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幻の皇女は嫁入り前  作者: 朝日菜
第十章 幻の皇女たち
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第二話 幸福

 目を覚ますと、右肩に鋭い痛みが走った。私は顔を歪め、なんとか体を起こしてみる。辺りを見回すと、私は白い布に囲まれた茵に横たわっていた。

 べちゃっと額から何かが落ちて、拾いあげるとそれは水に濡らされた布だった。


「何、これ」


 内心で首を傾げ、額に手を置いてみる。冷たくはなくて、なのに濡れていて気持ち悪かった。


七星ななせ?」


 白い布と布の境目から聖五せいごが顔を出して一瞬固まる。次の瞬間、大粒の涙を流して持っていた桶を垂直に落とした。


「えっ? せ、聖五?」


 聖五はしゃがんで桶を拾い、何度も何度も「良かった」と繰り返しては、鼻をすする。


「ご、ごめんね? なんか心配かけたみた……」


「謝るのは俺の方です!」


 叫んで、立ち上がった聖五は私のすぐ側で頭を下げた。


「すみませんでした。俺は貴方の護衛だったのに、あの時、守ることができなくて……」


「聖五が謝ることないよ! こんなの誰も悪くないし、私生きてるし!」


 左手で聖五の肩を掴む。上げさせた顔は涙を張りつけていて、胸がきゅっと締めつけられた。


「しょうがなかったんだよ。ね?」


「ですが……!」


「というか敬語禁止! いつの間に敬語になったの?!」


 聖五は迷うような素振りを見せて、口を開く。


「七星が倒れた時、俺は七星に……不釣り合い、だと思ったんだ」


「だからって、勝手に関係を最初に戻して敬語なんか使わないでよ。私の意志はそこにないじゃない。それに――」


 ――不釣り合いじゃないよ。


 その呟きは、大声によって掻き消された。


「七星!」


 開いていた布と布の隙間を通って四都しとが中に入ってくる。ぶちまけられた水に一瞬眉を顰め、彼は手を広げながら駆け寄ってきた。


「来ないでください!」


「はぁ? なんで僕が君に口出しされなきゃいけないの?」


 額を聖五に押されて一歩も私に近づけない四都は、不満そうに頬を膨らます。


「抱きついたら傷口が開くからです!」


 四都は正論を吐いた聖五を睨んで足を止めた。変わらない頬の膨らみのままそっぽを向いて腕を組み、ふっと笑って私を見下ろす。


「四都……」


「意外と元気そうだね」


 多分、わざと聖五と喧嘩したのだろう。私を気遣ったように見える四都は真っ直ぐに立ち、ひらひらと手を振って出ていった。

 静寂が訪れる。途切れた会話は思い出せるけれど、続きをもう一度言うような雰囲気ではない。


「…………」


 聖五は、四都が出ていった一点を静かに見つめ続けていた。私は右肩を左手で擦って、無理矢理深呼吸をする。


「ねぇ聖五。外に出てみない?」


 聖五は私に視線を戻して息を呑んだ。


「外に?」


「知りたいの。今、この宮中で何が起こっているのか。……気分転換にもなるしね!」


 そのまま瞳を閉じて短く頷く。


「七星を襲った忍は望三のぞみお姉様が釈放してしまったらしいが、二輝にきは奴らを野放しにするような奴ではない。眷属コウモリを使って全国を監視しているような奴だから、安心していいだろう」


