第5話『お父さんは心配性Ⅰ』
※
報告書を書くのは厄介なものだ。
所定の形式を守らなければならないし、誤字脱字にも気を付けなければならない。
間違えようものならばこれだから平民出身は使えないと嫌みを言われる。
一応、士爵位を授かっているのだが、それを指摘しても成り上がり者は使えないと言われるだけだろう。
貴族は平民出身者を嫌うものと相場が決まっているのだ。
ロイドは詰め所のイスに寄り掛かって溜息を吐いた。
子どもが死んだ事件の報告書を書くのは憂鬱極まりない。
「よう、不死身の男。報告書作成は順調か?」
レイモンドはロイドの肩を叩くと紅茶を机に置いた。
カップを手に取って一口だけ飲むと、名状しがたい味が口内に広がった。
強いて言えば甘くてエグい。
嫌がらせをされている気分になる。
「順調そうに見えるか?」
「いや、そうは見えないな。後味の悪い事件だったからな」
「そうだな。遺された家族のことを考えると胸が痛むよ」
ロイドは力なく首を振った。
もっとも、そんな風に考えられるようになったのは自分に子どもができてからだ。
「……クソみたいな事件だよ」
不信感を植え付けるために子どもを殺し合わせる。
殺された子も不憫だが、殺した子も不憫だ。
家族揃って街を出て行く羽目になった。
生き残った子ども達も心に深い傷を負った。
「まあ、アルカちゃんとアーネスト君が無事で良かったよ」
「……ああ」
ロイドは言葉を濁した。
「アルカちゃんの様子はどうだい?」
「雰囲気が攫われる前より柔らかくなったよ。自傷も収まったみたいだし、お父さんと呼んでくれるようになった」
「そりゃあ、よかったじゃないか」
「それはそうなんだが……」
「おいおい、何を気に病んでるんだ。お前も、俺も精一杯のことをしたさ。アルカちゃんだって精一杯やって助かったんだ。これ以上を望むなんてバチが当たるぞ」
「……それは、そうなんだが」
上手く立ち回りすぎだろ、とそんな言葉が出そうになる。
レイモンドもそう思っているはずだ。
「本当に俺の子なのか心配になるよ」
「ローラさんに言ったら殴られるぞ」
顔を見合わせて笑う。
「どうして、さん付けなんだ?」
「ローラさんはローラさんだからだ」
レイモンドは真顔で言った。
「現役時代は俺達よりも階級は上だったが、引退した今は単なる主婦だぞ?」
ローラは皇后の護衛騎士を務めていた。
やたら強くて激情家で押しが強い一面があったが、今は大人しいものだ。
「……お前は知らない」
「何を?」
レイモンドは神妙な面持ちで呟く。
「ローラさんは上位存在だ」
「何を言ってるんだ?」
「つまり、俺達はお願いする立場なんだ」
意味がさっぱり理解できない。
「レイモンド、お前は疲れてるんだ。今日は早めに帰って寝ろ」
「お前はいなかったからな」
レイモンドは遠くを見つめるような目で天井を見上げていた。
※
ロイドの家は街の中心部からやや外れた所にある。
道沿いには似たような二階建ての家が建っている。
家族持ちの衛兵と事務官向けの官舎なので、余計な摩擦を生じさせないためにどうしたって似たような造りになるのだろう。
ロイドは胸を張って自分の家を見つめた。
狭いながらも楽しい我が家だ。
そこに妻と子どもがいると考えるだけで気力が湧いてくる。
人間は変われば変わるものだ、と自分でも思う。
ロイド――ロイド・イチジョウ・サーベラスは東国系帝国人である。
東国系と言っても出自を遡れば東国の戦士階級の家柄に辿り着くというだけの話だ。
ロイド自身は生まれも育ちも帝国だ。
残念ながらロイドを帝国人と認めてくれない人は多い。
東国が帝国との戦争に敗れて滅んだにもかかわらずだ。
軍に入隊したのは祖国に対する忠誠を示したかったからだ。
二人の兄も、父親と四人の叔父も同じことを考えていたのだろう。
残念ながら二人の兄と四人の叔父は戦死してしまったが。
若い頃は模範的な帝国人であろうと努めた。
いや、正しくあらねばならないという観念に囚われていた。
