第5話
弘翔は夢を見ていた。数年に一度見るような、お馴染みの夢だ。
ひたすら川原を走っている。走る目的は、悪いヤツを捕まえるためだ。その悪いヤツが、どんな悪いことをしたのかは分からない。が、とにかく悪いヤツだ。
川原からちょっと土手寄りに登っていき、草むらの中を走り抜けていく。それを、上空からもう一人の覚めた弘翔が見下ろしていた。彼の目には土手沿いに川原を登る悪者の姿も見えていた。悪者は土手の上の道へ出て、その向こうの住宅街に逃げ込もうとしている。だがその足取りは、男を追う弘翔と比べると圧倒的に遅く、すぐに追い着かれてしまうようだった。
「そうだ、もう少し。道に出る前に捕まえろ!」
空から見下ろす弘翔は、手に汗握る思いで悪者を追い詰めるもう一人の自分を励ました。その時まで彼は目の前の追い駆けっこに夢中で、その夢の続きを全く忘れてしまっていた。それもまた、いつものこの夢の決まった流れではあった。もう少しで悪者を捕まえるという時になって、空に浮かぶ弘翔は我に返った。この夢の続きがどうなるのか思い出したのだ。
「駄目だ、追うな! 逃げろ!」
その声は地上の弘翔には届かない。もう少しで悪者に届くところまで追い縋った時、乾いた銃声があたりの空気を振るわせた。地上の弘翔は右の後ろ足を撃たれて倒れ込んだ。空に浮かぶ弘翔の右足にも激痛が走る。あまりの痛みに、彼は昏倒した。
気が付くと、彼は広い草原にいた。ここから先は楽しい夢になる筈だった。楽しい夢にたどり着いた安堵感とともに、判っていたのにまた撃たれてしまった、という後悔の念が混ざり合う。気持ちを切り替えて、広い草原をとにかく走り回る。走るのは楽しいのだが、どうしても引き摺ってしまう右の後ろ足が疎ましい。それでもとにかく走る。
彼の近くに二頭の蝶が寄って来た。黒地に黄色っぽい模様のついた綺麗な色のちょうちょだった。彼は嬉しくなってそのちょうちょを追い始めた。背の低い草の野原を、蝶を追ってぴょんぴょんと飛び跳ね、離れては追い追っては離れる蝶としばしの間、楽しく戯れていた。
すると、どこからともなく一人の少女が現れて、彼に両手を振っているのが見えた。彼は蝶を追うのをやめて、その少女のもとへと向かった。それは彼のよく知る少女であった。一緒に暮らし、いつも楽しく遊ぶ友達であった。彼は嬉しくなってその少女に飛び掛かっていった。少女は微笑みながら彼を避けて、一目散に走り出した。
「ハヤテ、早くこっちよ。ほら」
少女は追いすがる彼を振り切って、右へ左へと走り回った。彼はますます嬉しくなって彼女を追いかけていた。
その時、はるか上空では、そんな嬉しそうな彼の姿を俯瞰するもう一人の覚めた弘翔の姿があった。
「ハヤテ…。ハヤテって僕のことか…? 僕はそんな名前だっただろうか」
自分がそう呼ばれていることに不思議な感覚はあるのだが、違和感は感じずむしろそう呼ばれることが自然に思えた。そう、自分はハヤテという名前だ。それ以外の名前は全く浮かばない。だからそれが自分の名前であることは間違いが無いのだ。
そして草原で彼が追いかけている少女。その娘のこともよく知っている。花村さんちの菫ちゃんだ。よく分からないけどそう呼ばれていたはずだ。自分が出会った時は今よりも小さかったと思う。
「ああ、楽しそうだな」
空に浮かぶ弘翔は草原で戯れるもう一人の自分と少女の姿を、上空から羨ましく思いながら見下ろしていた。自分も一緒になって走り回り、追い駆けっこをしたいという欲求に駆られた。
その時、地上の自分に異変が起こった。それを見た上空の弘翔は落胆した。そう、楽しかった夢の終わりが近付いていたのだ。
走り回っていた少女はいつの間にか成長して、中学生になっていた。追いかけていた弘翔は体がだるくなり、あまり速く走れなくなってしまった。
「ハヤテー、早く!。こっちこっち!」
中学生になった花村菫は盛んに手を振って彼を呼ぶのだが、どうにも動きが鈍くて追い付けない。
「もう終わりだよ。もう走るな…」
