猛々しき女傑、リンダ! 生死をかけた決闘の幕が上がる!
(あわわわっ!)
坂道を登り切って武台に上がったテオは、この上なく緊張していた。手足はカチコチとロボットのように動き、前歯も奥歯もガタガタと音を鳴らしている。
闘技場内は文字通りの大騒ぎになっており、その喧騒がテオの心をさらに揺さぶってくる……テオは大勢の人間の注目を浴びるのは初めてだったし、何より目の前にいるリンダの気迫に完全に押されていた。
そんなリンダが自分の方に歩いてきたので、思わずテオは後ろに下がってしまった。
(あ……)
ふとテオの視線に、剥き出しの地面に描かれた二本の白線が見えた。
リンダは、その白線の内側で歩みを止めた……慌ててテオも、その白線の内側まで走っていく。思わず恥ずかしい思いをしてしまったテオは、さらに焦り始めた。
目の前のリンダは、初めて会った時とは違って無表情でテオを見ている。
しかし、今のテオなら分かるが、その闘気は今すぐにでもテオを殺してやろうという、『殺気』に満ち溢れていた。
二人が相対していると、レフェリーと思われるデューク人の女性が二人の間に入った。
しかし、彼女が何か言おうとした瞬間、凄まじい殺気をテオは感じた――思わず目の前のリンダを見るが、殺気は彼女から感じない……むしろ、彼女は殺気の出所を探っているようだった。
テオも殺気の出所を探ろうとしても、よく分からない……ふと目の前のリンダと女性を見てみると、彼女達は一等観覧席を見ていた。
テオもそこを見てみると、殺気はそこから放たれているように感じた……テオはしばらくそこを見つめていたが、やがて殺気は消え去った。
すると、レフェリーと思われる女性がホッと胸を撫で下ろして説明を始めた。
「……規則を説明します。まず、今回の決闘は気弾や爆発波は厳禁とします。また、移動の際の飛行術の使用を許可します」
女性はそう言うと、さっさと武台から立ち去ってしまった。
そして、武台がテオとリンダの二人きりの世界になると、客席の歓声はより大きくなっていった。
「……おい」
「……え?」
闘技場内が熱狂に包まれるなか、リンダのしゃがれた物静かな声だけはテオの耳にハッキリと聞こえてきた。思わずテオがリンダの顔を見ると、彼女はどこか穏やかな様子だった。
「アンタがヴェグナガンみたいなクズ野郎だとは思っちゃいない。だけどね……アタイはどうしても納得がいかないんだ。悪く思わないでおくれよ?」
テオがリンダの顔を見ていると、リンダはそう言って構えを取り始めた。
テオも、慌てて構えをとる……そして、死合いの合図を知らせる鐘が鳴った……。
※
「エルザ……」
「ん? あら、叔母様。ご機嫌よ――」
「黙りなさい」
「……え?」
試合開始の鐘が鳴る少し前、一等観覧席には不穏な空気が流れていた。
アスナ達が坂道を上り切った先には観覧席があるわけだが、その一席にはすでにエルザが座っており、エルザの姿を見た瞬間、アデーレが彼女の前まで進んで行ったのだ。
「聞きましたわ。テオ様の事を悪く言ったそうですわね?」
「ああ、そのことですか?」
エルザは口元に意味深な笑みを浮かべて、席から立ち上がった。
まだ成人していないのか、エルザの体型は女性らしくスラリとしており、アデーレよりもずっと小さい。せいぜい、テオより少し大きいくらいだ。
「確かに、色々な方に言いましたわ。それが何か――」
そこまでエルザが話していた時、アデーレの平手打ちがエルザの顔面に炸裂した。
「お、おい、アデーレッ!?」
アスナは目の前で起きた光景に驚いてしまい、鐘や太鼓を叩く役の女性も、チラッと横目で様子を伺う。出入り口にいたジーナは、厳しい表情で事の成り行きを見守っていた。
「……何か、問題でも?」
エルザは徐々に赤くなる頬を押さえて、アデーレをジッと睨みつけた……アデーレも、普段の温厚な様子とは違って、憤怒に彩られた様子でエルザを睨みつける。
