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ハヤテ ~約束の犬~  作者: 沼 正平
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第3話

 その日、弘翔ひろとは全く授業に集中出来なかった。その理由は昨日の春日野家での出来事である。玄関の扉を開き、挨拶をしようとした弘翔の顔を見て、桜子の母は過剰とも思える驚きを示したのだ。何故そこまで驚愕したのか全く思い当たることもなく、まず第一にそのことがずっと気に掛かっていた。

 弘翔もその反応に動揺してしまい、なるべく早めにその場を後にしようと判断したのだが、結果的には家に上がりこんでコーヒーをご馳走になることになってしまった。その時彼は、言葉では言い表わせない郷愁を感じていたのだ。その対象は桜子ではなくまた、春日野家に対してでもなかった。そしてピアノの上に飾ってあった親子三人の写真を見た時、それが桜子の母、すみれに対してのものであるのがはっきりとした。

 菫と顔を合わせたのは、その時が間違いなく初めてのことであった。しかし自分の記憶のどこか深いところから懐かしさが込み上げ、むしろ初対面である現実の方を疑いたくなってくるのであった。それは既視感覚的知覚というのか、以前もこうやって一緒に過ごしたような気がして、彼女の声を聞くだけで、再会の喜びに胸が高鳴るのであった。

 そんな筈はない。

 理性が溢れ出る歓喜に冷や水を浴びせかける。近所に住んでいるとは言え、彼が田舎からこちらに移ってきたのは高校入学の時だ。仮に、入学式の時に顔を合わせる機会があったとしても、その時になんらかの交流があった事実はない。どう考えても、明らかに昨日が初対面だったのだ。

 だとしたらこの懐かしさは一体何なのか? 具体的な記憶は一切なく、ゆえに過去における何らかのエピソードを語ることも出来ない。ただただ懐かしさで胸がときめくのだ。これをそのまま誰かに相談すれば、きっと彼がおかしくなっていると思うだろう。疲れているんだろうから休みなさい、と言うかもしれない。しかし、現実にそこにある自分の気持ちは否定することは出来なかった。

 授業中もずっとそのことばかりを考えて、結局一日をそのことだけで過ごしてしまった。それでもひとつ、具体的な方針が導き出されるに至った。

 春日野家に行く。

 もう一度春日野家に行って桜子の母と会い、会話をすることで何らかの糸口が見付かるのではないか、というのが彼が一日考えた末に導き出した結論である。何しろいくら考えたところで確信が持てるような答えは得られそうもないのだ。まさに考えるだけ時間のムダである。ならばいっそのこと当たって砕けるのが正解だろう。それこそが近道であり、よりいさぎよい判断だと思った。

 しかしそれも、結局は菫に会いたいが為の方便に過ぎなかったのかも知れない。


 午後の授業が終わると、弘翔はすぐに机の上を片付けて教科書をカバンの中に放り込み、2年7組の教室を後にした。そこから廊下を西側に移動して、一番西にある2組の教室へ向かった。1組はその下の2階になっている。廊下側の窓から教室内を覗き込み西野京香を捜すと、京香と机を隔てて話していた坂崎さかさき美玖みくが、先に弘翔に気が付いた。

「お京、男が呼んでるよ」

 言われて美玖が指す方に目をやると、弘翔が軽くうなずいた。

「ちょっと行って来るわ」

 美玖に言い置いて、教室から出て弘翔の所へ行き、無言のまま反対側の窓の方へ移動した。

「早いじゃない、張り切ってるね」

「いや、そうじゃないんだ。実は…」

 弘翔はちょっと言い渋るが、意を決したように京香に向き直り、

「急用が出来ちゃったんだ、今日部活休むから、京香から先輩に言っといてくれないか」

 そう早口に言うと、もう一度京香の顔を覗き見た。京香も驚いたように弘翔の顔を見返した。弘翔はスポーツ特待生ではあるし、或る意味勉学以上に部活動は重要な扱いになってくる。当然本人もそのつもりで陸上部の活動をやっているわけで、それが当日いきなり急用となれば、すぐに連想されるのは身内の不幸ということになる。

「分かった。でもちゃんとした理由を言わないと部長もみんなも心配すると思うの。何て言えばいい?」

 京香は至極真っ当なことを言ったつもりだったが、弘翔にしてみれば極めて答えづらい問いであった。少なくとも“春日野桜子の母に会いに行く”という理由が、全く理由になっていないことだけは確かである。

「ごめん、理由は言えないんだけど、とにかく休むから。心配しないで。じゃ、頼むよ」

「あ、ちょっと…」

 弘翔はそれ以上の追及を避けるべく、急いで京香の前から姿を消した。京香はそれを追うもならず、曇った表情で教室に戻っていった。口下手で普段から無口な弘翔が、ほとんど唯一自然に話せるのが京香であった。その弘翔が理由も言わずにいきなり部活を休むと言う。心配するなと言う方が無理な話である。