それで何度も死にそうな目に遭ったし、余計な敵を作りもした。
それでも、士爵位を与えられる程度には認められた。
今にしてみれば偏狭な生き方だったと思うし、アルカにはそんな生き方をして欲しくないとも思う。
「……俺は父親なんだな」
ロイドはしみじみと呟いた。
一人目の子どもが死産だった時の悲嘆とローラが子どもを産めない体になったと知らされた時の絶望、新たな命を授かった時の歓喜、アルカが生まれた時の感動は今も忘れられない。
家族のために生きよう、と生まれたばかりのアルカを抱きながら思った。
後方勤務を希望して生まれ故郷であるロックウェルの衛兵になった。
もちろん、今だって模範的な帝国人でありたいと思っているし、正しくありたいと思っているが、誇ってもらえる父親になりたいという気持ちの方が強い。
「ただいま。今帰ったぞ」
「お帰りなさい。今日は遅かったのね」
家に入ると、ローラが出迎えてくれた。
制服の上着を脱いで手渡す。
「事件は解決したが、な」
「嫌なものね、子どもが殺されるのは」
ローラは辛そうに顔を顰めた。
アルカが無事に帰ってきてくれたのは嬉しいが、子どもを失ったことのある親としては手放しで喜べない。
シャツの第一ボタンを外しながら食堂に入ると、アルカが座っていた。
何かあったのだろうか、と首を傾げながら自分の席に着く。
「……お帰り」
「ただいま。体の調子はどうだ?」
「……とてもよい」
そうか、とロイドは頷いた。
無表情だが、ローラに似て整った目鼻立ちをしている。
きっと、美人に成長するに違いない。
「あなたに話があるんですって」
ローラは上着をハンガーに掛けながら言った。
そのまま台所に向かう。
「どんな話だい?」
「……む」
ロイドは返事を待つ。
アルカと話す時はコツがいる。
表情をよく観察し、決して急かしたりしないことだ。
美味しそうな匂いが台所から漂ってきた。
「……どうぞ」
ローラが料理をテーブルの上に置き、テーブルに着く。
「……お父さんみたいになりたい」
「あなたが助けに来てくれて嬉しかったんですって」
「……格好良かった」
「そいつは照れるな」
ロイドは頭を掻いた。
当たり前のことをしただけなのに格好良いと言われると照れ臭さの方が先に立つ。
「でも、お父さんみたいになるのは大変よ?」
「……どうすれば?」
そうね、とローラは思案するように腕を組んだ。
「やっぱり、お父さんみたいになるためには士官学校に行くべきだと思うの」
「……なるほど」
思わず、ローラを見つめた。
ロイドは叩き上げで士官学校に通っていない。
通ったと言えば神殿の日曜学校くらいなものだ。
「ちゃんと勉強して、体を鍛えて、お手伝いをして、帝都の士官学校に行けばお父さんみたいになれるわ。あと、お母さんの言うこともよく聞いてね」
アルカはコクコクと頷いている。
「……いや、それは」
「あなたもそう思うわよね?」
ローラは口元を綻ばせたが、目が笑っていない。
「ああ、うん、お母さんの言う通りだな」
父さんは弱い人間だ、と心の中でアルカに詫びながら頷く。
「……それが条件?」
「そうよ。お母さんは軍人になって欲しくないの。自分の我が儘を通すんだから、お母さんの我が儘も聞きなさい」
二人の遣り取りに二重の衝撃を受けた。
ローラがロイドを出汁に使ってびっくり、アルカがローラの真意を理解していて二度びっくりだ。
「……士官学校に行けなかったり、退学になった場合は?」
「その時は諦めなさい」
「……分かった。頑張る」
ローラが少しだけ強い口調で言うと、アルカはコクコクと頷いた。
「これで家族会議は終了ね」
「……おやすみなさい」
いつの間にか開催されていた家族会議に三度目のびっくりだ。
そんなロイドの気持ちに気付いているのか、いないのか、アルカは立ち上がると食堂から出て行った。
二階の扉が閉まる音を聞いてから溜息を吐く。
「驚いた。本当に俺の子か?」
「張り倒すわよ」
思わず呟くと、ローラに笑顔で凄まれた。
「……少し変わっていると思っていたが」