「ありまくりですわっ! あなたがテオ様の根も葉もない噂を広めたおかげで、このような事態になったのですよ?」
「それは誤解ですわ、叔母様。私はただ、あの人の第一印象を素直に一族や他の方に申し上げただけですもの」
エルザは嫌味な笑みを浮かべて、アデーレを見つめる……彼女は、アデーレがテオに好意を寄せていることを知っているのだ。
「……あの方の何が問題なんですの?」
「……はっきり申し上げて、彼は弱いでしょ? ですから……」
そこまで言って、エルザは他の者に話を聞かれないようにアデーレに近寄って耳元に口を寄せようとした……アデーレもその意図を察し、顔をエルザに近づける。
「……そんな彼に、誇り高きグラヴィオン家に名を連ねる私が嫁ぐなんて……叔母様としても反対なのでは?」
「……」
その言葉に、アデーレは何も言えなかった……彼女自身はテオに好意を寄せているが、彼女の出身一族であるグラヴィオン家としては、すでにエルザを嫁がせることを止めるような動きがあるのはアデーレも知っていた。
元々、エルザが界皇ヴェグナガンに嫁ぐことが決まったのも、彼が強かったからだ。強い界皇の伴侶となれば、その者の出身一族の株も上がる……スキティア人の大部分は共感しない考えだったが、ヴァステン人の有力一族であるグラヴィオン家では、その考えがまかり通っていた。
だが、その計画は界皇が魂替えによってテオに変わってしまったことによって、大きく変わってしまった……グラヴィオン家は、界皇が魂替えしたことを知ると誰よりも早くエルザを派遣し、魂替えした人物を見定めようとした。結果は最悪……界皇としては不適正と判断されてしまった。
その報告はアデーレにもされていたが、関係なかった……ただ自分が、テオの傍にいられれば……それだけだった。
「ということですので、あしからず」
そう言って、エルザは席についてしまった。
後に残されたアデーレは、これ以上ないほどの殺気を放っていた。それを察してか、席についたエルザも顔を強張らせて振り返る。額からは汗が流れ、ゴクリと息を飲む……周りにいる女性達も、アデーレの放つ殺気に呼応して緊張している。
それも当然だろう……アデーレの殺気は一等観覧席どころか、闘技場内にいるすべての女性達が感じ取れるほど強烈なものだった。
「な、なんですの、叔母様……?」
エルザが声を震わせながらそのように聞くが、アデーレはふっと視線を外した。同時に、殺気も消え去る。
「……別に」
「……」
その後、アスナ達はそれぞれいつもの席につき、テオとリンダとの決闘を見守る。
そして、観覧席にいる女性が、決闘開始を知らせる鐘を鳴らした。
※
「はっ!」
先に動いたのはリンダだった。彼女はテオの顔面に向かって、右正拳を叩き込む――。
(よしっ!)
その動きは、意識を集中させたテオにはハッキリと見ることができた。
そして、テオが考えるよりも早く、その体はリンダの攻撃に反応した――テオはリンダの突きを捌いて右腕を捕らえ、リンダの懐に入り込んだ――。
「甘いよっ!」
しかし、リンダはそんなテオの動きに困惑することなく、膝蹴りを浴びせようとする――が、テオはその膝蹴りさえも捌き、リンダの腕を掴んだままその真横に入り込み、掴んでいた右腕を軽く捻った。
「むおっ!?」
そして、片足立ちとなったリンダの体勢は崩れる。
(とった!)
テオはリンダの右手と手首を掴み、小手返しをする……リンダの両足は地を離れ、その体を回転させる。
テオは初めてこの技を使ったが、自分でも驚くほどバッチリと決まって安堵していた……しかし――。
「っ!? させるかっ!」
リンダは身体が回転している最中に飛行術の要領で体勢を整え、テオの身体に対して真正面の位置となる空中で制止した。
(えっ!?)
