第二話 物語の序章
……――温かかった。暗い夢の中で、私は涙を流している。涙は頬を伝い、私のことを濡らしていた。
『……どうして』
ここではないどこかから、誰かが私に語りかけているような気がする。
『…………どうして、貴方がこんな目に?』
身を切り裂かれるような声だった。その悲しみを含んだ声でさえ、私が涙を流す原因になる。
懐かしいその声の持ち主は、一体誰?
知りたいのに、答えがない。なのに、何かが動くような音がした。
私が求めていた影は去っていき、懐かしい匂いが鼻腔を擽る。この匂いは、私が大好きな匂いだ。
『お前か』
低い、男性の声だった。私はこの声も、匂いも、知ってる。
『望三、お前か』
はい。見えない男性に向かって、夢の中で私は答えた。
『生きているのか』
けれど、それには答えられなかった。夢の中の私は、生きているのだろうか。……いや、嫌だ。私はまだ生きていたい。
『望三』
髪を撫でられた。とても気持ちがいいと思う。
男性は、何度も何度も私の名前を呼んでいた。その度に私は、答えられない自分に腹が立った。けれど、男性は私が答えられないのを気にもしなかったようで。温もりと匂いだけを残して遠くの方に行ってしまう。
私は、たった一人で温もりと残り香だけを感じていた。それでも、いつまでもそうしているわけにもいかないのだろう。
ぼんやりと、意識が浮かび上がって来るような感覚がした。
「……ん、んん……」
今頃になって目を覚ます。誰もいない、静かな広間で私は眠っていた。
広い空間なのにいい匂いがする。それは、さっき香った男性の匂いで。
「……貴方様は、一体――」
――誰?
その問いは、私の胸を締めつけていた。何故かとっても痛むけれど、不思議と嫌ではない痛みが愛しかった。
「……あ、目を覚ましたんですね!」
無邪気な声が聞こえてきて、私は思わず視線を向ける。広間の端の方に立っていたのは、先ほど私の前に現れた七星だった。
「えぇっと、望三お姉様が目を覚ましたら……二輝お兄様にご報告! だった!」
「あ、ちょっと……! 待つのです……!」
七星は私の制止を聞かず、足を引きずりながら出ていってしまう。すぐに足音が聞こえて、姿を現したのは男性だった。
その人は全力で走ったせいか、月光のような白髪がボサボサに乱れている。彼は私の視線に気がついて、やがて照れくさそうに髪を整えた。
「望三様、ご無事でしたか」
「……二輝様、なのですか?」
懐かしい二輝様は、幼い頃から何一つ変わらない青白い肌と牙が特徴的だった。だから、何年経っても白髪の一族たちはわかる。
「えぇ、私です。……二輝です」
二輝様は微笑み、私が横になる布団へと近づいた。二輝様の声には安定感があり、聞いているだけでとても落ち着く。瞬間、夢の中の声が似たような感じの声だったことに気がついた。
「…………二輝様」
「なんですか?」
「二輝様……なのですか? 夢の中で、私の名を呼び続けたのは」
すると、二輝様の表情が固まった。そうしている間にも、七星が足を引きずりながら部屋に戻ってくる。けれど、二輝様は七星に気づいていないようだった。
「二輝様?」
「……私ですよ」
二輝様は、そう言って柔らかく微笑んだ。
「やはり、二輝様だったのですね」
私も微笑んで、安堵する。二輝様で良かったと心から思った。
「二輝お兄様?」
「ッ!? なっ……?!」
二輝様は、そんなに驚いたのか慌てて振り返った。確か二輝様は吸血鬼の四半で、人の気配に敏感だったはずなのだけれど――。七星も同じことを思ったのか、不思議そうな表情で二輝様を見上げていた。
「……七星、いつからそこに」
何故か鋭く、強ばったような冷たい声だった。七星は若干怯えたような表情で口を開く。
