序
昭和51年秋。
日本は高度経済成長が一段落して、社会は停滞期に向かっていた。この当時の三種の神器と言えば冷蔵庫に洗濯機、そしてテレビ。そのテレビも放送10年を迎え、東京オリンピックの余波も手伝って、一通り白黒からカラーに切り替わって落ち着いた頃だ。都心では交通渋滞やゴミの廃棄問題、大気汚染などの環境問題が持ち上がっていたが、それらとて日本の興隆を示す一つの指標であった。40年代には地方の国道もまだ砂利道が各所に見られたが、この頃はかなり舗装がすすんだ。
そんな成長期の恩恵を多く受けられた時代の世田谷の細い道を、一人の男が歩度を早めながら帰宅中であった。夜空には十三夜の月が薄っすらと雲の影を纏って輝いていた。男は自宅の門扉を奥へ開いた。鉄製の扉の両側はコンクリートの立派な門柱で、「花村」と黒曜石の表札が埋め込んであった。花村俊夫、それがこの家の主の名だ。白っぽい御影石の飛び石が三つ“く”の字に並び、その先が横開きの玄関になっている。男は鍵の掛かっていない玄関の扉を開けると、鞄を置いて靴を脱ぎながら「ただいま」と家の奥へ声を掛けた。すぐに「はぁい」と声がして、細君の良子が顔を出す。
「おかえりなさい。すぐお食事ですか、それともお酒で」
良子は俊夫の鞄を手にとって言う。
「いや、その前にちょっと話があるんだ。菫も呼んでくれないか」
「はい」
良子は鞄と俊夫の上着を受け取りながら奥へ声を掛ける。
「菫さん、お父様がお呼びよ。居間へいらっしゃい」
奥から「はーい」という女の子の声が聞こえ、すぐに居間に姿を現した。家は平屋で二階は無く、菫の部屋も無い。菫は寝室の隅にある自分のスペースにみかん箱の机と小さな本棚を与えられているだけだ。学校から帰ってきて、ちょうど宿題を終えて漫画を読んでいたところだった。
「菫さん、お父様がお話があるから、ちょっと座りなさい」
居間に置いてあるのはいわゆる“卓袱台”だ。この頃すでに洋式のテーブルなども一般化されていたが、俊夫は質素倹約でずっとこの卓袱台を愛用していた。ただ、さすがに冬場はこたつ仕様に変わる。
丸い卓袱台に俊夫と良子、それに今年小学一年生になった菫の三人が座って家族会議になった。
「お父様お帰りなさい」
菫は席に着くなりペコリと頭を下げる。
「ただいま。ちょっと大切な話をするから、菫も聴きなさい。昨日言ってあったと思うが、今日はハヤテ号の表彰式だったんだ。怪我をしてしばらく療養してたんだけど、今はすっかり元気になった。ただ後遺症が残ってしまって右の後ろ足を引き摺るようになってしまった。残念だが警察犬としての仕事は続けられないだろうという結論になって、だから今日はハヤテ号の表彰式でもあるし、引退式でもあったんだ」
そう言って俊夫は良子と菫を交互に見つめた。良子は夫に目で合図し、三人分の湯呑を出してお茶を淹れはじめた。
「ハヤテは優しいしとても頭のいい犬だ。年齢的にはまだまだこれからなのだけど、怪我で不自由な体になってまで警察犬の仕事をさせるのは可哀想だ。だから引退もやむを得ない。だがこの後どうしようかという話だ。訓練所に置いておくのも忍びないし、かと言ってビッコを曳く犬を快く迎えてくれる家があるだろうかと」
菫は話しの途中から少し涙ぐんでいたようだ。ハヤテ号とは何度か遊んだことがあるのだ。銃で撃たれて入院したと聞いた時は大声を出して泣いていた。
「で、どうだろう。ハヤテ号をうちで引き取ってやろうかと思うんだが」
俊夫のその一言で菫の表情は花が咲いたように明るくなった。
「ハヤテが、ハヤテ号が一緒に住むの? 菫たちと?」
手放しで喜ぶ菫を俊夫が制する。
「だけどお父さんは警察のお仕事が忙しいから、あまりハヤテの面倒は見られないかも知れない。犬は一日散歩しないと、人が一週間閉じ込められたのと同じくらいのストレスを感じるらしいんだ。お母さんと菫と、二人でしっかり世話が出来ると思うかい?」
「どう、菫さん?」
良子は菫の顔を覗き込みながら訊いた。もちろん、答えは分かっての上だ。
「大丈夫! スミレ、一所懸命ハヤテのお世話する!」
俊夫と良子は顔を見合わせて微笑みあった。
一週間後、警察犬ハヤテ号は、花村家の番犬ハヤテとして、菫の家族として世田谷の家に住むことになった。
8年後の昭和59年、ハヤテは中学生の菫に看取られながら寿命を全うした。享年13歳の大往生であった。