「おりゃあっ!」
そして、リンダの渾身の空中膝蹴りがテオの顔面に炸裂した――テオの身体は爆発したように吹き飛び、武台の端の壁に叩き付けられる。
「がはっ!?」
背中をしたたかに打ち付け、息が詰まる……叩き付けられた土の壁にはヒビが入り、細かな破片がテオの身体をつたってその足元に転がり、さらに小さな土の粒となった。
(そ、そんな……)
テオがそう思ったが矢先、リンダはテオの元へ踏み込みと飛行術を駆使して間合いを詰め、拳による猛連打を浴びせる。
「オラッ! どうしたんだいっ!? その程度かいっ!?」
リンダが一撃を加えるたびに、武台のヒビが入った壁は崩壊していき、テオの身体をめり込ませる――やがてテオに動きがないと分かると、リンダはその猛攻の手を止めた。
彼女の目の前で倒れているテオは体中から出血しており、指先一つさえも動いていない……その呼吸は、完全に止まっていた。
「はぁ…はぁ…どうだっ! アタイが一番だっ! アタイが次の界皇だっ!」
リンダは両手を上げて、客席にアピールし始めた。その客席よりも上……一等観覧席には、無表情のエルザと沈痛な面持ちのアスナ達がいた。
「お、おい、どういうことだよ? なんで負けちまったんだよっ!?」
ジーナは、訳が分からないといった様子で自身の母親とテオに視線を向けていた。
その横で、アスナは冷静に事態を分析した。
「おそらくだが……実戦経験の差だろうな」
「実戦経験の差?」
アデーレはアスナを見た。アスナの言葉につられて、ジーナもアスナを見る。
「ああ、そうだ……今の陛下の動きは、かなり良かったと思う。私達が相手だったら、間違いなくあの技をくらっていただろう……しかし、相手はリンダだ。彼女は、私達が生まれるずっと前から長く激しい戦争や戦闘を生き残り、実戦経験を積み上げてきた。その経験で培った勘のようなものが、『このままではマズいっ!』と彼女に直感的に知らせた結果、リンダはあのような動きが出来たのだろう」
「……まぁ、確かに実戦経験の差は認めるぜ。悔しいけどな……」
そう言いながら、ジーナはリンダを恨めしそうに見た。彼女自身、母親との実力差を一番よく分かっている……それゆえに、テオが負けるかもしれないということも、頭のどこかでは認識していた。
だが実際にその光景を見ると、母親が勝ったとしても嬉しくはない……それよりも、これからのテオの将来が心配だった。
彼はまだ、生きているのだろうか?……もし、リンダがテオを殺すようなマネをしたら――。
(ぶっ殺してやる……)
ジーナの心に、ドス黒い感情が宿った……後ろの席でアスナ達の会話を聞いていたエルザも、心なしか悲しい顔をする。
(そう……これは当然の結果よ。あの人が弱かったというだけ……)
そう思っても、エルザの心には引っ掛かるものがあった。
(……っ! そ、そもそも、リンダ相手に決闘で勝つこと自体が無謀だわっ! あの人に勝てる人なんて、それこそ先々代界皇しかいないでしょうにっ!)
年相応に熱く、激しやすい性格をしているエルザは、誰にも悟られないように膝に置いていた両手をギュッと握りしめた。
一方、アスナとアデーレも、両手を上げて喜ぶリンダを見て思うところがあった。
(やはり、無理だったか。それよりも……これほど実力差があれば、たとえリンダが陛下を殺してしまったとしても、恐らく問題ないように扱われるか……)
(つくづく思いますわ、テオ様……あなたにふさわしいのは、あのようなゴリマッチョ女ではなく、私のような高貴な女であることを……)
※
すでに心臓の鼓動を止めたテオの思念は、また謎の空間に来ていた。
「……負けたようだな」
テオの目の前にはフォルトゥナがおり、朗らかな表情をしている。
「うん……」
特に言い訳することもないので、素直にそう答える。
「それで……もう終わりか?」
「……何が?」
テオは座ったまま、目の前のフォルトゥナを見た。
「このまま元の世界に戻るか、この世界で頑張るか……それを聞いているんだ」
「……え?」
テオが呆然としていると、フォルトゥナは手を地面にかざした。
すると、地面にはかつてテオがいた世界が浮かび上がり、中島戦徒が辿ってきた人生が走馬灯のように流れる。
「どうする? 戻るか?」
「そんな……あなたは僕のいた世界の場所が分からないって……」
「あれ? そんなこと言ったっけ?」