 席に戻ると、美玖がしょげかえった京香を不審そうな表情で迎えた。

「鳴海、何だって?」

「今日部活休むんだって。理由は言わなかったから分からないんだけど」

 そう言うと荷物をまとめて、放課後練習に一人で向かった。


 菫は午後の早い時間に仕事を切り上げて帰宅した。桜子の体調が心配なこともあったが、今朝の夢見で頭がモヤモヤしてしまい、あまり仕事に集中出来なかった。帰ったのは大体二時過ぎくらい。桜子は昼ぐらいにはかなり体調も良くなり、食欲も出てきて、菫が朝用意した昼食も残さずに食べられた。菫が帰ってきた頃にはほぼ全快していたが、念のためそのままベッドで横になっていた。

 三時頃、菫はミルクとバームクーヘンを持って二階に上り、寝ている桜子の部屋に入って来た。

「どう?」

「うん、良くなった。ありがとう」

「お夕飯何にしよう? カレーとかだと食べづらい?」

「いいよ、カレーで。むしろ辛いモノの方が胃が落ち着きそうだから」

「そう、じゃあカレーにするからね」

 それだけ確認すると菫は夕飯の支度をするために階下へ降りて行った。

 春日野家は二人暮らしのため、カレーを作ることは比較的少ない。それでも作る時は一般家庭並みに仕込み、余った分は凍らせておくことが多い。前回のストックを使い切ってしまったので、今日また改めて作る、ということだ。

 階段を降りて早速夕飯の支度に取り掛かろうとした時に、タイミング良くインターホンが鳴った為、菫はそのまま玄関のドアを開けた。もちろん、掛け金の掛かったうす開きの状態である。

「はーい、どなたぁ」

 薄く開かれたドアの隙間から外を覗くと、そこには昨日初めて春日野家を訪れた弘翔の姿があった。

「あら、いらっしゃい」

 すぐにドアを開き弘翔を招き入れると、今度は二階に向かって、

「サクラー、お友達が来てくれたわよー」

 と声を掛けた。

「あ、あの…」

「はい、じゃどうぞ上がって下さいな」

 菫は有無を言わせず弘翔を家に上げてしまった。そこへ二階から桜子が降りてきた。

「さおー、来てくれたんだぁ。あんがとない」

 パジャマ姿で目をこすりながら階段を降りてきた桜子は、立って見上げている弘翔と目が合った。

「な、なる……!」

 弘翔が声を掛ける間もなく、桜子はドタバタと二階へと消えていった。その音で一度奥へ引っ込んだ菫が顔を出す。

「あら、どうしたのかしら、あの子。えーと、弘翔くんだっけ。今コーヒー淹れるから、またこっちで座って待っててね」

 そう言ってまたキッチンの方へ引っ込んでしまった。

「あ……」

 またしても声を掛け損ない、結局弘翔は昨日と同じリビングのソファーに腰を掛けた。

「ちょうど今から夕飯を作るところだから、弘翔くんも食べていらっしゃいよ」 

「え、僕はその…」

 つぶやいてはみたものの、本人の姿が見えないので、それ以上声を掛けるのを躊躇ためらってしまった。 

 ちょうどその頃、二階の部屋に駆け込んだ桜子の呼吸は荒かった。時間的に言っても、お見舞いに来てくれるとしたらそれは帰宅部の橘沙織に違いないと思い込んでいたのだ。

「何で鳴海が来んのよ。ワケわかんないし」

 ぶつぶつ言いながら服を着替えている。パジャマ姿を見られたことに対して自分の迂闊うかつさをののしり、屈辱に耐えているのだ。何しろ相手は体調の悪い桜子を家まで送ってくれたうえ、今日また様子を見に来てくれたのだ。パジャマ姿を見られたからといって、文句を言えるような立場でないことは重々承知している。それだけに悔しさが止まらない。

 着替え終わると、意を決したように階段を降りていく。リビングのソファーに座る弘翔に、しかし掛ける言葉がすぐに浮かんでこなかった。しばらく考え、お礼の言葉は最低でも必要であることを思い出した。

「あ、あの、昨日はありがとう」

「うん」

 それで会話が途切れてしまう。桜子は“『うん』じゃねーだろ”と思いつつも続けて、

「で、今日は…?」

 と、言外に“用がないなら早く帰れ”という気持ちを滲ませながら言う。

「橘や高井が心配してたから、ちょっと」

 “ちょっと何だよ”とイラ立つ気持ちをぐっと抑えて、なるべく温和な表情を心掛ける。

「そうなんだ、ありがとう。でももう風邪治ったから。うん、大丈夫」

「良かった。それで、今お母さんが…」

 そこへ菫がコーヒーをトレイに乗せて持ってきた。

「今圧力鍋を掛けてきたから。カレー食べてくでしょ? すぐ出来るから」

 そう言って何やら楽しそうに弘翔と桜子の前にコーヒーカップを置いた。

「はぁ?」

 とにかく当たりを柔らかく、を意識して対応していた桜子は、さすがに少しだけ声を荒げ、渋い表情になった。

「なんか夕飯いただけるような話になっちゃって…。そんなつもりじゃなかったんだけど」

 そんなつもりで来られてたまるか、と思いつつも、自分の母親から言い出したことなので、弘翔に何のとがも無ければ、桜子にそれを非難する筋合いも無い。自分の体調不良が全ての始まりとは言え、あまりにも立場が弱くて目眩めまいがしてくる。

