第2話
その晩、薬を飲んで幾分熱の下がった桜子は、8時くらいにはベッドにもぐりこみ、夢を見ることも無く朝までぐっすりと眠りに落ちた。
むしろ夢を見たのは母親の菫の方だった。
夢の中で菫は中学生だった。学校が終わって、自転車に乗って大急ぎで世田谷の自宅へと向かっていた。横開きの玄関を開けるとカバンを放り投げ、裏庭へと走った。犬小屋の隣には半切りのみかん箱が置いてあり、底にボロが敷かれていて、中には丸まった老犬の姿があった。
「ハヤテ! ハヤテ!」
菫が声を掛けるが、ハヤテ号には殆ど聞こえていなかった。わずかな音と気配で、ハヤテ号は弱々しく首をもたげて菫の方に向き直った。もう目も見えていない。わずかに光を感じるだけになってしまっていた。
「お水、お水あげるね。ハイ」
菫は脱脂綿に水を含ませてハヤテ号の口元に持っていった。それを二度ほどぺろぺろと舐め、また頭を下げてぐったりとしてしまった。
「ハヤテ、ハヤテ…。死なないで、ハヤテ……」
菫は声を出して泣いた。姉弟のように仲良く暮らしてきたハヤテ号が、今あっけなく命を終わろうとしているのだ。貰われてきた日から毎日毎日、母の良子と交代で散歩してきたハヤテが。菫が小さい頃、強い力で鎖ごと引きずられて散々泣かされたハヤテが。お中元やお歳暮で美味しいものを貰うと、必ず分けてあげて一緒に食べていたハヤテが……。
「ハヤテ。菫はいつもハヤテと一緒だよ。もし生まれ変わっても、必ずハヤテを見つけるから。また一緒に暮らそうね。また一緒に散歩しようね。ね、ハヤテ」
そう言って、菫は泣きながらハヤテ号の頭をなで、背中をさすった。
するとどうだろう、ハヤテ号の体は突然眩しい光に包み込まれ、徐々にみかん箱から浮かび上がるではないか。そしてその輝く光の中で、ハヤテ号は徐々に小さくなっていき、とうとう小さな子犬の姿になってしまった。
子犬は嬉しそうに菫に跳びかかって来た。抱きとめた腕の中で、子犬はキャンキャンと嬉しそうに鳴き、菫の顔をぺろぺろと舐めまわした。
「良かった! ハヤテ、生き返ったんだね! 良かった、ホントに良かった!。お父さま! お母さま! 見て、ハヤテがこんなに……」
子犬を抱きしめ歓喜の涙に咽ぶ菫は、その喜びの中で絶望的な朝を迎えた。
「夢、か……」
ベッドの上で流す菫の涙は、またしても悲しみの涙に替わっていた。
もう20年以上も前の飼い犬の死を、こんなに生々しく夢に見るものかと、やり切れない悲しみの中にも驚きを感じていた。同時に、自分はハヤテ号のことを本当に愛していたんだなぁとしみじみと思い知らされもした。
なぜ、こんな夢をみてしまったのだろう……。
彼女にはしかし、その理由が明白にわかっていた。それは昨日の出来事、娘の同級生である鳴海弘翔との邂逅である。
桜子を抱き起こそうとしてしゃがみ込み、ドアの開く音で視線を上へ移すとそこに一人の男子生徒の姿があった。彼女が弘翔を見たのはそれが初めてのことだったが、なぜかその姿に強い衝撃を受け、ほんの一瞬ではあるが意識が遠のく感覚に襲われた。その時の驚愕は今でもまざまざと思い出される。彼女は弘翔の姿に、ハヤテを見ていたのだ。
別に顔が似ているわけでもなければ、具体的に何処がどうという事でもない。それはもう理屈では説明のつかない、あまりにも特殊な感覚であった。その一瞬に懐かしさが込み上げ、喜びが胸から溢れ出していくようであった。しかしその一方で、その男子生徒がハヤテではないことは常識的には理解していて、理性がその想いを強力に押し殺した。感情と理性の狭間で、彼女はあくまでも弘翔を娘の同級生として遇し、それでも抑えきれない気持ちが、彼を少しでも引き止めようとする意思として働いたようであった。
それにしても、と菫は思う。