フォルトゥナは、意地悪く笑みを浮かべた。
テオはその姿にムッときたが、改めて地面に流れる走馬灯を見て、全身から冷たい汗が噴き出してきた。
戻りたくない……戻るくらいなら、このまま消えた方がマシだ……あるいは、もう一度あの世界に戻るくらいなら、この世界で何度でもリンダと戦う方を選ぶ……もはや背水の陣だ。
「……どうしたらいい?」
「ん?」
「どうすれば、もう一度戦える?」
ジッと自分を見つめるテオを見て、フォルトゥナの心の奥がゾクッと震えた……かつて、この感覚を味わったのは数えるほどしか無い……それは、圧倒的強者と対峙した時だけだ。だが、今テオから感じ取るのは、どちらかというと追い詰められた獣が放つ、驚異的な生存本能と闘争本能に近い。
ただ、それでも目の前の少年が醸し出す強者としての片鱗を覗き見たフォルトゥナは、穏やかな表情で言った。
「……簡単な話だ。今の君は死にかけている。心臓は鼓動を止め、呼吸は完全に停止している。しかし、まだ大丈夫だ。君が、自分の心に命じればいい。『戦いたい』とな」
そして、フォルトゥナは紫色の閃光と共に消え去った。
「もう一度……」
テオはそう呟き、意識を集中させた……すると、テオの身体は空間から雲散霧消していった……。
※
「とにかく」
アスナは眼下に見えるテオの姿を目にしながら、席を立った。
「陛下は……テオ様は負けた。私達も帰ろう。新しい界皇を迎え入れなければいけない」
アスナはあくまで自分の立場を弁えて、冷静に何の問題も無いように言ってのけたが、その心中は穏やかではない。
リンダはスキティア人の界皇として、充分にその役割を担うことが出来るほどの人物だ。
しかし、ヴェグナガンと魂替えまでしてこの世界に現れたテオを差し置いて、今この時代でリンダを界皇として迎えていいものか……そう考えると、アスナとしては賛成は出来ない。
それに、界皇となる人物は初代界皇の頃より数代は決闘を経てエヴァンジェリア家の者が選出されてきた。
エヴァンジェリア家はいわゆる『ヴァーゼの民』ではあるが、今日でも新しい界皇を選出する際は他の領地のスキティア人達と『ヴァーゼの民』と協力して界皇を選出している。
それは、彼女達が他のスキティア人達よりも並外れて強い存在であるからだ。その圧倒的強さゆえに、途中の代から新しい界皇は自動的にエヴァンジェリア家の者より選出するようになったのだ。
その方が手間も省けるし、不満があれば決闘を申し込めばいい……当時の者達も今を生きる者達も、そのように認識している。
なにより、界皇の座を空位にしておけば、その座を狙ってスキティア人達の間で無用な争いが起きかねないし、獣人共にその隙を突かれる可能性だってあり得る。それで自分達が滅びるとは思えないが、それなりに勢力図に影響を及ぼすだろう。
「そうですわね」
アデーレは、武台の上に横たわるテオを見ながらそう言った。
たとえ彼が死んでしまっても、その思いはずっと自分の中にある……そして、ある意味では永遠に自分のために生き続けるのだ。
やがて自分がこの世を離れる時、自分とテオはヴァンディア物語のミーヴェとラインハルトのように天堂で再会し――。
「クソッ! お袋に頭下げなきゃいけねぇのかよっ!」
ジーナはそう言って、拳をギュッと握りしめた。分かっていた事だが、やはり納得できない。
テオは無事だろうか?
頭の中でリンダに対する怒りが沸き上がる一方で、テオを心配する感情がジーナの心の中で渦のように巡っていた。
昨日、自分は勢いでテオに夫になるように言ったが、その思いは本気だった。好きという感情よりも、一緒にいて楽しかったから……自分と一緒にいてくれそうだったから……ジーナがテオの事を気に入ったのは、テオがそれなりに強くなっている以外にも、そのような理由があったのだ。
子供の頃から、ジーナはリンダにまともに育てられた記憶がない……せいぜい、組手の相手をしてくれたぐらいだ。
それだけでもジーナには嬉しかったが、リンダはジーナが生まれた後もほとんど遠征に出ていて、組手以外の遊びや、一緒に生活すること自体が少なかった。その子供時代の空白を、ジーナはテオで埋めようとしたのかもしれない。
(……なによ……)
一方、自分ではどうしようもない理不尽な現実に、エルザは悩み苦しんでいた。
これが、自分がテオの悪評を吹聴した結果なのだろうか?
