第4話
眼鏡を掛けた小太りの男が自転車で帰路を走っていた。桜子と同じ高校の二年生で、名前は四日市通。マンガ・アニメ研究部、通称“アニ研”に所属。放課後の部活動として友人宅でDVD鑑賞会を終え帰宅するところであった。
彼の自宅は学校と春日野家の直線上で、更に倍くらい離れていたが、小学・中学は学校だけでなくクラスも同じだった。つまり高校に入るまで9年間同じクラスだったわけだが、実際にはあまり仲が良い訳ではない。どちらかというと一方的に毛嫌いされているような感じだ。
その彼が春日野家の前の道路を横切ろうとした時、たまたま玄関の扉が開くのを見た。視界の端に、同じ高校の制服男子の姿があった。通り過ぎた時は気にも留めなかったが、暫く走るとそれが自分の知っている顔であることに気が付いた。
「今のって陸上部のかっぺ野郎じゃん。何でらっこちゃんの家から出てきてんだ?」
“らっこ”は桜子が小学生時代に付けられていた綽名である。通は高校に入った今もそう呼んでいるが、桜子にすればその呼び方は非常に不快に感じる。その呼び方を続けていることで余計に嫌われているのだが、本人はそのことに気が付いていない。そういうところもまた、嫌われる原因でもある。つまり、救いようが無い、ということだ。
通は弘翔とは全くと言っていいほど接点を持っていなかったが、その存在は知っている。何故なら、通が密かに想いを寄せていた西野京香と付き合っていたからだ。その弘翔が桜子の家から出てきた。これは正義の名において京香に告げ口しなければならない、と思った。しかし、彼にはそれを直接京香に告げる勇気は無い。匿名の手紙とかだと、特定された時に気持ち悪がられる可能性が高い。まだ高校生活が二年近くも残っているのに、ここで変態指定されてしまってはあまりにも悲惨過ぎる。
自転車を漕ぎながら考えているうちに、一つの案が浮かんできた。
「そうだ、坂崎に言えばいい」
特別仲がいいわけでもないが、坂崎美玖なら話せないことも無い。たまたま見掛けたんだけど本人に直接話すのはどうも、と言えば結構スジが通っている。余計な詮索をされることもないだろう。
通は弘翔の不義を告発する者として勇み立った。彼の告げ口によって弘翔と京香の仲は拗れるかも知れないし、最悪の場合には破局するかも知れない。だからと言ってその後、通にお鉢が廻ってくる、等という事は金輪際有り得ない話なのだが、とりあえず楽しい妄想を膨らませることは個人の自由ではある。
通はどこまでも自分に都合のよい夢想を頭に想い描きながら、ペダルを漕ぎ続けた。
春日野家のリビングでは、ソファーに座る桜子がぐったりとうなだれていた。母の菫はキッチンでカレー皿を洗っている。夕飯を食べ終わり、弘翔を玄関口まで送り一息ついたところではあったが、あまりにも釈然としないことの連続でなかなか考えが整理しきれないのだ。
祖父母の古い写真を見た弘翔は、彼らが今でも元気に暮らしていることを知ると突然涙を溢れさせた。それが何を意味するものであったのかは未だに解からず仕舞いだ。しばし呆然としていた桜子と菫であったが、菫が彼の肩に手を置き声を掛けると、弘翔はビクッと体をふるわせた。
我に返った弘翔はキョトンとした顔で二人の顔を交互に見詰め、今度は自分が涙を流していたことに驚いて、慌ててハンカチで拭きだした。二人がどうして泣いたのかを訊いてみても一向に要領を得ず、むしろ自分は何をやっていたのかと逆に二人に問う始末だった。
カレーを食べながら桜子は、“青森の両親のことを思い出したのか”とも思ったが、祖父母の写真は随分と若い頃の写真で、弘翔が自分の両親を思い出すには無理があるようだ。とにかくこの件についてはいくら考えてみても答えらしいものは浮かばなかった。そもそも当の弘翔自身が何で泣いたのか分かっていないのだから、桜子が考えたところで時間の無駄というものだろう。
ただ、問題はそれだけではない。
夕飯を終え、礼を言って帰る段になり、弘翔を先頭に後から菫と桜子が見送るために玄関へと着いていった。弘翔はドアノブに手を掛けながら大きく頭を下げて、
