Am Leben
自分の住んでいる町を一望できる。そんな高台に一人で来ていた。自分の住んでいる町がどんなものなのかが見たくなって、とか、気分が落ち込んだから、誰も居ない静かな場所で一人になりたくて、とか。理由らしい理由は何もない。大学生にもなって自分の町に興味なんてわかないし、落ち込んだからといって、どこかに出かけたりする性格でもない。本当に、たまたま思いついたから。そんなふざけた理由で、ただフェンスの前に立って、殺風景で淋しい景色を眺め、いたずらに時間を浪費した。
ふと、視線を下に動かすと、何十メートルも先に地面が見えた。こんなところから落ちたらきっとひとたまりもないだろう。確実に死ぬ。だが、恐怖が湧き上がらない。少しでも足を進めればこの命は尽きるというのに、それをどこか客観的に見ている自分がいた。――おかしなものだ。
「ねぇ、そこの君」
不意に背後から、声をかけられた。先程まで僕しかいなかったはずなのに、この声の主はどこから出てきたのだろうか……恐る恐る振り返ると、見たこともない少女がこちらを嬉しそうに見ていた。腰元まで伸びた長い髪に大きな目、華奢な体つき。多分、こうゆう人が美人と呼ばれるのだろう。――やっぱり僕はこんな美人を知らない。誰かと間違えられているのだろうか?
「自殺、するの?」
「えっ?」
「だーから、自殺するの?」
この子は何を言っているんだろう……まさか、こんなところに立っているから自殺をするのかと勘違いされたのだろうか? それにしてはどこかがおかしい。普通そんな人を見かけたらもっと慌てたり、説得を試みたりするはずだ。だが、この子は、とても楽しそうに、嬉しそうに。嬉々として声をかけてきている。
――まるで、仲間を見つけたかのような。
「違うよ、ただ景色を見ていただけだよ?」
「そっか、それはごめんなさい」
かと思えば、今度は礼儀正しく謝罪をしてきた。どこかつまらなさそうに、残念な様子で。いったいこの子は何者なのだろうか。少女を見ていると、先程は気がつかなかったものが目に入った。少女の左手首に包帯が巻かれている。大きな怪我でもしてしまったのだろうか――それとも自分で傷つけたのか。
「この包帯、そんなに気になる?」
しまった、まじまじと見すぎてしまったか。こうゆうものは不謹慎だから気づかれたくなかったが、指摘されては仕方がない。
「ごめん、そんなに見るつもりじゃなかったんだけど……」
「いえいえ、全然大丈夫だよ。そんなことよりも……この下、どうなってるか……見てみる?」
そう言って少女は誘うように、妖艶な笑みを浮かべながらこちらに、にじり寄って来る。どんな形であれ、女の子と急接近するというのはドキドキするものだ。味わったことのない甘い香りに戸惑い「大丈夫」と断りの言葉すら出てこない。
「どうする?」
そんな僕をからかうかのように今度は耳元でささやいてくる。
なんだこれ……なんで僕はこんなことでこんなにもドキドキしなきゃいけないんだ……
自分でもわかるくらいに顔が暑い。相手に聞こえてしまうのではと思うぐらいに心臓の鼓動が早い。このまま沸騰して、倒れるんじゃないだろうか。
「ふふっ、君顔真っ赤」
少女はクスクスと笑って離れていった。からかわれている、とわかってはいるものの抵抗できない辺り、情けない。知らない女の子に良いようにされ、顔を真っ赤にしてるのも同様だ。
「多分、察してると思うけど、これ自傷の痕なんだよね」
「……」
――やっぱりか。まぁ、予想していたからと言って僕はその先の言葉を用意はしていないし、初対面の僕がこれ以上深く聞いてはいけない気がして、黙り込む。抱えているものは人それぞれだし。明るく見えても、人が抱えている闇は深いし、本当に見かけによらない。それに、聞いたからといって僕にどうすることもできないだろうし。
「あれ、どうしてそんなことするんだ。とか、そんなことはやめろ。とか言わないの?」
「言っても良いなら言いたいところだけど、それを言ったところで君は鬱陶しく感じるだろ?」
「よくわかったね?」
「そんな反応されたらね。それに僕たちは初対面だし、触れちゃいけないところには深く入り込まないよ」
「ふーん……」
「それに、抱えているものは人それぞれだから。自傷する理由も、そうなった原因も痛みも苦しみも。きっと僕が聞いたところで根本的なところは理解してあげられないだろうし、できたとしても本当にわかってあげられるかわからないよ」
「……」
少女から僕をからかっていた時の笑顔は消え、少女の真顔と少しの沈黙が訪れた。なにか、癇に障るようなことを言ってしまっただろうか。やっぱり、だんまりを突き通すことが正解だったかもしれない。――まぁ、そんなことはできないけれど。
「君は、他の人と違うね」
「他の人?」
「うん、他の人。今までこの包帯を見てきた友達とか、大人の人。皆口を揃えて同じことばっかり言うんだ。――誰も私の気持ちなんか理解しようとしてないのに」