「え、えっと、望三お姉様が『二輝様なのですか?』って聞いた辺りから……です……」
私に背を向けた二輝様は、まったく動かなかった。代わりに七星の顔が二輝様のように青ざめていく。
「ここではきちんと顔を隠してください」
けれど二輝様は、なんの脈絡もなくそう言った。七星もきょとんとした表情で二輝様を見ていたが、こくんと頷く。そうして部屋を出ていった。
「二輝様。ここはどこなのですか?」
「都の宮中ですよ。貴方はこの地下に」
振り返った二輝様は、あまりにも普通の表情だった。
「宮中の、地下……」
「そもそも何故、望三様は捕らわれていたのですか」
「……ッ!」
ぞくっとした感覚が私の体中を駆け巡る。その原因がなんだったのかは忘れてしまったけれど、何故か急に寒気がした。
「安心してください。望三様の存在は、私を含めた四人の者しか知りません。その四人は信頼できる人物です」
二輝様の声と言葉に、釣られるように頷いて。そして、頭の上に何かが置かれた。それは、ごつごつとしていて温かかった。
「大丈夫ですよ」
二輝様が私の頭を撫でている。私は思わず目を細めた。
「……二輝様。和二お兄様は……実四と聖五は、ご無事……なのですか?」
私はあの地獄の日、命の灯が消えた愛一お兄様の遺体を見つめていた。悲しいまでに、それはよく覚えている。
「御三方はご無事ですよ」
急に目頭が熱くなった。けれど、この感覚は痛いくらいに知ってた。
「……ッ! ぅ……あ……」
枯れたんじゃなかった。ただ、もう何も考えられなくなっていただけだった。
私は声を押し殺して泣いた。
後頭部を滑る二輝様の手は、私をあやすようになっていく。もう子供ではないはずの年齢なのに、心はあの『宮中襲撃事件』から動いていないようだった。
二輝様にしがみつく。かつて私が、白髪の男の子にしていたように。
あの時は確か二十年ほど前で、私は愛一お兄様に叱られて泣いていた。きっと、どうしようもなく悔しかったのだろうと今ならば思う。
『……泣いて、いるのですか?』
戸惑ったような声だった。
顔を上げると、綺麗な白髪が視界に入る。その白髪の人は無表情だったが、瞳と声は本当に戸惑っていた。
『…………はい』
皇位は私の方が上だったが、その人の方が年上だったから敬語で答えた。
『泣きたいのですか?』
『泣きたいのです』
『私は、どうしたらよろしいですか?』
切なそうな瞳だった。なのにどうして表情が変わらないのか、不思議で不思議で仕方がなかった。
『……抱き締めてください』
『……それは、望三様をですか?』
『当たり前なのです』
その人を困らせているとわかっている。わかっていた上で、愛一お兄様への腹いせに私はその人を困らせていた。
その人にしがみつく。その人はそれでも無表情だった。
夜空に輝く月光ようなその白髪に顔を埋めながら、私は泣く。
『……望三様』
『……望三』
『望三』
『はい』
その人の、私を抱き締める力が強くなった。その人の匂いが、私の鼻腔を擽り続けていた。
『私は貴方を困らせていますか?』
『あぁ』
その人は、元から口数が少ない人だった。だから私は、それ以上の言葉を求めなかった。
二輝様に抱き締められながら、そんなことを思い出していた。
その人が二輝様だったかは覚えていないけれど。私がその人のことを好きだったのは覚えていた。
「……もう平気なのです、二輝様。長らく申し訳ございませんでした」
二輝様を離す。二輝様の顔が見えた。
「いいえ。私で良ければいつでも」
無言で頷く。いつの間にか、外は漆黒の闇に支配されていた。
「夜ですね。望三様の髪色と同じ」
「そうですね」
私は何よりも美しい月夜を眺める。
これは、〝幻の皇女〟と呼ばれた私と七星の果てしない物語の序章に過ぎなかった。