「もう、普通じゃないみたいな言葉は使わないで」
「そうは言うけどな」
ロイドは口籠もる。
難しい子なんだという意識がなかったと言えば嘘だ。
自傷を繰り返す姿を見ていて辛かったし、子どもっぽくない所がずっと引っ掛かっていた。
「あの子は心の歯車が噛み合っていなかったのよ。そのせいで苛々していて、それを私達にぶつけないように自分を傷付けていたの。それと家から出なかったのも誰かを傷付けたくなかったからよ。優しい子じゃない」
「アルカに聞いたのか?」
「母親だもの、それくらい分かるわ」
ロイドは呻いた。
ローラの方がアルカと一緒にいる時間が長いとは言え、ここまで差を見せつけられると呻くしかない。
「そんなに落ち込まないで。あの子の歯車を噛み合わせたのはあなたよ。そこだけは誇っていいわ」
「そこだけ?」
「ええ、そこだけ」
思わず問い掛けると、笑顔で返された。
「それにしても士官学校か。大丈夫なのか?」
「私に似て頭がいいから大丈夫よ」
何故か、ローラは自信満々だ。
「そう言えば明日は休みだったわね。頼みがあるんだけど、いいかしら?」
「ああ、構わないよ」
頼みを断っても押し切られるのは目に見えている。
ここは被害を最低限に抑える意味でも頷いておくべきだ。
「新しいぬいぐるみを作りたいから布を買ってきて欲しいの」
「分かった。ところで、次は何を作るつもりなんだい?」
「もちろん、前回と同じ可愛い熊ちゃんよ」
そうか、とロイドは頷いた。
邪神か、その眷属にしか見えないアレを可愛い熊ちゃんと呼ぶ感性が理解できないが、我慢できる所は我慢するのが円満な夫婦生活の秘訣だ。
※
朝、ロイドが目を覚ますと、ローラは隣にいなかった。
もうお母さんなんだな~、と考えながらベッドから下りて服を着る。
食堂に入ると、ローラはムスッとした表情を浮かべていた。
「遅いわよ」
「申し訳ない」
頭を掻きつつ、自分の席に座る。
ローラは料理をテーブルの上に置く。
寝坊に対する抗議のつもりか、湯気は立っていない。
冷たくなったパンに齧り付き、温めのスープを掻き込む。
食に対するこだわりはないつもりだったが、温かな食事に慣れてしまうと、冷めた食事は精神的に堪える。
「アルカはどうしたんだ?」
「あの子なら公園よ」
そう言えば鳥に餌をやってたな、と手を止める。
まあ、ローラに聞いただけで実際に餌をやっている所を見ていないのだが。
買い物に行く時に声を掛けるのもいいだろう。
休日くらいは親らしいことをしてやりたい。
「買い物に行く時に声を掛けたら?」
「ああ、そうするよ」
ロイドは料理を平らげると席を立った。
※
小春日和と言えばいいのか、秋とは思えないほど温かく穏やかな天気だった。
心地よい日差しに目を細め、公園を歩く。
しばらく歩くと鳥の羽音が聞こえた。
それも一羽や二羽ではない。
もっと、沢山の羽音だ。嫌な予感がした。
そして――。
「アルカーーーーッ!」
ロイドは叫んだ。
アルカが公園のベンチに座っている。
それはいい。
だが、鳥に埋もれているのはどういうことなのか。
どうすれば様々な種類の鳥を集められるのか。
訳が分からない。
「……解散」
アルカが小さく呟くと、鳥は一斉に羽ばたいた。
いや、一羽だけ残っている。
その一羽は甲高い声で鳴いて飛び立っていった。
「……お父さん、どうかした?」
「鳥が沢山いたからびっくりしたんだよ」
ロイドは冷や汗を拭いながらベンチに歩み寄った。
「……アーネストもびっくりしていた」
「そりゃ、まあ、びっくりするさ」
「……無口だけど、気はいい連中」
「そ、そうなのか?」
ローラなら上手く話を合わせられるんだろうな、とそんなことを考えてしまう。
「……お父さん、何か用?」
「ほら、ぬいぐるみを燃やされてしまっただろ? お母さんが新しいぬいぐるみを作るって言うから、布を買いに行くんだ。よかったら、一緒に行かないか?」
可愛い熊ちゃんだぞ、と付け加えておく。
「……むぅ」
アルカは小さく呻いた。