彼女はハヤテの臨終に際して、来世で必ずまた会うことを誓った。しかしそれは菫も死んだ後にまた生まれ変わり、犬と飼い主として一緒に暮らすというイメージでしかなかった。今生でまた会おうとか、人間として生まれ変わるとか、そういう選択肢は全く考えもしなかったのである。一体何がどうなっているのだろうという戸惑いの中に、いつの間にか弘翔がハヤテの生まれ変わりだと断定して思考を進めている自分に対して驚いていた。常識的に考えてそのようなことは有り得ないのだが、どうしてもその考えを捨て去ることが出来ずに、現実と夢想の葛藤の中で、彼女は深呼吸し、静かに思考を閉じた。
気を取り直し、涙を両手で拭いながら時計に目をやると、ちょうど目覚ましの鳴る5分前であった。半端な時間で二度寝する気にもならず、そのままベッドから起き上がると桜子の部屋へと向かった。ドアをノックして中に入ると、当然のように桜子は熟睡していた。起こすのが可哀相な気もしたが、タイミング的にはもう起きる時間になっているので、肩を手で揺すりながら声を掛けた。
「サクラ、朝よ。起きられる?」
桜子はうーん、と唸って薄目を明き、ぼんやりとした視界の中に母の顔を認めた。しばらくはそのままの姿勢で母を見上げていたが、
「ムリ。休む」
と言って布団を被ってしまった。菫も、昨日の様子では休むのも止むを得ないと思っていたので、
「じゃあ学校に連絡しておくから」
と声を掛けると、布団の中から右手がもぞもぞと伸びて菫に向かって振られた。
「お母さんは仕事に行っちゃうけど、なるべく早く帰るようにするからね。後で朝食持ってきてあげる。お昼の分はレンジに入れといてあげるからね」
「ありがとうございます」
桜子はそう言うとまた布団の中から手を振ってみせた。菫は桜子の部屋を出ると、朝食を作りに階段を降りていった。
朝、ホームルーム前の教室。
そこに桜子の姿はなかった。ギリギリまで朝練をしている運動部以外は大体教室にいる時間である。橘沙織が席に着くと、後ろの席の女子がすぐに話し掛けてきた。
「さおー、さっちんいないね。昨日どうだった?」
桜子が朝からずっと体調不良だったことはクラスの全員が知っていたことだ。
「先生にタクシー呼んでもらったんだけど、帰りへろへろだったから」
「そっかぁ。今日はお休みなんだね」
そこへ朝練の終わった剣道部の高井遼子が入ってくる。
「おっ、さお。桜子休み?」
「うん。この時間にいないから、多分休みだね」
「昨日は死にそうな顔してたもんな。一人で帰ったのか?」
「うん、タクシーで…」
話している沙織の視界に、まだ汗の退かない鳴海弘翔の姿が見えた。
「そうそう、鳴海に送ってもらったんだ。おおーい、鳴海」
手を振られて、弘翔はすぐに沙織を認めると、遼子の隣に立った。
「昨日はどうだった? さっちん、ちゃんと送ってくれた?」
「うん。随分つらそうだったけどね。玄関で倒れ込んじゃったから春日野さんのお母さんと二人で担ぎ上げて、大変だった」
弘翔はそこまで言うと教室内をぐるっと見回した。
「あれ、春日野さんはお休み?」
それには沙織が答える。
「来てないね、休みみたい」
「そうなんだ。冷却シート貼ってしばらくしたら顔色も良くなってきたんだけどね。何かうわ言のように『風邪だから』って言ってたから、あまり心配するなってことかと思ってたんだけど」
遼子と沙織が顔を見合わせる。
「鳴海がそう思ってるなら特に問題ないんじゃない。実際風邪なわけだし」
「?」
遼子の返答に意味が分からず戸惑いつつも、とりあえず自分の席に着くことにした。
遼子と沙織はその姿を目で追い、また顔を見合わせた。
「さお、鳴海ってあんなに話すヤツだったっけ?」
「まぁ、喋らないよね」
弘翔が人と会話するのが苦手なのを知っている沙織としては、今の滑らかな会話はかなり意外に感じられるものであった。