第7話
日曜の昼前。
西野京香の漕ぐ自転車は、彼女の通う高校への通学路を西へ走っていたが、目的地は学校ではなくてその先にある春日野桜子の家であった。鳴海弘翔に約束を反故にされ、一人で買い物に出かけようかとも思ったのだが、どうしても気になってしょうがなく春日野邸へ向かうこととなったのだった。
一昨日のホームルーム前に坂崎美玖から聞かされた話が、どうしても頭から離れなかった。四日市通からの又聞きということでどこまで信用してよいものかと思ったが、今回の弘翔の奇行を探る上での手掛かりとなり得るものが他にない現状から考えれば、ひとまずはその線から洗ってみる他は無い。
「鳴海弘翔が春日野桜子の家に入り浸っているらしい」
そう聞かされた時、京香の頭の中は一瞬真っ白になった。実際には弘翔が春日野家に行ったのは二回だけだし、四日市が目撃したのはそのうちの一回だけである。“入り浸る”は完全に四日市の作文なのだが、そんなことは美玖も京香も分かる訳がない。しかし、もし今日、春日野桜子の家に弘翔が現れれば、それは京香にとっては四日市の情報を裏付けるものとして受け取られてしまうことだろう。そしてまさに、それを確認するために京香はペダルを漕いでいるのだった。
「春日野桜子? 誰よそれ春日野って」
最初に美玖からその名前を聞かされた時、京香にはそれが誰なのか全く心当たりがなかった。高校一年での彼女の交友関係はほぼほぼ運動部に限られていたのだ。
「ほら、鳴海と同じクラスの帰宅部の。お京は知らないか。橘沙織とよく一緒にいる奴。そうだ、剣道部の高井ともたまにつるんでる…」
「あっ、あいつか!」
そこまで聞いて、やっと思い出した。数日前に体調不良だとかで校門まで担がれて、弘翔にタクシーで送ってもらっていたのが、どうやら春日野桜子らしい、と見当がついた。このあと7組に行って弘翔と桜子に直接話を聞こうかとも思ったが、実際には何の証拠らしい証拠も無いし、下手をすればシラを切られて有耶無耶にされてしまうことも充分考えられた。とにかくしっかりと現場を押さえなければならない。
「美玖、その春日野ってヤツの家知ってる?」
「ううん、知らない。このネタ垂れ込んできた四日市ってのが知ってる筈だから、そいつから仕入れてやるよ」
そして日曜日、京香は桜子の家に向かって自転車を走らせることとなったのだ。
実際のところ、張り込んだからといって現場を押さえられるとは限らない。もう昼に近い時間になっているのだが、既に春日野家で何らかの用を終えて帰ってしまったかもしれないし、1時間2時間と待っていても一向に現れずに終わってしまうかもしれない。せっかくの休日をそんなふうに過ごしたくはなかったが、どうにも気になるのだから仕方がない。何しろ彼女にとっては大事件なのだ。弘翔が自分に隠し事をしている。そして、なぜか自分から離れていってしまうような気がする。しかしそれは気のせいではなく、確信の持てる直感であった。
“浮気”という単語は極力思い浮かべないように努力をしていたが、どうしてもその思いが頭のどこかをかすめる。もしかりにそうであるならば絶対に阻止しなければならない。京香は自分を奮い立たせ、自転車のスピードが少し速くなった。
やがて美玖から教えられた住所にたどり着き、春日野邸を目の前にした京香は思わず絶句してしまった。母娘二人暮らしと聞いていたが、どうにも二人で住むには立派過ぎる構えの一軒家だったからだ。京香は公営団地暮らしで両親と弟妹の五人家族。父はタクシーの運転手で母はスーパーでパートをしている。決して豊かとは言えない生活である。彼女にとって春日野桜子の家はまさに憧れの住まいであり、いつも夢に見ていた弘翔との未来そのものでもあったのだ。それが自分にとっての恋敵と思しき女子の家なのだという、あまりにも残酷な現実を目の当たりにして、京香は言い知れぬ敗北感に打ちのめされるのであった。
しばらく呆然と立ち尽くしていた京香はハッと我に返り、春日野家の斜向かいにある路地に自転車を止め、電柱の陰に身を潜めて張り込みを始めた。果たして鳴海弘翔が現れるかどうか、それは京香にも判然とはしなかったが、とにかく自分を納得させるためにはそうするしかなかったのだ。それでも彼女は2時間も3時間もそこで張り込みを続けようとは思っていなかった。しばらくそこで見張って、何事も起こらなければそれはそれで幾らか気が晴れるだろうと思っていたのだ。穏やかな昼日中の陽射しの中で、京香は次第に心を落ち着かせていった。交通量も少なく行き交う人も稀で、静かな日曜の一コマがそこにあった。
しかし、意外な速さでその静寂は破られた。いや、騒々しいのは街の喧騒ではなく、京香の心の方であった。春日野家の玄関が静かに開き、中から現れたのはまさしく弘翔であったのだ。京香は身を固くして電柱の陰に隠れた。出来る事ならそうであって欲しくないという彼女の希望は儚くも挫かれてしまった。やはりあの時、弘翔が桜子をタクシーで自宅まで送っていった時に、何かが起こったのだ。そして弘翔の心は自分から桜子へと移っていってしまった。
京香は込み上げてくる嘔吐感を抑えつつ、あらためて視線を春日野家の玄関に向けた。弘翔は何か言っているようであったが、その内容までは明瞭に聞き取ることが出来なかった。弘翔が家の外へ出ると、続いてもう一人の姿が現れた。しかしそれは、京香が予想していた人物のそれではなかった。出てきた女性は明らかに大人であり、状況から考えれば、それはおそらく春日野桜子の母親である筈だった。
それがどういう状況なのかはよく分からなかったが、桜子の母親と思しき人物は、玄関の扉を閉めると鍵をかけて鳴海弘翔をいざなって歩き出した。その手には小さなバッグのようなものが携えられていた。京香は何が何やら訳が分からないまま二人を尾行しようとして、自分の後ろ手に止めていた自転車を一瞥した。
「ちょっとの間なら、盗られないよね」
念のために鍵を掛け、京香は二人の尾行を始めた。