狂犬との付き合い方
私の名は、イザベル。軍人だ。
夫の名は、ハーヴェイ。軍人だ。
「あの絶望的な状況で、駆けつけるのに間に合ったばかりか状況をひっくり返したのは功績だ」
功績だと語る声が、褒めるそれではないことはいつもながらでよく分かった。功績「だが」だ。
「だがな」
ほら。
「何も皆殺しにすることはないだろう。命令は敵陣営の制圧。その際、敵将校の生け捕りだ」
嘆かわしいと言いたげに、上司は首を振る。
そして、上司の灰色の眼がこちらを見る。
「イザベル君、彼の手綱を握れるのは君しかおらんのだよ。今回はどういった理由かね」
「は、私の責任です。申し訳ありません」
「と言うのは」
「途中敵兵に遭遇し、流れ弾が掠めました」
「……そうか」
少し、微妙な沈黙を挟んで、上司は一言のみ相づちを打った。
それから、ぼやく。
「その流れ弾を防ぐところから始めたならいいものを」
「……さすがに、山の中での狙撃手は、前もって気がつくことは撃たれてみなければ難しいかと」
今度は私の方が、わずかに微妙な沈黙を挟みつつ、思わず言わずにはいられなかった。
前方の上司はふっとため息をついた。
「そこを制御出来るようにならないか」
「申し訳ありません」
今回の要因としては、「私が怪我をしたから」。あの環境では避けることは困難だっただろうが、多少の責任を感じる。
謝罪の言葉を繰り返す私に、上司は再びため息をつく。
「まあいい。全ては奴の行動が問題であり、君だけに責任を問うことではないとは分かっている」
そう。正確には、私ではなく、「彼」のせいなのだ。この辺りは、制御を任された私だけのせいだと言わない、良い上司だと思う。
あの「狂犬」に気に入られた身だからといって、制御を命じられても困るのだ。
「それで?」
私の責任を問う話は終わりにして、椅子の背にもたれかかった上司は私に、単純に問う目を向ける。
「当の奴はどうした」
私は首を振ってみせた。彼は来ない。
上司はまたため息をついた。
「ハーヴェイ・ラトゥールに、命令違反による罰則を課す。内容は陛下に相談した上で考える。今日中には命令書を出せるだろう」
「私は」
「同じ罰則を課すことにはならんだろうが、奴の罰則の場所に付き合ってもらう」
「承知致しました」
「全く……言うことを聞いてくれれば、文句なしの戦力なんだがな。『狂犬』はどこまでいっても、結婚しても『狂犬』か。気に入られた君に任せようというのは、安易なものだったな」
上司は嘆きを溢し、私に退室を許可した。
私の名は、イザベル・ラトゥール。軍人である。
特に剣の腕が秀でているわけでも、馬の腕が秀でているわけでも、頭脳が冴えているわけでもない平凡な軍人だ。
男社会の軍では、女であることと平凡さが合わさり、大して出世もせず、一つの隊の隅で生きていくはずの女だった。
しかし、現在、私は地位をもらい、以前では直接命令されることもなかっただろう地位の方々にどやされるとある重要な役割に就いている。
全ての原因は、二年前に私の夫となった人物にある。
夫の名は、ハーヴェイ・ラトゥール。戦闘能力の化身のごとき強さを持つ軍人だ。
ただし、他の何かが決定的に欠如しており、敵に情けも何も抱かない彼は敵を殲滅することにのみ特化した「狂犬」と呼ばれている。
いや、狂犬と呼ばれる所以はその圧倒的な強さからのみ来ているのではなく、命令違反の数からだ。強く、軍の最大の戦力であるとは明白だが、命令違反を行う、制御不可能な「王の狗」。
もっとも、命令違反の内約は、戦略を無視した行動と、敵を必ず殲滅してしまうこと。時に、敵国のとはいえ民までも敵と認識し、皆殺しにしてしまうこと。
あとは戦場以外の召集には中々応じない。
以上のように、普通ならば軍人としてあり得ないことをする。
しかし、彼は決して軍を追い出されないし、大きな罰を受けることもない。
ハーヴェイ・ラトゥールという男が、この国の絶対的な戦力であり、陛下がその行動を許容するからだ。
そんな男が、私の夫になった理由は。
私が彼の妻となった理由は。