一族の人間と、テオに嫁ぐことをやめる話をしていた時はこんなに頭にくることはなかった……むしろ、あの弱々しい界皇と結婚しなくていいことが決まって、せいせいした気分だった。
だが、今は違う……目の前で倒れている、自分と同年代の少年……考えてみれば、彼はこの世界の事など何も分からずに、いきなり界皇としてこの世界に君臨することになったのだ。
自分は、そんなことになって正気でいられるだろうか?……恐らく無理だろう。自分が偉そうに振る舞っていられるのは、ひとえに一族の力あってこそだ。
そう思うと、目の前に見える少年が血まみれで倒れてしまった原因は、自分にあると言える。実際、リンダにテオの悪評を言ったのはエルザなので、その事実は曲げようもないだろう。
だからこそ苦しく、頭にくる……自分のせいで、あの少年を苦しめてしまった……その想いが、エルザを押し潰そうとしていた。
エルザは、チラッとアデーレを見た。
今からでも、叔母に詫びを入れようか……たとえ許されることが無くても、そうすることで少しでも自分の背負う罪から楽になりたい……エルザは、席を立ち上がった。
しかし、エルザが謝罪する間もなくアスナ達が立ち去ろうとした時、場内は一際大きな歓声に包まれた。
アスナが何事かと振り返ると、アデーレとジーナは武台に釘付けになっていた。
「ん? どうかしたのか、お前達?」
「み、見てみろよ、アスナッ! テオがっ!」
「テ、テオ様が……」
二人の尋常ではない様子に、アスナも思わず武台を見る。エルザも、いつの間にか武台から身を乗り出していた。
「っ! な、なんだあれはっ!?」
※
アスナが見つめる武台の先には、全身から薄緑色と薄水色が混じった、柔らかで複雑な色彩を放つ闘気を放出するテオの姿があった。倒れているテオの闘気は彼の全身を巡り、リンダから与えられた傷を次々と修復していく。
「な、なんだいっ!? 何が起きてるのさっ!?」
突然の事態に動揺を隠せないリンダは、傷が修復されていくテオを見て、唇を噛んだ。
少なくとも、自分は界皇になるはずだった……しかし、目の前の次期界皇はその傷をあらかた修復し終え、立ち上がろうとしている……それどころか、彼の戦闘力は先程よりも上がっているように感じる。
『奴は危険だ……』
本能から送られてくる信号は、しきりにそう警告していた……リンダの褐色の肌からは球粒の汗が噴き出し、膝が笑ってしまう……その事実を目の前にして、リンダはカッと目を見開いた。
(ま、まさかっ!? そんなっ!?)
それは、リンダには受け入れられないことだった。
自分は、目の前の相手に恐怖している……だが、それはあり得ないことだった。こう見えても、自分は皇国が誇るエリート戦士に名を連ねる人間だ。
そして、その長い戦争や闘争に明け暮れた人生の中で、彼女が恐怖した相手はたった一人だけ、先々代界皇だけである。
今、あの人はどうしているだろうか……ふと、リンダの脳裏にそのような思いが駆け巡った……それはまるで、これから自分がこの世を去ってしまうかのような感覚に陥らせる……。
リンダはブルブルと首を横に振ると、気分を落ち着かせるように息を吐いた。
「クソッタレ……」
リンダはそう吐き捨てると、両足を開き、両手を大きく広げて構えた……それは、テオに追い詰められたジーナがとった構えと同じものだった。
なんのことはない、もう一度叩きのめせばいいことだ……彼女はそう思った。
今や目の前の少年の戦闘力は自分と互角か、少し上まで上がっていると思う……彼の身体から発せられる闘気から、それを察することが出来た。
だが、少年はめり込んだ壁から手や体を引き剥がして立ち上がるが、そのまま動かない……おそらく、疲労で立つのもやっとなのだろう。
リンダは一回深呼吸をして、闘気を放った。
「……もらったっ!」
リンダは全身から闘気を放出させ、ジーナと同じようにテオに詰め寄り、テオの身体目がけて全身全霊で闘気を纏った拳を振りかぶる。
「喰らいなっ! 金剛羅王拳、奥義っ! 滅衝爆砕陣っ!」
リンダの拳はテオの胴体の中央に当たり、凄まじい破裂音を武台に響かせ、その拳撃の風圧で巻き上げられた武台の砂は観客席の方まで飛び散った。同時に観客のボルテージも最高潮となり、大きな歓声が上がる。
「……へへ、ちょろ――」
しかし、勝利を確信したリンダの顔面にテオの裏拳がめり込み、彼女の身体は横に吹き飛ばされた。
それと同時に、闘技場内に大歓声が沸き上がる。
「な、なんだよっ!? 何が起きてんだよっ!?」
「分からん……いったい、なにが……」
「同じくですわ……」
「どうして……」
観覧席にいる四人も、何が起きているのか理解できていない……しかし、この事態に一番驚いているのは、武台の壁に叩き付けられたリンダだった。
(あ、ありえねぇ……アイツは死にかけだったはずだ。アタイの技を喰らって……な、なんであんなに動けるっ!? それにこの拳撃……さっきまでの奴とは思えぬ……まさか、手加減してやがったのかっ!? 何のためにっ!?)