 そもそも同級生とは言え、弘翔と桜子にはほとんど接点らしいものはないし、これといって共通の話題も無い。大体、弘翔自身が普段からあまり話さないのだ。これから夕飯を食べて帰るまでの時間のことを考えると、どうにも陰鬱いんうつな気分になる。まず何か話をするきっかけを考えようと、時間稼ぎのつもりでコーヒーカップに手を伸ばして一口飲んだ。

 すると桜子より先に母の菫が、

「弘翔くんはご実家は青森の方かしら?」

 と声を掛けた。弘翔はカップに伸ばしかけた手を止め、驚いたような表情を見せた。頬が赤らみ、みるみるうちに耳まで真っ赤になっていく。

「な、まなってますか、僕…」

「あらごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃないのよ。私の知っている人で、やっぱり鳴海っていう苗字の人が、自分は青森出身で、鳴海っていうのはそっちの方に多いんだって聞いたものだから」

 そう言う菫の言葉を聴いて、弘翔は徐々に落ち着きを取り戻していった。

「はい、青森は多いです、鳴海。自分の家はもともと北海道だったそうで、江戸時代には“なるうみ”って言ってたそうですけど、その後青森に移り住んで“なるみ”になったそうです」

 弘翔は意外に雄弁に自分の出自を語った。そして桜子は、何故彼が無口なのかがなんとなく理解出来たような気がした。おそらくこちらに移ってきて、訛りをからかわれたかしたのだろう。だがしかし、今喋っている鳴海弘翔は普通に標準語を話していた。

「今はどちらにお住まいなの?」

「このちょっと先の、商店街の入り口のところに下宿してます。顧問の先生のお知り合いだとかで」

「あら、すぐ近くなのね。顧問の先生って……?」

「自分、陸上部に入ってて。中学の時に見込まれてこっちへ出て来たんですけど、当初は言葉が通じなくて困りました。同じ部の中に津軽弁がわかる人がいて、その人と話しているうちに段々と標準語に慣れていったんです」

 無口だとおもっていた弘翔が、桜子の母を相手に結構普通に話している。それは桜子にとって新鮮な驚きだった。二年になって同じクラスになったが、とにかく取っ付きづらい人物という印象しかなかったのだ。そして、話に出てきた陸上部で話せる人というのがおそらく2組の西野京香なのだ。理由はわからないが、どうやら青森の方言が解かるらしい。他に話の通じる人がいないから、自然と仲良くなって付き合うようになったのだろう。

 だが菫は訛りの話には触れずに、

「じゃあ親御さんと離れて暮らしてるのね。食べるものとか大変じゃない?」

「いや、下宿先のおばさんが全部面倒見てくれますから」

「淋しくないの?」

「年に4回か5回くらいは帰るようにしてますし、特に淋しいとは」

「そう、偉いのね。私はこのお家に桜子と二人だけだけど結構淋しいですわ。ねぇサクラ」

「へ?」

 母と弘翔が勝手に話をすすめていたので、気を緩めていた桜子は意表を突かれすぐ言葉にならない。

「あの、二人だけって言うと…」

 それは昨日から気になっていたことだったが、訊かないつもりがつい口を突いて出てしまった。菫はピアノの上の写真立てに視線をうつした。

「警察官だったの、この子のお父さんは。桜子が小学校にあがる前の年に仕事中の事故で…。この家に二人だと広過ぎるんですけど、あの人が残してくれた家だから。遺族年金と私の収入でなんとか維持してるんですよ」

「お母さん、そんな話しなくてもいいでしょ」

 桜子は咎めるように母に言った。そもそもそんな話をするほど親しい相手ではないのだ。が、菫はそんな桜子の思いをあまり意に介していないようだ。

「この子のお祖父ちゃん、私のお父さんも警察官で、お父さんの部下とお見合い結婚したんです」

 菫はそう言ってサイドボードの引き出しを開け、中から古惚けた一枚の写真を取り出した。

「これが私のお父様とお母様の若い頃の写真」

 そう言って写真を弘翔に手渡す。世田谷の古い平屋の玄関で、若き日の花村俊夫と良子、そして小学生の菫が並んで写っていた。桜子は何のためにそんな写真まで見せるのかと、憮然ぶぜんとした面持ちで母のふるまいを見ていた。やがて写真を見ていた弘翔が呟いた。

「ご両親は今どうされてるんですか」

「二人ともまだ元気ですわ。古い家は区画整理に引っ掛かってしまったんで、アパートに移ったの」

「そうですか…よかった……」

 そう言うと弘翔は突然ぼろぼろと大粒の涙をこぼしはじめた。これには桜子だけでなく写真を渡した当人である菫も驚きを隠せず、狼狽うろたえるばかりであった。弘翔は菫が声を掛けるまでしばらくのあいだ、声も無く涙を流し続けた。 

 

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