二年前まで、制御不能の狂犬は戦場に出ることを禁止され、『凍結』されていた。制御不能だったからだ。
しかし二年前、私が彼と出会ってしまった際、彼の『凍結』を私が解いてしまったのだという。
彼はなぜか私のことを気に入り、私の言うことを比較的聞き入れた。
やり過ぎだと言うと拳を収め、それ以上はするべきではないと言うと、剣を収めた。
そのことを知った上層部が結婚をまとめた。
彼が言を聞き入れる稀な人間という使う手はない者であると同時に、性別が女であることゆえに彼の強さの遺伝子を遺すことが出来る相手であるという要素。どうせなら結婚させない手はなかったのだ。
それから私は、ハーヴェイという男のものになり、妻として、ずっと側にいることになった。手綱という正式な役として、私が共にいることで戦場に戦力として復帰されることになった彼と戦場にも行く。
戦場に復帰した彼は、私の言うことを「大抵」は聞きながら、国の最終兵器としての役割を果たしている。
執務室に戻ると、夫の姿は机ではなく、長椅子にあった。
高い背丈、長い足を投げ出して、寝そべっている。
ふぅ、とため息をついて、私は長椅子の側にしゃがみこんだ。
黒い髪がかかっている顔は、目が閉じられている。寝ているのだろうか。
私が、一人で上司の愚痴を聞くはめになっている間、のんきに寝ていたというのか。
「──ハーヴェイ」
呼び掛けると、その姿が反応し、目が開いた。黒い眼は目付きが鋭く、顔つきは無表情のままでは近寄りがたい印象を抱かせる。
「イザベル」
一瞬にして、彼は目元を和らげ、口元に笑みを浮かべ、雰囲気を一変させた。
身を起こし、こちらに手を伸ばす。私の頬に手を宛がい、体を傾け、唇を寄せてくる。
触れる直前、手のひらを間に滑り込ませた。
「仕事の時間中よ」
「俺の仕事は、今、ない」
「貴方がしていないだけ。作成すべき書類があるわ」
「しなくたって支障はない。これまでだってそうだった。そうだろう?」
ゆえにこの手を退けろと、手のひらに熱く唇が触れる。
「ハーヴェイ」
私が名を呼ぶと、それがどのように呆れや落胆、嘆きを込めた声であろうとも、彼は目を輝かせる。
「今日中に罰則が下るそうよ」
「そうか」
「そうかじゃないわ。貴方のせいで、私が怒られたのよ」
「お前を傷つけた者がいたなら、殲滅する他ないだろう?」
ハーヴェイの手が、私の左腕を撫でた。
「かすり傷よ」
「傷は傷だ」
「命令は殲滅ではなかったのよ。貴方はやり過ぎた」
「下手に生かしておくより、殲滅した方が後に面倒が起こる可能性は全くない」
「ハーヴェイ、軍は殺戮の集団ではないわ」
全員を皆殺しにするために存在するわけではない。それを目的にした集団ではない。
「貴方の命令違反のせいで、私はいつも、怒られるの」
二年前までは、目を向けられることもなかった地位の人たちにぐちぐち言われる。
私は、恨めしい目を彼に向けてしまう。だって、事実なのだ。
「だが、俺を戦場に行かせればそうなる可能性があると分かっているはずなんだぞ。ならば、もはや容認しているも同然だろう」
「違う。何のために私がいるのか、知っているでしょう」
彼は軍の戦力だ。ゆえに、戦場に送られる。どんな劣勢であれ、確実に盤をひっくり返せるからだ。
制御できるなら、戦場にいかせない理由はない。むしろ、使い始めると常に送り出したいくらいになる。
「制御装置」が私であり、私はその働きを期待されている。
だというのに、戦場で傷をすることなんて当たり前のようでもあるのに、私が怪我をすれば殲滅にスイッチが入るなんて。そのくせ、私の言うことしか聞かないから私は一緒に戦場に行かなければならないというのも変な話だ。
お陰で、私が怪我をすると上からやれやれという目を向けられる。またか、と。
私が。
「理不尽だわ」
「何が」
「貴方に会ってから、理不尽ばかりよ」
私は内心、ため息をついた。
けれど、今ではこんな男を放っておけないと思っていると自覚しているから、どうしようもない。
どうしようもない男と、どうしようもない女の話。