「どうかしたのかい?」
「……お母さんの感性は独特だと思う」
「コメントは控えたいんだがいいか?」
ロイドは間を置かずに問い掛けた。
どうやら、アルカもアレを可愛いと思っていなかったようだ。
ローラには悪いが、親子の繋がりのようなものを感じる。
ちょっと嬉しい。
「……沈黙は金」
「難しい言葉を知ってるんだな。ところで、どうする?」
「……行く」
アルカは小さく頷き、立ち上がった。
ロイドの手をジッと見ている。
もちろん、視線の意味を理解できないほど鈍くない。
「行こうか?」
「……うん」
手を差し出すと、アルカは怖ず怖ずと手を握り返した。
※
街の中心部はいつもと同じように賑わっていた。
アルカの手を握りながら商店の並ぶ区画に移動する。
視線を落とすと、アルカは物珍しそうに店を見ていた。
「何か気になるものでもあったのかい?」
「……この国の物流がとても気になる」
物流、と口の中で呟く。
ローラはアルカが自分に似て頭がいいと言っていたが、同意する。
予想の斜め上をいく当たりそっくりだ。
「ど、どんな所が気になるんだい?」
「……何故、海の魚が売られていないのか。精霊術を使えば鮮度を保ったまま内陸まで輸送できるはず」
「軍では糧秣の輸送に精霊術を使っているんだが、民間でそれをできるのは帝都の大商会くらいだな」
ロイドは答えられる質問だったことに内心胸を撫で下ろした。
「……何故?」
「新鮮な食材が運ばれてくると後方に余裕があると分かるし、温かい飯を食うと明日も頑張ろうって気になる。兵士に飯の心配をさせないことが有能な指揮官の条件だな」
どうして、俺はこんなことを子どもに言ってるんだ、と無精髭の生えた顎を撫でる。
「……お父さんは戦争の経験がある?」
「まあ、な」
アルカは思案するように俯いた。
「……長い間、帝国は戦争をしていないと思っていた」
「東国が滅びてから大規模な戦争はしていないな」
大陸の北に位置する連邦が南下を続け、武力衝突が国境付近で起き、武装勢力が貴族の領地や同盟国内で暗躍している。
しかし、庶民がそれらに対する不安を口にすることはない。
彼らにとっては魔物や犯罪者の方が脅威なのだ。
「……なるほど」
どれほど理解しているのか、アルカは頷いた。
「……この光景が明日にも失われてしまうものとは思わなかった。隣国や反帝国組織の動向に気を配らねばならない」
「そこまで深刻な状況じゃないぞ」
「……備えは必要」
う~ん、とロイドは唸った。
教育はローラに任せているが、何処をどうすればこんな風に育つのか。
そんなことを考えていたら、いつの間にか目的の店に着いていた。
小さな店には鮮やかな布が並んでいる。
しばらく立っていると、恰幅の良い男が近づいてきた。
「ロイドさん、いらっしゃい。今日はどんな用件で?」
「ぬいぐるみ用の布を買いに来たんだ」
アルカの手を放し、ポケットから取り出した紙を手渡す。
「ちょっと待ってて下さい」
店主はそう言って店の奥に引っ込んだ。
隣にいるアルカに手を差し出すが、いつまで経っても握り返してくれない。
不思議に思って隣を見ると、誰もいなかった。
「アルカーーーッ!」
ロイドは道に飛び出して周囲を見回すと、アルカらしき人影が細い路地に入っていく所だった。
慌てて後を追ったものの、所詮は子どもの足だ。
簡単に追いつけた。
アルカはゴミ箱の陰に隠れるように座っていた。
「アルカ、心配させないでくれ」
「……申し訳ない」
アルカはペコリと頭を下げた。
可愛らしい仕草だが、ロイドの注意はアルカが抱いているものに向いていた。
ゴミのように見える。
「……犬を拾った」
アルカは両手でそれを突き出す。
確かにそれは子犬だった。
泥に塗れてぐったりしているが。
「死にかけているじゃないか」
「……お腹が空いているだけ。ぐったりしているのは殴ったから」
「殴った?」
「……自分で助けを呼んだくせに噛み付いてきた。とても恩知らず」
思わず聞き返すと、アルカはムッとしたように言った。