「今日はどうもお邪魔しました、ご馳走様でした」
と挨拶した。それに対し菫は、
「是非また遊びに来てくださいね」
と言って微笑んだ。
桜子と弘翔は、同級生であるという以外にはこれといって共通点がない。普段から話もしないし、どう考えても友達以下の存在である。だとすればその時母が言った“また来てね”は、弘翔からしたら間違いなく社交辞令に聞こえた筈である。当然そのように理解する筈である。ところが、その後弘翔が発した言葉は、桜子にとって耳を疑うようなものであった。
「はい、それではまた近いうち寄らせて頂きます」
桜子は衝撃で目を剥いた。一体どういうつもりなのか? お前の耳は、いや、お前の頭は一体どうなってるんだと、心の中で叫んでいた。
更に言えば、そのあとの母の言葉も常軌を逸したものであった。
「まぁ嬉しい。今度はいつ頃来られます?」
「えーっと……。明々後日の日曜日に」
「そう、お待ちしてますわね」
「では失礼します、どうもご馳走様でした」
そう言って弘翔は玄関のドアを閉めた。浮かれて楽しそうにしている母の横顔を、桜子は鬼のような形相で睨みつけていたのであった。
それにしても、と桜子は思う。
何故母と弘翔がこれほどまでに打ち解けた態度を示すのか、それが全く理解出来なかった。話している時も、まるで旧知の仲のように何の違和感も無く会話している。その自然な感じが逆に、桜子にとっては非常に不自然に感じるのだ。そして、二人が楽しそうに話していることに苛立つ自分を感じた。理由も無く自分だけが取り残されているような焦燥感に駆られていたのだ。弘翔が帰った後、その苛立ちの矛先は当然の如く菫に向かっていく。
洗い物を終えた菫は、ソファーで足を組み、左肘を背もたれに当てて頭を乗せている桜子のいかにも不機嫌そうな顔を見ると、
「どうしたの、そんなにヤサグレた顔して」
と笑顔で声を掛けた。
「だって…。おかしいでしょあれ、絶対!」
イライラが高まり、つい声が大きくなった。
「まぁ、反抗期かしら」
「ううー……」
桜子は二の句が継げずに頭を抱え込んだ。こういう時の母は、いわゆる暖簾に腕押し糠に釘、といった状態だ。手応えの無いこと夥しい。自分が今感じている問題点を理解させるのは至難の技と見えた。
「コーヒー飲む?」
「……。飲む」
「インスタントでいいわよね」
菫はそう言ってもう一度キッチンに引っ込み、トレイに二人分のコーヒーを淹れて戻ってきた。
「あのねお母さん。昨日も言ったけど、鳴海は同級生だけど友達じゃないの。学校でも滅多に声掛けたりしないの。普通友達じゃない人を家に遊びに呼んだりしないでしょ?」
桜子は怖い顔をして母に教え諭すように、一言一言区切りながら言った。そのあいだ、菫はコーヒーを飲みながら、傍目には真剣に聞いているような顔をしていた。
「だったらお母さんと弘翔くんは友達だから、別にかまわないでしょ」
それを聞いて桜子の目が一層キツくなる。
「何でそうなるのよ? いつの間にか下の名前で呼んでるし。明らかにおかしいじゃない」
「でも、友達っぽかったでしょ?」
「……」
二人とも相手に自分の言いたい事を伝えたいのだが、その思いが隔絶し過ぎて上手く伝わらない。
「あーもう。呼んだのはお母さんだからね。私は関係ないから」
「そんなこと言わないで、サクラも弘翔くんと仲良くすればイイじゃない」
「別に仲が悪いわけじゃないし」
そうなのだ。決して仲が悪いわけではない。ただ取っ付きづらくて喋らないから交流がないだけなのだ。その無口な理由も今夜の話で理解出来た。それならば母の言うようにあらためて仲良くすればいいのかも知れない。
と、そこまで考えて桜子は我に返った。いや、今問題にしているのはそんなことじゃない、と。
「とにかく、お母さんちょっと変だわ。絶対おかしいんだから!」
桜子にはそれ以上に言う言葉が見付からず、熱いコーヒーを半分ぐらいグッと飲み下すと、階段を上がって自分の部屋に引きこもってしまった。