11.魔獣が現れました
エミナは家事が好きだ。
自分が住んでいた貧民街での家事ならいざ知らず、カイルに連れだされてからは見たこともないような綺麗な家具や美味しい料理が与えられたのだ。それらを綺麗なままに保ったり、自分でもおいしい料理を作ったりするというのは彼女にとっては芸術を愛でるような楽しさがあり、しんどいという気にはならない。加えて、好きな人の役に立てるわけだし。
かくして、彼女はカイルのメイドという立場をとても楽しんでいたし、新しい隠遁生活の基盤を整える仕事も率先して行っていた。
今、山に入って薪集めを行っているのもその一環である。
カイルはどうやら隠遁生活では魔法を使う気がないようなので、ここでの生活はきちんと燃料を集めることが必要なのだ。
魔法は便利なものだと思うので、どうして使わないのかエミナはよく分からなかったが、シーシャが、
「天上教徒のなかでもあまり知られていない話なのですが、教義を厳格に解釈すると他の手段で代替可能なときの魔法の使用が禁忌に当たるという学説があるようですね。魔法を使って楽をしながら過ごすのは清貧という原則にそぐわないだとか、万人に久しく与えられるものではない魔法を使うのは不平等を促進するだとかの考えで。この辺りは意見の分かれるところなのですが――カイル様は厳しい方を選ばれたのですね。こうなると私もおいそれとは回復魔法を使うわけにはいきません」
というようなことを言っていたので、そういうものかとエミナは深く考えないことにした。偉い人には偉い人で色々あるのだろう。
まあ、要するにこれからはカイルの魔法に頼ってはいけないということだ。それさえ理解していればいいだろう、と思ってエミナは薪集めを続ける。そのとき――森の奥から、獣の鳴き声がした。
――否、それは叫び声と言ったほうがいいかもしれない。とても不吉で、死を予感させるような嫌な声。エミナは咄嗟に数歩、後ずさりした。
森の奥から、何かが来る。後ろを向いて走り去りたいが、それができないほどの威圧感。ギラリと光る二つの目が見えた。
「魔獣……死狼……」
星もない夜のような真っ黒な色。大きさは熊よりもさらに大きく、鋭い牙を持った口を開け舌をだらりと出して、よだれの垂れるがままにしている狼。
名前だけは聞いたことがある。実際に見るのは初めてだ。ここは山奥と言っても辺境の地というほどの場所ではない。そんなところに中規模の魔獣が出るなんて思わなかったから油断していた。
『心配すんな、死ななきゃ俺かシーシャが助けてやる』
昔“災厄”との戦いの間に、カイルが言っていたことを思い出す。しかし、今は隠遁生活で魔法を使わないことにしているのだ。勿論本当にエミナが死にかけたら彼は助けてくれるのではないかと思うが、彼の誓いを自分のせいで無駄にしたくはない。
「逃げる……怪我なく帰ってやる……」
それがどれほどまでに大変なことかは彼女もよくわかっている。けれど、カイルに迷惑をかけたくないという強い気持ちが、彼女の原動力になった。
「えいっ!」
今まで拾い集めていた薪を別方向に投げ、注意を引いた隙に後ろを向いて走り出す。
息ができなくなるほどに力を込めて、エミナは家への道を全力で駆けた。
(撒け、た……?)
しばらく走るも、後ろからは魔獣に攻撃されない。うまくいったかと思ってちらりと振りかえった瞬間――太い爪が視界に入った。
「きゃっ!」
咄嗟に体をよじったおかげでなんとか直撃は避ける。何箇所か軽い打撲をしたがそれだけだ。だけど、絶望は彼女の目の前に口を開けて待っていた。
(あ、これヤバイ……)
怪我なく云々ではなく、一撃で魔獣に命を奪われる。そうしたらもうカイルにすら助けてもらえないかもしれない。
「ご主人様――」
小さな絶望の声が、彼女の口から漏れたその瞬間――
今にも襲いかかろうとしていた魔獣の体が、魔法で根こそぎ吹っ飛んだ。
(ご主人様?!)
エミナは魔法が飛んで来た方向を見る。そこにいたのは彼女の愛しのご主人様――ではなく、
「おや、カイル師のところのメイドっ娘か。師はどこにいらっしゃる?」
カイルが現れるまで帝国最強の魔法使いだった老人――帝国二番手魔導師マローだった。