糸繰りを見た。
茎を摘まんで根元から登ってゆけば心地好い冷たさが爪先から指へ、手首へ、肘へと伝わり、離れることなくいつまでも纏わり付いた。
そっと触れ、花粉が弾ける。
乾いた粉はきらりと部屋に煌めき、瞬く間に流れ去る。
抽斗のナイフを振るい、月明かりに閃いた刃は一息に茎を断つ。
瞬間、噎せるような濃い匂いが広がり、一秒ごとに重なってゆく。
それは草の汁だけではなく、憶えのある命と死の匂いであった。
さらに混じるのは少女の俤。
切り口に集まる紅の珠が次第に膨らみ、やがて耐え切れず、一つ二つと止めどなく、小さな花が床に散った。
深紅に月が輝き、答えに辿り着く。
どうして彼女の花が、あれほどまでに赤いのか。
どうして彼女の膚はあれほどまでに白いのか。
美しい花の秘密が紐解かれ、私は決めるのであった。
次の花には間に合うだろう。
求める美しさが得られるのであれば、多少の犠牲など些末となろう。
少女の片鱗に触れ、知らず頬が緩む私を静かな月だけが見ていた。