第1話
放課後のガランとした教室に、二人の女子高校生の姿があった。橘沙織は教壇に両肘をついてアゴを乗せ、三階の窓から外を眺めていた。晴れ渡った空には一条の雲もなく、運動部の掛け声が吸い込まれていく。窓際の席にはもう一人の女子が机に顔を伏せ、両手を机の前にだらりと下げている。綺麗な黒髪ロングヘアーが、このポーズだとまるで幽霊のようだ。
「おーい、さっちん。生きてるかぁ」
沙織からさっちんと呼ばれた女子生徒、春日野桜子は、沙織に向けて左手を力なく振ってみせる。が、顔は伏せたままだ。
「もうそろそろ下校の時間だよ。どうする、先生呼ぶ?」
桜子はもぞもぞと動いて顔を上げる。意識が朦朧としているようで、目の焦点が合っていない。朝から風邪気味で熱っぽかったのだが、無理して登校したらこのザマである。
「大丈夫、もうちょっとだけ休めば動けるから」
そう言って窓に寄り掛かり、眼下に広がる校庭を見下ろした。奥では野球部が活動を終えて道具を片付けているようだ。手前では陸上部がまだ短距離の練習をしていた。女子マネージャーがストップ・ウォッチでタイムを測っている。走っている生徒の中には、同級生の鳴海弘翔の姿があった。
「さおー、鳴海ってさぁ、変なヤツだよね」
「はぁ?」
いきなり話題を振られて、沙織は怪訝な表情だ。
「ああ、陸上部の鳴海か。まぁ無口だけど、別に変じゃないでしょ」
「だって、ビッコひいてるのに走ると速いんだもん。変だよ」
「癖なんだってさ、足引きずるの。別に怪我してるワケでも悪いワケでもないんだって」
桜子はゆっくりと上体を起こして沙織の方へ向き直った。
「へぇーそうなんだ」
そう答えはするものの、頭がボーっとしてまた机に突っ伏してしまう。
「あたしは一年の時もクラス一緒だったから。実家は東北の方なんだけど、中学の頃から走るの速かったらしくって、ウチの陸上部の顧問がスカウトしたんだって。こっちで下宿してるらしいけど、確かさっちんの家の方じゃなかったかな。気になるのか?」
「全然……」
実際それどころではなかった。もう帰らないといけないのだが、どうしても体がだるくて動けない。
「でも残念、2組のマネージャーと付き合ってるってもっぱらのウワサ。さっちんも思い切って陸上部のマネージャーやってみる?」
「いや、ムリ…。死ぬ…」
いくらか意識がはっきりするかと思い、気分転換のつもりで会話を始めてはみたものの、もうこれ以上は話すのもキツい状態になっていた。もう母親に連絡してもらうしかないかと諦めかけたそのタイミングで、担任の教師が見回りに来た。担任は本来そこにいるはずのない帰宅部の女子生徒二人を見咎めた。
「お、橘。もう最終下校だぞ。何やってんだ」
「あ、佐伯先生、いいところに」
沙織はそう言って窓際の席に突っ伏している桜子を指差した。
「ん、あれは春日野か。二人して何やってるんだ、こんな時間まで」
「さっちん、体調が悪いっていうんで、帰れるようになるまで付き合ってたんですけど…。どうもムリっぽいんですよ、死ぬとか言ってるし」
佐伯は桜子の肩を揺すって声を掛けた。
「おい、春日野。大丈夫か? 救急車呼ぶか? それともタクシーで帰れるか?」
桜子は佐伯の顔を振り仰いだ。その額に佐伯が右手の平を当てる。
「ちょっと熱がありそうだな」
「大丈夫れす、タクシーで帰ります」
ろれつが廻らなくなってへろへろな状態になってしまっていた。
「だったらタクシー呼んでやるから。校門のところまでは自力で歩いていけそうか?」
「先生、あたしが連れて行きます」
沙織がそう言って桜子の背後に廻り、両脇の下へ手を入れて立たせようとした。校門のところまで連れて行くくらいは大した作業でもないとたかを括っていたが、実際には結構な労働であった。右側から肩を抱くようにして一階までの階段を降りた頃には汗まみれになってしまった。
「ふぅ。さっちん、この借りは返して貰うぞ」
などと必死で軽口を叩くものの、桜子にはそれを返す余力も無い程だった。校門は校庭とは反対側にあり、校舎からは10メートルも離れてはいないが、そこまでたどり着くのもやっとの思いだ。二人して校門にもたれ掛かり、大きなため息をつく。こんなことなら佐伯先生にお願いすればよかった、と今更ながら後悔する沙織であった。