地面から立ち上がりながら、リンダはそのようなことを延々と考えていた……リンダの十数メートル前方には、テオが何食わぬ顔で地面に立っていたが、リンダが立ち上がるとテオは容赦なく襲い掛かる。
テオはリンダとの距離を闘気の光の軌跡を残しながらほぼ一瞬と言える速さで詰め、彼女の両目に指を突き入れようとした。
「うおっ!」
リンダが体勢を崩してテオの目突きを避けると、テオはガラ空きのリンダの腹部に肘打ちを喰らわせた。
「うぐぅっ!」
衝撃でリンダの身体はくの字に曲がるが、苦痛のあまりに跳ね上がるリンダの顔にテオの右回し蹴りが炸裂した。
リンダの身体はまたもや吹き飛ばされ、その巨体を武台の壁にめり込ませる……彼女の身体が叩き付けられた壁は音を立てて崩壊し、その被害は観客席の一部までにも及んでいた。
テオはリンダに間隙無く素早く踏み込むと、その右拳を叩き込もうとする。
「くっ!」
リンダがもはやこれまでと目を閉じて死を悟るが、特にこれといった衝撃は感じない……不思議に思って目を開けると、その顔面の数ミリ手前に、テオの拳があった。
「はぁ…はぁ…」
彼女の目の前にいるテオは荒く息をしながら、リンダの目をジッと見つめていた。
「な、なんだい? 情けをかけたつもりかい?」
「はぁ…はぁ…い、いえ……ただ…僕の勝ちを認めてほしいだけです」
勝負有りの声が聞こえるなか、テオはリンダの目を見てそう言った。
しかし、リンダはフッと笑うとテオの体を払いのけて立ち上がり、そのまま武台の中央へ向かうと、テオの方を見て叫んだ。それと同時に、場内も静まり返る……観客達は分かっているのだ、この後に起こる出来事を……。
「よく見ておけっ! これがアタイ達、スキティア人だよっ!」
そう言って、リンダは右手に刃状の闘気を纏わせ、自身の喉元に当てて勢いよく切り裂いた。
「っ!」
その瞬間、テオは弾かれたようにリンダの元へ駆け寄り、崩れ落ちるリンダを抱えながら彼女を問い詰めた。
「リ、リンダさんっ! なんでこんなことをっ!」
「へへ、当然さね……界皇に喧嘩売ったんだ。その喧嘩に負けて、『ごめんなさい』で済むわけないさ……アタイだって、スキティア人の端くれだよ? 汚名を被ったまま生き恥を晒すのはごめんだね」
薄笑いを浮かべながら、リンダはそう言った……不意に、テオはリンダの負傷した首筋に手をかざした。
「な、なにやってんだい?」
「……ダメ」
「あ……?」
そして……テオの手から、先程見せた柔らかな闘気が現れた。
闘気はリンダの切り傷に浸透していくと、見る見るうちにその傷を修復していく。
「っ! あ、あんた、アタイを助けるつもりかい? あんたの命を狙ったアタイを……?」
「うん、そうだよ……」
何のためらいもなく肯定するテオを見て、リンダは驚愕の表情を浮かべた後、安らかに微笑んだ。
「へ…へへ……かなわないね、こりゃ……」
そして、リンダはそっと目を閉じた……どうやら気絶してしまったらしい。
やがてリンダの傷が治ると、テオは彼女を背負って武台を後にした。
『界皇万歳っ!』
『皇国万歳っ!』
テオが武台を去る際、闘技場にはそのような歓声がそこかしこで聞こえた……その光景を見て、観覧席にいた四人は安堵の表情を浮かべる。
「……どうやらアイツ、かなりの大物になりそうだな」
「そのようですわね……どうか……どうか末永く、この国を治めて欲しいですわ」
「……ああ、そうだな」
「まったくです……」
最後の人間の言葉を聞いて、三人がその者に視線を向ける。
「エルザ……」
「……叔母様……」
いまさら気まずくなったのか、エルザはうつむいたまま黙ってしまう……アスナとジーナも、アデーレが何をするのか注目している。
「……帰りましょっかっ!」
「っ!……はいっ!」
そして、四人はそれぞれ互いの顔を見て笑いあうと、闘技場を後にした。