10.皇帝陛下の勘違い(下)
「陛下!?ご無事でしたか!?」
カイルが去ったあとで、ようやく貴族連中や近衛達が皇帝の間にやって来た。だけど責める気にもならない。奴がここに来るまでに宮廷の半分くらいが破壊されたのだ、指揮系統に混乱が生じたとしてもやむを得ない部分もあるだろう。
――さすがに、同じ失敗を二度と繰り返さないための措置くらいは取るつもりだが。
「……俺は、無事だが……シーシャを、奪われた」
言っていて、自分で情けないと思う。
何より情けないのは、カイルが言っていた通り本当にシーシャを大事に思っていたのか疑問に思うことだった。
こうしている今も、皇帝としての評判の低下、それに伴う権威の喪失と民心の離れ、宮廷破壊による市民の不安の軽減策、修繕費をどこから捻出するかなどが心の片隅を駆けて行く。
本当に大切な妻なら――彼女のことしか考えられなかったろうに。
それでいいのだと、自分に言い聞かせて来たけれど。
ここまで極端な状況に追い込まれて、ようやくエルクは自分の不自然さに気づいた。
「皇妃様を……それは大変、おいたわしいことでございますが……」
「あのバケモノが、それで満足してくれるなら……」
「来るべき“災厄”に備えて、飼いならしておく意味でも……」
取り巻き達が、自分と同じような思考を口に出す。なんだかそれが、今はとても不愉快な気になった。
「陛下――ご無事で……」
そこで、一際澄んだ声がエルクの耳に届く。
振り向くと、メイドがいた。
昔からよく知っている、幼馴染の彼女。
「ユイ、キナ……」
よく見ると、彼女の服のあちこちに血がついている。さらに彼女は涙を流していた。
「おいっ!どうした!?どこか怪我したのか?痛むのか!?」
「い、え……これは、かすり傷です……涙が出ているのは……陛下がご無事だったことが嬉しいからで……あ、いえ失礼しました!シーシャ様が攫われたというのに私は……」
少し顔を赤らめながらそんなことを言う彼女に、エルクはほっと安心する。
安心?
今まさに妻を攫われておいて、何で自分は安心しているんだ?
理屈ではそう思うも、感情が安心してしまうのだから仕方がない。
(もしかして、俺は……このメイドの、幼馴染の、ユイキナのことを……)
あまりにも馬鹿すぎて、酷過ぎて笑ってしまう。
あの無礼で暴力的な酔っ払いのことを何も言えない。それどころか、これを気付かせるためにやったのではないかと思ってしまうほどだ。
さすがに口には出せない。今は、まだ。
だけども――あれほどまでに力を持ちながら、あれほどまでに好き勝手に生きている人間がいるのなら、自分も少しくらい我儘を言っても許されるのではないか、なんて。
不謹慎にも、ワイゼンハマーン帝国第12代皇帝エルク=ラウタボクリスは、そんなことを考えてしまったのだった。
(あのあと……聖女が不貞を働いたということになってはだめだということで大急ぎで離婚の手続きをしたり……見捨てた上に勝手に離婚していったいどんな風に罵られるかと覚悟しながら、決死の覚悟でカイルのアジトに忍び込んだら案外ケロっとしている上に酔っ払っていないカイルとはまあ会話が通じて拍子抜けするし……その上でユイキナに婚約を申し込んだら思わず素に戻ってどつかれるし……でもなんだかんだで結婚できて……)
皇帝の回想は尽きない。
普通ならば、屈辱的で、最悪な恥の記憶。
なのになぜか、彼の口元には微笑みが浮かぶ。
それは皇帝の度量の広さを示すものなのか、あるいは……
その事件以来、少しだけ変わった彼自身の、憑物が落ちたような爽快感によるものなのか。
「陛下、ランデル川護岸工事の件、まだ何かございましたか……?」
「すまない、だがもう少し考えてみたくなった。どちらかに勝たせて終わりではなくて、本当に両者にとってよい妥協点が存在しないのかとな。私が自分で現地を視察したいのだが、うまく予定を組んでもらえるか?」
「はっ!かしこまりました!陛下直々にご覧頂いてご判断いただけるとあれば、住民の納得もより充実したものになるかと!」
ワイゼンハマーン帝国第12代皇帝が、少しだけ仕事のやり方を変えたのは事実である。