タクシーを待ってしばらくすると、校舎から鳴海弘翔が現れた。隣には自転車を押す、マネージャーの西野京香の姿があった。疲れ果てた沙織にとってその二人は目障りに思え、つい意地悪な気持ちが首をもたげてしまった。二人で仲良く帰さない手を思いついたのである。
「おおーい、鳴海ぃー。おおーい」
沙織は隣の京香には気にも留めぬ素振りで大きく手を振り、弘翔を呼んだ。
「あれ、橘?」
弘翔は手を振る沙織を認め、訝しげな表情を隣の京香に向けた。
「何だろうね」
弘翔の呟きに対して、京香はちょこっと首を傾げただけで何も言わなかった。二人はそのままのペースで沙織と桜子のいる校門へ近付いて行った。
「そっちは春日野さんか、一体どうしたの」
京香は“私には関係ない”とでも言いたいかのように、沙織と弘翔の会話からそっぽを向いていた。
「さっちんが体調悪くてさ、今先生にタクシー呼んでもらったんだけど、確か鳴海ってさっちんと帰る方向同じだよね。あたしはまるっきり反対方向だからさ、出来れば一緒に付いていってもらえると助かるんだけど」
桜子は上体を折って両手を膝にあてて喘いでいる。誰が見ても体調が悪いらしいのは一目瞭然だ。何か言いたいようなのだが、はっきりと声が出ずに唸っているように聞こえる。
「別に俺はかまわないけど」
弘翔はそう言って隣で自転車のハンドルを握っている京香の顔を見た。
「私は別方向だから。じゃっ」
そう言うと京香は無表情で颯爽と自転車にまたがり、声を掛ける間も無くその場を後にした。あまりの呆気無さに沙織の方が拍子抜けしてしまうような展開だった。
「あ、タクシー来た。じゃ頼むよ鳴海。先に乗って抱えてくれる?」
校門前にタクシーが横付けされて後ろのドアが開き、まず弘翔が二人分のカバンを持って乗り込む。次に、沙織に支えられた桜子が、上体を弘翔にあずける様なかたちで乗った。
「運転手さん、えーとね、方向転換してもらってこの先の信号を右。突き当りを左の三軒目でお願いします」
沙織と運転手が桜子の家までの道を確認し、校門前のスペースを使って転回した。歩いて登校するぐらいだから、実際の距離は多寡が知れている。車で順調にいけば3分も掛からないだろう。
桜子は首を前にがっくりと折り、弘翔を横目に見た。
「マジ…風邪だから…」
「うん?」
声が小さくて良く聞き取れなかったが、風邪という単語は微かに聞こえた。
「風邪……。うん…マジ風邪だし…」
弘翔には桜子が何を言いたいのか理解出来なかったが、とにかく自分が風邪を引いているのだということを主張したいらしいことは分かった。風邪がうつるといけないから、後でしっかりうがいをしておいた方がよいとでも言いたいのだろう、と解釈した。
「うん、わかった」
「いや……、ホント風邪だし…」
桜子がしつこく風邪アピールするのを不審に思いつつも、丁字路を左に曲がったタクシーは目的地に到着し、弘翔は二つのカバンを持って降りる用意をした。ドアが開き、桜子はのっそりと起き上がって自力でタクシーを降りた。
「お金、貰ってくるから」
ふらふらとした足取りで玄関に向かい、インターホンを鳴らすと家の鍵を開けて玄関の中へ崩れ落ちた。
「あ、俺払いますから。いくら?」
弘翔はお勘定を済ませると慌ててタクシーを降り、桜子のもとへ向かった。玄関では桜子の母、菫が、倒れ込んだ桜子を引き上げようとしているところだった。
「ちょっと、どうしたのサクラ、起きなさいってば」
支払いを終えた弘翔が玄関を開けて中に入ると、ちょうど桜子の傍らにしゃがみ込んだ菫を見下ろすようなかたちになった。
「は……!」
菫は突然目の前に現れた訪問者に、ひどく驚愕してしまった。両手を後ろに突き、のけぞるように弘翔を見上げた。
「あ、いや、あの」
菫の予想外の驚きに、弘翔の方が輪をかけて狼狽えてしまった。すると今度は桜子が菫の袖口を引っ張るようにして、
「タクシー代、ちょうだい」