「望三お姉様と二輝お兄様が……。そうだね、二人の判断に不安はないけれど、聖五が側にいてくれるなら私はもう大丈夫だよ」


 私も頷いた。


「だが、医師がなんと言うか……」


「聖五が説得してくれるよね?」


 聖五は口を噤む。


「してくれるよね?」


 聖五は渋々、「わかった」と了承して出ていった。しばらくして戻ってきた彼は微笑んで私を手招きする。


「やった! ありがとう!」


 ほら、不釣り合いなわけないじゃない。茵から出て畳に足をつけると、聖五がすぐさま尋ねてきた。


「歩けるか?」


 今度は私が口を噤む番だった。畳につけた足でそれを踏み締めて、そうして思いついた。


「歩けない」


 少し狡いかななんて思う。けれど、甘えてみたかった。


「なっ?! だ、大丈夫か?」


「えっ? あ、あぁ。大丈夫大丈夫!」


 気づいてくれないのかな。私は笑って立ち上がる。その感覚はいつものそれで、だけど万人には理解できないであろうそれだった。


「無理をするなと前にも言っただろう」


 焦ったように、私を支えながら聖五が言う。


「……無理はしてないんだけどね」


 聖五の肩に左手で掴まって歩き出した。

 外に出ると、新鮮な空気が私の中に入ってきて心地よい。私を支えてくれている聖五は考え事をしているのか、心ここに在らずといった感じで茜色の空を眺めていた。


「何か考え事?」


「ッ! ……い、いや」


 聖五はすぐに私からの視線を避ける。それがあまりにも不自然で、私は思わず眉を顰めた。


「……今日の聖五、何か変」


 聖五は黙る。その横顔は切なそうで、何故かはわからないけど胸が締めつけられてしまった。


「ねぇ、どうしたの?」


「七星」


 不意に名前を呼ばれてまばたきをした。夕日は私の髪色を鮮やかに染めて、聖五の黒い髪色が際立つ。

 その瞬間、左腕を握られた。


「……幼い頃、俺は七星のことが好きだった」


 きゅ、と自分の唇を真一文字に結ぶ。聖五の言葉の意味の着地点は、今の時点で大体予想ができていた。そのせいか目頭が熱くなる。


「……私は聖五のこと、いい友達だと思ってたよ」


 聖五は、光の加減で微妙に色が変わる黒目を細めて顎を引いた。

 そんな聖五のことを、歳が近いイトコじゃなくて友達だと思っていたのはどうしてだろう。時を経た今になって「違う」と思ったのは、どうしてだろう。


「だろうな」


 その口調は、わかっているとでも言いたげなそれだった。


「でも今は……」


 聖五の「だった」に口が迷った。言いたくて、だけど言うのが怖い。そんな矛盾した私に聖五が言った。



「――今も好きだ」



 私は息を呑んだ。

 聖五が今でも私のことが好きならば、私の想いは――。


「今度こそ必ず守る。俺は、今よりも絶対に強くなる」


 優しく、本当に優しく聖五は私を抱き締めた。私は聖五が言葉を紡ぐ度に頷くことしかできなかった。


「だからこれからも、俺の側にいてほしい」


 その言葉を聞きたかった私は涙を流し、ゆっくりと、それでも確かに頷く。


「私も聖五のことが大好きだよ」


 聖五の腕の中で笑う。


 生まれてきて良かったと。

 生きていて良かったと。

 ここにいて良かったと。


 私は今、何度もそう思う。何かが一つでも違っていたら、今の私たちはここにはない。

 今という未来はきっと、あるかもしれなかったどの未来よりも幸福に満ち溢れている。私はそう信じている。


 聖五はゆっくりと私を離して、唇を重ねた。温かい。私たちは自然と手を握り締めて、そこにある新たな温かさに驚く。


 ――紅色の夕日が、地平線の彼方に沈んでいった。





 翌日、七星は自分たちに起こったことのすべてを志麻しまから聞いた。

 彼女は七星の本当の母親――星那せなのこともわかっている範囲で七星に話す。


 じんわりと心が温かくなった。七星は目に涙を貯めて、聖五はほんの少し俯いて七星と星那の話を聞く。


「聖五、七星」


 一通り志麻が話し終わった後、タイミングを見計らっていたかのように望三が二人に声をかけた。その隣には実四みよしもいて、仲睦まじい二人を見つめている。


「……お姉様」


 望三と実四は微笑んで、聖五のことを和ませた。七星はぴょこんと飛び出した白髪を揺らしながら、従姉に当たる二人に会釈する。


「体はもう平気なのですか?」


「もちろんです、望三お姉様!」


 七星は腕をぐるぐると回しながら活発に答えた。


「嘘をつくな」


 聖五はそんな七星の腕を止めて叱咤する。


「ふふっ。お姉様の言う通り、聖五は立派に成長していますね」


「おっ、お姉様?! 二人ともなんの話をしていたのですか!」


「聖五には秘密なのですよ」


 よく似た三人の異母姉弟は会話を続け、七星が疎外感を感じた刹那にその人たちはやって来る。


「待たせたか、お前ら」


「いいえ、時間通りなのです」


 一覇いちは二輝にき和二かずつぐ三雲みくも、さらには四都に五鈴いすず八灼ややまでもが紫雷殿しらいでんに集まってくる。南庭の巨大な湖からは六七りなが顔を出してきて、異母兄姉の登場に七星は心を踊らせた。