見れば右手の甲に小さな歯形が付いている。
幸いと言うべきか、出血はない。
「……ちゃんと散歩する、しっかり躾ける。だから、お母さんの説得に協力して欲しい」
「お母さんが何を言うのか想定しているのか」
アルカはコクコクと頷いた。
何を言われるのか想定し、根回しを忘れない。
一体、ローラはアルカにどんな教育を施したのだろう。
「分かった。一致団結してお母さんを説得しよう」
「……お父さんだけが頼り」
ロイドは店で生地を受け取り、アルカと一緒に家に帰った。
※
家に帰ると、ローラが出迎えてくれた。
アルカは子犬を突き出して頭を下げた。
その思い切りの良さは誰に似たのだろう。
「……散歩と躾をきちんとするので、犬を飼うことを許して欲しい」
「いいわよ」
ローラは二つ返事で了承した。
これにはロイドの方が驚いてしまった。
絶対に一悶着あると思ったのだ。
「いらない籠でベッドを作って……けど、その前にご飯かしら? ミルクパン粥で大丈夫よね?」
「……大丈夫」
アルカはコクコクと頷いた。
ミルクパン粥とは細かく千切ったパンを牛乳で煮た物である。
離乳食や病人食として用いられる。
「じゃ、すぐに作るわね」
ローラは踵を返した。
「……よかった」
アルカはホッと息を吐いた。
「役に立てなかったな」
「……心強かった。とても感謝している」
アルカは靴を脱いで食堂に向かった。
心なしか足取りが軽い。
父親らしいことができたかな、とロイドも靴を脱いで食堂に。
食堂に入ると、アルカは床に座っていた。
子犬はぐったりしたままだ。
「アルカに離乳食をあげてた頃を思い出すわね?」
「そうだな」
ロイドは自分の席に着き、しみじみと呟いた。
昔から妙に大人しい子だった。
まあ、大人しすぎて気が気ではなかったのだが。
あんなことがあった、こんなことがあった、と思い出を反芻する。
「できたわよ」
ローラは湯気の立つ皿を床に置いた。
「……食べる」
アルカは子犬を床に置き、皿を鼻先に移動させた。
子犬はぐったりしている。
「……食べないと死ぬ」
指をミルクパン粥につけ、子犬の鼻先に持っていく。
子犬は小さな舌でアルカの指を舐めた。
「……もっと食べる」
子犬は震える足で立ち上がり、ミルクパン粥を食べ始めた。
時間を掛けて食事を終えると床に伏せた。
※
翌日、ロイドは階段を下りた所でヤカンを手にしたローラと出くわした。
「アルカが庭で子犬を洗うから持って行ってあげて」
ローラはヤカンを差し出してきた。
もちろん、拒否権はない。
ヤカンを受け取って庭に出ると、アルカは子犬を入れたタライの近くに屈んでいた。
熱湯じゃないよな、と念のためにヤカンの蓋を開けて恐る恐る指を浸ける。
やや温く感じるが、これならば子犬が火傷することはないだろう。
「お湯を持ってきたぞ」
「……お父さん、ありがとう」
「大したことはしていないさ」
ヤカンを手渡す。
アルカはロイドがしたようにお湯の温度を確認してからヤカンを傾けた。
お湯が泥を洗い流していく。
ん? とロイドは軽く目を見開いた。
泥の下から現れたのは青みがかった灰色の毛だったのだ。
アルカはロイドの危惧を他所に子犬の泥を洗い流していく。
子犬はされるがままだ。
犬や猫は水に浸けられるのを嫌がるとばかり思っていたのだが――。
「……お父さん、どうかしたの?」
「よく似た犬を何処かで見たような気がするんだが……」
軍務で同盟国に赴いた時だったか、連邦の同盟国に工作をしにいった時だったか。
どうも思い出せない。
一応、調べておくべきだろう。
「ところで、名前は決めたのか?」
「……犬?」
「いやいや、家族になるんだから、ちゃんと名前を付けてあげなさい」
う~ん、とアルカは唸り、天を仰いだ。
「…………テン」
「うん、まあ、シンプルでいいんじゃないか」
ローラは東国の言葉まで教えているのか、と考えながら頷く。
「……今日からお前はテン」
「わう」
分かっているのか、いないのか、子犬はアルカを見つめ、小さく吠えた。