空の上の弘翔は、地上で必死に足掻いているもう一人の自分の姿を見て涙を流していた。もういくら頑張っても、追い付こうと思っても、決してその願いが叶わぬことを彼自身よく知っていた。しかし、地上のもう一人の自分はそれを理解出来ないでいた。なぜ自分の体がだるいのか、もっと速く動けないのか、理由が分からなかった。自分はもっと速く走れるはずなのに……。
やがて彼は歩くこともままならなくなり、その場にへたり込んでしまった。横になって丸くなり、空を仰いだが、なぜか空は真っ暗だった。いつの間にか周りの音も聞こえなくなり、あたりには静寂が流れるのみになっていた。もうそこに自分がいるのかどうかも分からなくなり、黒く深い虚無が彼の存在を包み込んでいた。
「全ての終わりだ。やがて時間も止まるんだよ」
空に浮かんでいる弘翔は、虚無に包まれこの世界から消えていこうとしているもう一人の自分を、滂沱の涙とともに見送った。いつの間にか二人は一つに合わさり、ひとときの闇の中に消えた。また夜明けが迎えに来るその時まで。
朝、ホームルーム前の二年2組の教室で、西野京香はモヤモヤとした思いで席に着いた。どうにも昨日の弘翔の言動が腑に落ちないのだ。マネージャーは基本的に朝練には不参加なので、まだ今日は会っていないのだが、こんなに落ち着かないのであれば朝練に参加しておくべきだったと、つくづく後悔しているような有様なのである。
教室にはまだ生徒はポツポツとしか見えなかったが、今から部活に向かうには時間が無さ過ぎる。諦めておとなしく座っていると、坂崎美玖が教壇側の入り口から入ってくるなり、おはようも言わずに京香に呼びかけた。
「お京、どうなってんだ」
「おはよう。どうって?」
そう問い返したところで、今度は廊下の窓から鳴海弘翔が顔を出して声を掛けた。
「おはよう、京香。昨日はホントごめん」
「うっ…」
割って入った弘翔に、美玖が怯む。
「何よ弘翔、どうしたの。あ、美玖…」
「いや、私はいいから。鳴海と話して…」
「うん、ごめんね。どういうこと、何があったか話してよ」
京香は美玖に済まなそうに手を振りながら弘翔を問い詰める。
「いやホント、何でもないんだ。先輩には朝ちゃんと謝ったし」
「そういうことじゃなくて。何があったのかちゃんと話してよ」
京香は弘翔が唯一、意識せずに普通に会話が出来る相手であった筈だった。弘翔の、無意識に出てしまう津軽弁を、普通に理解出来る唯一人の友人だったのだ。今でも訛ることを気にして京香以外の人とはあまり喋らない。その代わり、京香とだけは何の隠し事も無く話し合えている筈だったのだ。その弘翔が、自分に秘密をつくって話そうとしない。そんな態度がどうしても受け入れられなかった。
「いや、ホントごめん。いつかちゃんと説明するから」
必死になって手を合わせて拝む弘翔を、しかしそれ以上責めるのも無駄のように思い、この場は引き下がろうと判断した。が、モヤモヤしたわだかまりは消えそうに無い。
「分かった。判らないけど、いいわ、分かった。その代わり明後日の日曜は……」
京香がそこまで言った時、弘翔はそれまで見せなかった狼狽振りを見せた。
「ごめん! 日曜もどうしても外せない急用が出来ちゃったんだ。ホントごめん…」
その言葉に、引き下がり掛けた京香は目を剥いた。
「ちょっと何言ってんの! 日曜は買い物付き合ってくれるって約束してたじゃない!」
「ごめん、この埋め合わせはいずれ…。ホントごめん!」
「どういうことよ! ちゃんと説明…」
その時、ホームルーム開始の鐘が鳴り、他の生徒たちもガタガタと席に着き始めた。
美玖は「まぁまぁ」と言って京香を押し留め、席に着かせた。弘翔は逃げるように7組の教室へと走っていった。
京香の怒りは相当なようで、ちょっと話しかけずらい雰囲気だったが、美玖は意を決して話し掛けた。
「お京、今の鳴海の話なんだけどさぁ」
「えっ」
この後どうやって弘翔から事情を聞きだそうかと考えていた京香は、この後の美玖の言葉で軽いパニック状態に陥ることとなった。