「……やはり、最後は五繰いくですか」


 二輝は頭を抱えて空を見上げる。椛が風に運ばれて落ちる様は、皇族の色を現していた。


 本日帰国してくる予定の五繰の為に集った十二人は、今回の件で様々な思いを巡らせていた。


 生きて帰ってきた望三と七星。出来損ないという評価を覆した四都。自国を憎む亡国の存在を再確認した一覇と二輝。己の弱さを知った聖五も空を見上げていた。

 不意に太陽光が遮られ、誰もがそれの影を追う。絨毯に乗って姿を現した五繰は、迎えに出ていた十二人を見下ろして赤い瞳を見開いた。


「おいおいおいおい、誰だよお前らぁ。知らねぇ奴が紛れ込んでるじゃねぇか」


 五繰の問いに、彼を見上げていた十二人は瞬時に答えられなかった。五繰はそんな全員に苛立ち、催促をして腕を組む。


「初めまして、獅子王ししおう望三なのです」


「はっ、初めまして! 獅子王七星です!」


 望三に続いて七星が答える。


「望三と七星ぇ?」


 前のめりになった五繰は絨毯から飛び下りて、まずは望三を、次に七星を間近で舐めまわすように観察する。


「……ふぅん。お前らが例の〝幻の皇女〟かよ。全然強そうには見えねぇけどなぁ」


 五繰の頭を叩こうとした一覇と聖五の素早い拳は、五繰に躱されて空を切った。


「あっぶね! 急になんなんだよ一覇にぃ! 聖五!」


 不意をつかれた五繰は新たに繰り出された拳も躱す。


「どうして躱すの? 五繰」


「そこから一歩も動かないでくださいね、五繰」


「はぁっ?! なんなんだよ四都にぃも二輝にぃも!」


 ぎょっと目を見開いた五繰は、人が変わったように自分を見据える二人を見返した。


「五繰にいさま?」


 とんとんと五繰の肩を叩いて微笑む八灼に、無言で五繰を見据える実四。高い位置から見下ろす六七に、和二も三雲も冷めた目を五繰に向ける。それが五繰には恐ろしく思えた。


「……な、なんなんだよお前ら! 急にこえぇよ!」


 ずさずさと後退する五繰にじりじりと前進する八人を見て、望三と七星は顔を見合わせる。


「……彼が五繰お兄様?」


「みたいですね、七星」


 五繰はそんな二人を指差して、「見てねぇで止めろよお前ら! こいつらをさっさとなんかしろ!」と叫び回った。


「五繰お兄様、それは無理です」


「なんでだよ!」


「本能がそう言っているのです」


「意味わか……」


「五繰、うるさい」


 四都の刃を全力で避けて、五繰は何にも掴まずに空を飛んだ。そして「ばーか! ばーか! お前らのばーか!」と叫んで逃げる。


「逃げましたね、一覇兄様」


「逃げたな、二輝」


 二人は呟き、一番手のかかる五繰を見送る。望三と七星は知らぬ間に息を吐き、消えていった五繰の言葉を反芻した。

 間接的に五繰が言った「弱い」という事実は、二人がよくわかっていることだった。


「行くぞ、七星。五繰がいなくなったのなら、ここにいる意味はない」


「う、うん。結局私たちはなんの為に集まったの……?」


安曇あずみはまだこの島のすべてを統治していない。五繰と三雲兄様は最後まで抵抗している国を侵略してるんだけど、報告会の度に帰ってくることになっているのに五繰はあぁやってまともに話もせずにどっかの国に侵略しに行っちゃうんだよねぇ」


 ため息をついた四都は、さっさと紫雷殿から出ていってしまう。気ままなエルフである四都に続いた聖五と七星に、他の八人も続いてそれぞれの仕事に戻っていく。


「七星」


「ん?」


「俺は必ず強くなる。強くなるから……」


 足を止めた聖五が口を閉ざした。七星は微笑んで「ありがとう」と呟き、聖五は俯いて小さく笑う。


「望三」


「はい?」


 一覇に呼び止められた望三も足を止め、彼を見上げた。


「この国には一体、どれほどの敵が潜んでいるのだろうな」


「え……?」


「いや、忘れてくれ」


 前を向いた一覇は、視界に入る景色を見据える。望三は何も言わずに一覇の手を握り締め、隣を歩いた。そして思う。


 ――この世界が、ずっと幸せな世界であるように。その為ならば私は、なんだってしよう。

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