そうか、そういうことか。
どうしてあんなに嬉しそうにしていたのか、ようやくわかった。自殺しようとする人なら、きっと気持ちを理解してくれると思ったんだろう。だから、あんな、仲間を見つけたかのような反応だったのだろう。
「ごめんね、期待させるような紛らわしいことして」
「……」
再び沈黙が訪れる。少女は俯いてしまって、表情を読み取ることが出来ない。こんな時、どんな言葉をかけてあげるのが正解だろうか。少女の気持ちが手に取るようにわかれば、きっとすぐにわかるのだろう。――こんなことを考えている時点で、少女の気持ちを理解できていない。まぁ、初対面でそんなことができたら、僕は超能力者として生きていく事だろう。
「謝らないで……君は何も悪いことはしていないよ」
「そうかもだけど……期待はさせちゃっただろう?」
「……自殺する人なら、もしかしたら、わかってくれるかもって思った」
「やっぱりね。――でもそんなことする人でも君の気持ちはわからないと思うよ」
「わっかってる……わかってるけど……」
「もしかしたらって、藁にもすがる想いなんだろう?」
「うん……」
「人間は、簡単に死ねないんだ。どんなに死にたくても。最終的には生存本能に守られる。――だけど、極限状態になった人はね、それを簡単に乗り越えるんだ」
「どういうこと?」
「そうなってしまう人は、周りの事なんか入ってこなくなるんだよ。自分のことでいっぱいで、それで・・・…開放感に包まれて、自分の役目を終えていく。
――だから、君のことは、気にも留めないだろうし、もし話を聞いてくれたとしても、解決策なんか教えてくれない。教えてくれたとしても、それは君の為になるものじゃない。――だから、きっと、わかってくれないと思う」
「じゃあ・・・・・・私はどうしたらいいの・・・・・・誰にわかってもらえばいいの・・・・・・」
俯いた少女から雫が零れるのがわかった。生きる希望がなくて、自殺をする勇気もなくて。自分で自分が理解出来なくて、誰にもわかってもらえなくて。辛くて辛くて、本当にどうしていいかわからないのだろう。それだけ必死で、この子は日々を彷徨い過ごしているのだろう。そんな子に頑張れというのは間違いで、とても酷なことは――僕が一番知っている。
僕はゆっくりと少女に近づき、腕をとって、手首に巻かれた包帯を解いた。
「なにっ・・・・・・」
驚く少女を無視して、その手首に刻まれた無数の傷を眺める。ずっと過去に刻まれた消えない傷に、新しく刻まれたであろう真っ赤な傷、中には縫ったであろう痛々しい痕まで、様々な傷が刻まれていた。普通なら目を背けたくなるような光景だ。でも、これは――
「この傷は、君の勇気と、君の生きている証だよ」
「えっ・・・・・・」
「ここまでよく、頑張ってきたね」
「・・・・・・!」
少女がばっと顔を上げ、こちらをまっすぐ見てくる。その目からは大きな涙が沢山こぼれてきていて。今まで溜めてきたであろう涙がとても綺麗に。
でも、泣いたからといってこの子の痛みがとれるわけではない。これからの人生を信じて生きていけるわけでもない。きっと悲しいことは生きていくうえで無限に続いていくし、目に見えない不安にだって襲われて、眠れない夜を何度も迎えることだろう。だから、ここまで耐えてきた自分を、今生きているこの時を、褒めなければいけないのだ。先のことなんか考えさせないように。今だけを見据えて。
「私って、本当にさ……生きてるんだね・・・・・・」
「そうだよ」
「この先もずっと、生きていくのかな・・・・・・?」
「それは、君が決めることだよ」
「・・・・・・そっか」
少女は自分でつけた傷を眺め、悲しそうに、どこか愛おしそうに――どんな気持ちが込められているかはわからないが。静かに笑った。
「ありがとう」
聞き取れるか聞き取れないか、それぐらいに小さな声で言われた言葉は、きっと今まで頑張って生きてきた自分に対してのものだろう。
――だって僕は、この子の気持ちを全て理解していないし、色々と知ったようなことを考えて言ったとしても、全ては自分の憶測でしかないのだろうか。
こんな複雑な出会いをした僕たちがこの場限りの関係に終わるはずもなく、同じ大学の後輩で驚いたり、いろんな困難を乗り越えたり。めまぐるしい日々を過ごすのだが、勿論それは、また別の話だ。
あとがき(書くことを怠った部分の補足)
少女はなぜあの場所に居たのか?
極限状態でなくとも、自殺をしようとした、だが思いとどまったから。
主人公はなぜあんなにも憶測をたてられたのか。
過去に少女と同じことを経験したことがあったから。
とかを踏まえて、あー、そうなんだと思っていただければ幸いです。
タイトルにある『Am Leben』ですが……気になった人は各自で調べてみて下さい。……はい、ごめんなさい。