4.ラーニャの勘違い
(カイル……なんて絶妙な計画なの)
ラーニャ=ハードッツは驚愕していた。
ハードッツ商会の使用人から届けられた手紙を読みなおしていて、何故カイルがこのタイミングで隠居生活を始めたのか、その理由の一端が理解できたからだ。
それは帝国の経済状況と密接に関わっている。そもそもはあの“災厄”が原因だ。
カイル=サーベルトによって撃退された“災厄”は、しかし帝国にも大打撃を与えた。人的損害もさることながら、経済的な力の低下も著しく、一方で褒美としてカイルは大量の金銀財宝を世界各国から与えられていた。
それを抱えておく、という選択肢もあったはずだ。金はそれだけで時には一国とも争える力になる。
しかしカイルはそれをしなかった。代わりに彼がやったことは、世界各地の珍味や珍品を集めるために湯水のようにその金を使うことだった。
その結果――経済が回りだした。
傷跡にゆっくりと薬が染み込むがごとく、疲弊した世界にカイルの財産がゆっくりと回っていき、世界の回復に兆しが見え始めた――まさにそのタイミング。
これよりも早ければ充分に経済を回復させることはできず、これよりも遅ければ逆に余計な歪みを生む。そんな絶妙なタイミングで――カイルは隠遁生活に入ることを宣言したのだ。
これを神業と呼ばずして、いったい何と呼べようか。
(本当に……すごい人……)
カイルは謙虚な人間だ。今回のことも、『美味いもんを食って、面白いものをみたかったからやっただけだ』などと言っており、屋敷にもそれを信じていた者もいた。そんな女達はカイルの隠遁を聞き、付いて来るようなことはしなかった。彼女達を見て、ラーニャが蔑みに近い感情を持ってしまったのは非難されるべきことだろうか。
とにかく、ラーニャにとってはそんな選択肢はなかった。最も強く、最も賢いこの男が次に何を行うのか。それを見ておくことは自分の好奇心のためでもあるし、ハードッツ商会の主の娘として必要なことでもある。
「ラ、ラーニャ、何を読んでるのかな……?」
そんなことを考えていたら、カイル本人に声をかけられてしまった。なんだか気恥しくなり、読んでいた手紙を仕舞う。
「な、何でもないわよっ!ハードッツ商会から来た手紙を読んでいただけだから気にしないでっ」
ちょっと当たりが強くなってしまうのは小さい頃からだから仕方がない。カイルはその辺も充分理解してくれているとは思っているが。
「ハードッツ商会……そうか、実家だもんね……」
「そ、そうよ、実家、別に大して内容のない手紙だわ。わざわざ貴方が気にするようなことじゃない」
素直に、カイルの考えていたことがわかったわ!本当に貴方ってすごい人ね!くらい言えればもう少し可愛げもあるのかもしれないが、どうにもそういう風に気持ちを素直に伝えるのは苦手だ。商人の娘なのに情けない。だから裏方に徹していることになるのだ。
カイルと出会った頃にも事務仕事をしていた。その頃はまだ彼は英雄ではなかったが、名声は徐々に大きくなっており、将来の大口取引先としてラーニャの父親は彼に目を付けたのだ。飲めや歌えやの大歓待にも、さも当然であるかのように動じなかったのはさすがの大物っぷりと言えばいいだろうか。その時に彼の器を見抜いた父親が、酔った勢いもあってラーニャを嫁にどうだ、と言って、カイルも二つ返事で引き受けたのが慣れ染めである。
その頃は何を勝手にと思っていたが、まさかこんなに頭の切れる人間だとは思っていなかった。女性関係も派手なように見えて、うまく貴族や大商人から平民に至るまでバランスを考えていることが後から理解できたし、経済についても先程のようなことが他にもあった。要は、強大な力を持つが故にバランスを取らせることを常に考えていて、それを実行に移せるだけの頭もある人間、それが、カイルに対する今のラーニャの印象である。
とはいえ、そういうことも正直に言おうとすると顔が赤くなってしまって全然別のことを言ってしまうのがラーニャなのだが。
「さ、さあまだ荷物の整理終わってないんでしょ?手伝うからこんなところで油売ってないで行きましょ!」
ぐいぐいと背中を押す。押されながらカイルは、
「手紙――隠す――不自然に話題も逸らすし――実家――暗殺命令!?――」
がくがくと震えながら何か呟いていたのだが、ラーニャがそれに気づくことはなかった。