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ハヤテ ~約束の犬~  作者: 沼 正平
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第6話

「キノウハアリガトウ、キノウハアリガトウ。キノウハアリ…」

「何ぶつぶつ言ってんだ、桜子。風邪治ったのか?」

 二年7組の教室。教室の廊下側の壁に向かって独り言を言う桜子に、剣道部の朝練を終えた高井遼子が声を掛ける。桜子の席は窓際だが、その朝は教室入り口の廊下側で弘翔を待っていたのだ。昨日の見舞いのお礼を必ず、そしてしっかりとするように母の菫から強く言われていたのだ。

 近くには、廊下側から二列目の席の橘沙織が頬杖を突いて桜子を見上げている。

「さっちん、さっきからこの調子なんだよ。体調は良くなったみたいなんだけどね」

「ふーん。あまり良さそうには見えないけどな」

 振り向いた桜子は遼子にすがるような視線を投げかける。

「りょーこぉーおぉーおー」

「なんだ桜子、頭おかしくなっちゃったか?」

 遼子は半べその桜子を訝しげに思い、首を傾げてその表情を読み取ろうとする。桜子にすれば相当なプレッシャーである。弘翔は普段から全く話さない相手であるし、それこそ自分だけでなく他の人ともほとんど話さないのだから、声を掛けるのも億劫おっくうだ。しかし、自分としては一昨日はタクシーで送って貰い、昨日はわざわざお見舞いに来てくれたことを考えると、常識的に言って当然お礼を言わなければならない。

 頭では理解しているのだが、気持ち的に非常に重苦しい。大体どうしてこうなったんだろう、と思いを巡らしているうちに、我が家でカレーを食べる弘翔の姿を思い出していた。“全くずうずうしい”と、今度は段々腹が立ってきた。しかも帰り際には、今度の日曜に遊びに来るとか言い出した。“全くいまいましいったらない”と、腹立ちが更に強くなってきた。と、続いて、自分のパジャマ姿を見られてしまったことを思い出し、その羞恥に顔が熱くなり耳まで赤くなってしまった。“くぅ~、なんという屈辱…”と、頭の中はまるで嵐に見舞われた林のようにザワザワとし、それに合わせて頬が引き攣った。

「さっちん顔赤いよ、大丈夫? もうチャイム鳴ったし、席に戻れば?」

 沙織がそう言ったとき、教室の入り口から弘翔が入って来た。その弘翔もまた、つい今しがたまで2組の西野京香に責められ、苦しい言い訳を繰り返して窮地を脱してきたところで、その表情にもまだ焦りの色が濃かった。

 パッ、と桜子と弘翔の視線が合い、二人ともギクッと姿勢をのけぞらせた。

「あ、あの、昨日は…」

 そこまで言って桜子は自分の失敗に気付き今度は顔面蒼白になった。“おはよう、からだった。何やってんだ私”と、心の中で自分を責めるが、今更引っ込みがつかない。

「あ、ありがとう…」

 消え入るように後を続けて上目遣いに弘翔の表情を覗き込む。弘翔は硬い表情のまま「うん」と一言いって、そのまま自分の席に着いた。朝から難しいミッションを終えた桜子の張り詰めた心は、緊張の糸がプツンと音を立てて切れるように弛緩していった。そして一息つくと今度は猛烈に怒りが蘇えってきた。

「どうした、桜子? 顔が鬼みたいになってんぞ」

「さっちん、鳴海となんかあったの?」

 怪訝な表情の二人を見詰め返し、表情を緩めて愛想笑いを浮かべてみるが、桜子の頬は引き攣ったままであった。


 一方席に着いた弘翔は、昨日以上に身が入らない一日を送ることになった。

 西野京香との一件も確かに問題ではあったが、それ以上に気になっていたのが昨夜の夢である。同じ夢を今までに何度も見ているのだが、朝目が覚めるとその大半を忘れてしまっているのだ。今回もまたかなりの部分を忘れ去ってしまっていたのだが、部分的にはかなりハッキリと憶えているところもあった。

 いつも夢に出てくる見知らぬ少女。いや、夢の中では既知の存在である筈だったが、夢から覚めるとそれが誰なのか分からなくなってしまうのだ。夢の中では名前までハッキリと分かっていたが、夢から覚めた途端に思い出せなくなってしまっていた。しかし、顔は良く覚えている。それまでは知らない顔の少女だったが、今はそれが誰なのかハッキリと分かった。

 春日野桜子の母、菫である。

 もちろん、夢の中の菫は小学生なので、今の春日野菫とは顔かたちが違うが、夢の中の少女が成長したのが桜子の母であることは、感覚的に理解できるのだった。今まで何度も見続けてきたお馴染みの夢であったが、今回桜子の家に行って母の菫と邂逅したことによって、その内容の一端が判明した形になる。そして、夢の中の菫が自分のことをさかんに呼んでいたことを覚えていたが、何と言って呼んでいたかは残念ながら覚えていなかった。鳴海弘翔とは違う、何か別の名前で呼んでいた筈なのだが、その名前が何といったのかどうしても思い出せないのだ。それが分かれば、何故自分が桜子の母にこれほどまで親近感を覚えるのか、初対面とは思えないほど懐かしく感じるのかが分かるような気がする。

 授業中もずっとそのことが頭を離れなかった。何とか少しでも記憶の糸を手繰り、あのお馴染みの夢を完全修復出来ないかと何度も試みていた。

 夢前半の焦燥感、この部分は特に覚めた時に忘れてしまっているところだった。何かを追いかけているらしいのだが、それが何なのか、或いは何のためなのか、そのへんがいつも曖昧になってしまっている。おそらく印象に薄いか、あまり思い出したくないような内容なのだろう。

 比べて、後半の野原を駆けずり回る部分は比較的明確に覚えているところが多い。ただ自分が何と呼ばれていたのかだけが、どうにも思い出せないのだ。しかし、全ての鍵はそこにあるような気がする。それさえ分かれば菫と自分がどのような関係にあるのかがはっきりするに違いない。そしてそれを知るためには菫本人に訊いてみるのが一番早そうでもある。しかし、なぜかそれを訊いてはいけないような気がする。勿論、その理由も定かではない。あくまでも感覚的なものに過ぎないのだ。

 いずれにせよ、日曜日にはもう一度春日野家へ行くことになっていたし、その時には充分な時間をとって話をすることが出来るだろう。その結果として自分の疑問が全て晴れるかも知れないし、そうでないかも知れない。場合によっては謎が深まる可能性もあるが、ただ独りで考え込んでいるよりは何らかの進展が期待出来る。

 弘翔は日曜の予定に強い不安と期待を抱いていたが、京香との約束をドタキャンしてしまったことについては頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。春日野菫との関係に比べると、ひどくちっぽけなもののように思われてしまうのだった。

 

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