と、弱々しく呟き、菫も我に返った。
「あの、俺、いや僕、春日野さんの同級生の鳴海弘翔って言います。春日野さんが具合が悪いってことで送ってきました。タクシー代は払っときましたんで」
「あら、そうでしたか、ごめんなさい。すぐお支払いしますから……」
「いや、それよりも春日野さんを運ばないと」
弘翔は立ち上がろうとする菫を空いている方の手で制した。その動作で片手がふさがっている事に気付くと、持っていたカバンを玄関に置いて、桜子を抱えあげようとした。
「ごめんなさいね、私力無いから。奥まで運んで下さる?」
「はい」
弘翔は靴を脱ぎ、桜子を抱えて菫とリビングへ入って行った。ソファーに桜子を寝かせ、二人して顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 熱があるのかしら」
「ホント風邪だし……。マジ風邪だから…」
横になったせいか、いくらか意識がはっきりしてきたような気がしていた。ぼんやりとした視界の中に、タクシー代を受け取る弘翔と母親の姿が見えた。やがて菫は冷却シートを持ってきて桜子の額に貼った。これで随分と体が楽に感じられるようになったようである。
「ありがとうね鳴海くん。すぐ良くなると思うわ。今コーヒー淹れるからちょっと座ってらして」
「いや、あの、僕は……」
そもそも桜子を送り届けたらすぐお暇するつもりであったから、これ以上長居をする気も無かったのだが、なんとなく居心地の良さを感じて、桜子の寝かせられている隣の一人掛けのソファーに腰を降ろしてしまった。桜子はあきらかに顔色も良くなってきていたが、相変わらず風邪だ風邪だとぶつぶつ呟いているようだった。
菫を待つ間、弘翔は部屋の中をぐるっと見回してみた。結構大きな家だし、それに似つかわしい品のいい家具、そしてアップライトのピアノまであった。ピアノの上には一枚の写真が飾られており、そこには親子三人の姿があった。若き日の菫の隣に旦那さんとおぼしき男性の姿、中央には小さな女の子。おそらく小学校に上がる前の桜子なのだろう。思わず立ち上がり、写真に手を伸ばしたところで菫がコーヒーをトレイに乗せて入ってきた。トレイにはコップに入った水も乗っている。桜子のためだろう。
「それね、桜子が5歳の時の写真なの」
母親のその声で、桜子は顔だけを弘翔の方へ向け、その表情で無言の抗議を表わした。弘翔は慌てて写真立てをピアノの上に戻した。テーブルの上にコーヒーと水の入ったコップが置かれ、弘翔は最初に座っていたソファーに腰を降ろした。
「サクラ起きられる? お水持ってきたから」
桜子はよろけながら上体を起こすと、コップを手にとって半分ぐらいを一気に飲み、またばったりとソファーに沈み込んだ。
「鳴海くんはお砂糖とミルクは?」
「あ、いいです。ブラックで」
そう言ってカップを取り一口飲む。インスタントではないようで、軽く爽やかな苦味が美味しかった。
「そう言えばお父さんもコーヒーはブラックだったわねぇ」
菫は昔を懐かしむような遠い目で、ピアノの上の写真と弘翔のコーヒーを飲む姿を交互に見比べていた。弘翔はそこでちょっと考えて、“お父さん”が菫の父ではなく、桜子の父のことだと気付いた。そして、それが過去形であったことに気付いてギョッとした。
「ちょっと待ってて下さいね、何か甘いものでも……」
「あ、いえ。もう帰りますのでお構いなく」
「あら、もっとごゆっくり…」
弘翔はコーヒーの残りを半分くらいグッと飲み下し、カバンを手に立ち上がった。桜子がこんな状態なのに長居をするのはどう考えても非常識だと思った。
「じゃすいません、これで」
玄関に向かう弘翔と、その後を追う母の気配は分かったが、桜子には立ち上がって母と一緒に見送るほどの余裕はまだないようであった。
やがて玄関で弘翔を見送った菫が戻ってきて、ソファーで寝ている桜子の顔を覗き込んだ。
「お友達のお見送りぐらいすると思ったのに。そんなに悪いの?」
桜子はうー、と唸りながら上体を起こし、母の顔を見返した。
「あいつ、あたしに声も掛けずに帰りやがった…」