第8話
弘翔と菫が出かけた後の家の自室で、桜子はベッドの上で布団をかぶってうずくまっていた。
何をどう考えてみても理解不能なことばかりで、どんなに結論を導き出そうと焦ってみても結局は同じことの堂々巡りになってしまうのだった。
今日は鳴海弘翔が来るというので、桜子はせっかくの休日にそれなりの早起きをしなくてはならなかった。普段であれば8時くらいまでは寝過ごすことが多いのだが。それもまた癪に障るところではあった。目を覚まして階下へ降りると、キッチンでは母の菫が上機嫌でサンドウィッチを作っていた。
「おはようサクラ。あら、今日は早いのね」
“誰のせいで!”という言葉を噛み殺して、何とか「おはよう」と平静を装う。せっかくの日曜の朝になるべくごたごたは避けたいという思いがあった。
「何でサンドウィッチなんか作ってるの?」
問い掛ける桜子に、
「今日はお天気もいいし、お出掛けしようと思って」
と、いとも能天気に答える菫。
「お出掛けって、今日は鳴海が来るんでしょ?」
「だから三人で、ね」
桜子は思わず目をむいた。一体全体、何が起こっているのか。特別用もないのにのこのことやって来る鳴海も鳴海なら、親しくもない娘の同級生とサンドウィッチなんか持ってお出掛けっていう母の言動も常軌を逸しているとしか思えなかった。“何が三人で、ね、だ!”
「ちょっと何それ、意味分かんないし。何処へ行くのか知らないけど、私はイヤだからね。絶対行かないんだから。そもそも急にそんなこと言っても、鳴海だって承知するかどうか分かんないじゃない」
そう言いつつも、鳴海は何の躊躇いもなく承知してしまうのではないか、という、ぼんやりとした予感のようなものはあった。何故なら、そのようになってしまうのが今までの流れだったからだ。そして母と弘翔の交流の中で、桜子だけがその流れに乗れていない、というのが現状であるからだ。
「あら、残念ね。でもどうしましょう、もうサンドウィッチ三人分作っちゃったし…」
「私の分置いてってよ、後で食べるから」
「まぁ、その手があったわね。あなた頭いいわ」
朝から上機嫌で見るからに浮かれている母の言動に、桜子は軽い目眩を覚えた。
そして桜子が危惧した通り、鳴海弘翔は菫の申し出に何の躊躇も見せずにお弁当を持って出かけてしまったのだ。
そんな訳で、一人取り残された桜子はお留守番となり、布団を引っ被ってふて寝を決め込むのだった。
親子然と連れ立って歩く二人を、京香はつかず離れず尾行していた。その胸中には、並んで歩く対象が桜子でなかったことへの安堵があった。が、高校生の男子と、その同級生の母親、という組み合わせは京香にとってはかなり異様なものではあった。だがはた目から見れば普通に仲の良い親子に見える事だろう。時折桜子の母親が話し掛け弘翔が答えたりはしているものの、特別会話が弾んでいるようにも見えない。ただ黙々と、どこかへ向かって歩き続けていた。
今日は弘翔と買い物に行く約束だった。それは結構前から予定されていたことである。それが突然、何の説明もないままに反故にされてしまった。弘翔はただ“どうしても外せない大事な用”とだけ言っていたが、それだけでは全く納得出来るものではなかった。今、こうして桜子の母親と一緒に移動しているということは、その先で京香にも説明出来ないような重大な何かが起こるということだろう。そう思うと彼女の中に若干の緊張が走った。それがどれほどの一大事なのか、果たしてその場に自分がいてよいものだろうか。ひたすら尾行を続けながらも、本当にこのまま二人の目的地まで付いて行っていいものかどうか判断に迷うのであった。
もしかすると自分は見てはいけないものを見てしまうのかも知れない。それを見てしまうことで何か後悔することになってしまうかも知れない。いつの間にか京香の頭の中にはそのような負の逡巡が瀰漫し始めていた。
尾行をやめる決断を下せずに、どこか中途半端な気持ちで二人を追う京香は、果たして二人がどこへ向かおうとしているかに思いを巡らしてみた。すると今まで辿ってきた道筋から考えると、現在地までの道程がかなりムダの多いものであることが分かった。それは一見、思い付きで歩を進めているようにも思えるのだが、もしかすると尾行者の目を眩ますためなのかも知れない。そう思うことで京香の緊張は一層増した。それ程までに重大な何かがこの先に待ち受けているのだろうか。一体それが何なのか、京香には見当もつかなかった。
「うん、とにかく行くしかない。虎穴にいらずんば……」
迷いを捨て決意も新たに尾行を続ける京香だった。
尾行する京香の後方、辛うじて確認できるほどの距離に四日市通の姿があった。坂崎美玖から京香と鳴海弘翔の話を聞き、暇つぶしも兼ねて桜子の家の方へ向かう途中で京香の姿を認め、その後を付けていたのだ。
京香が誰かを尾行していることは明白であったが、その対象までは視認出来なかった。が、それが誰であるかは自ずと類推することが出来る。鳴海弘翔と春日野桜子である。実際にはその認識は間違っていたのだが、彼はその二人であると確信していた。まさか桜子の母親・菫であるとは夢にも思っていなかった。
西野京香が弘翔と桜子を尾行している、という大前提のもと、通は京香を尾行し始めた。しばらくすると、その道筋がかなりおかしなものであることが分かった。
「あれ、何で遠回りしてるんだ。まさか道に迷ったとかないよな、地元なんだし」
四日市の自宅はこのすぐ近くで、桜子も小中と同じ通学区だった。鳴海弘翔の下宿先も四日市の家から比較的近く、まず道を間違えるというようなことは考えづらかった。だとすると、このおかしな道順は何を意味してるのだろうか。
「もしかして、ただの散歩か」
京香が尾行しているのが弘翔と桜子だと思い込んでいる四日市にしてみれば、二人はデートしているということなので、意外とスムースにその結論に達することが出来た。その二人が自分の思っていたペアではなかったのだが、それが散歩であることは正解であった。
京香はこのまま尾行を続ける素振りであったが、四日市としては桜子と弘翔が付き合っていること、そしてそれを京香が認知したこと、この二つが重要であり、とりあえずはその目的を達することが出来たので、これ以上の尾行は不要と思われた。
「それにしても、らっこちゃんとあのかっぺ野郎がなぁ」
片や無口でシャイな陸上部のスポーツ特待生、比べると桜子はあまり活発でない運動嫌いの帰宅部員。性格や趣味嗜好が合うとも思えないし、特別な接点も無さそうに思える。そこに至る経緯については彼には全く思い当たるところはなかったが、とにかく二人が付き合ってることは確認が取れた。しばらく京香を見送ってやり過ごし、彼女から見えなくなったことを確認して四日市は追跡を終了した。