小さな奴隷解放の後は、さらに勉強
翌日、アスナに起こされたテオは、無理やりパジャマを剥ぎ取ろうとするアスナを制止して、自分でなんとか衣装を着て朝食を食べるために食堂へと向かった
食堂に着いていつもの席に座ると、テオは給仕をする他の女性達を見る。
(……やっぱり、奴隷は良くないよなぁ……)
黙々と、しかしたどたどしく給仕をする大柄で頑強な肉体をした女性達を見ながら、テオは素直にそう思った。
「どうぞ……」
「あ、ありがとう……」
女性の一人が出してくれた皿には、肉の塊と薄く伸ばして焼いたパンが置かれていた。
パンの見た目は、インド料理に出てくるナンという食べ物に似ており、皿の真ん中に置かれている木製の小鉢には、茶色いソースが入っている。テオがジッとその料理を見ていると、コップに水を注いでいたアスナがテオの顔を見て口を開いた。
「どうかしましたか、陛下?」
「あ、うん……ちょっと料理が気になってね」
テオがそう言った瞬間、部屋の空気が緊張に包まれた――それはテオにも感じ取れるほど圧倒的なもので、彼の白い両腕には鳥肌が一気に噴き出していた。
テオが思わず食堂の中を見渡すと、給仕をしていた女性達が全員、自分の事を見ていた。
しかし、テオが女性達と目を合わせると、女性達はソッポを向いて給仕に戻ってしまう。
「……何か不手際でも?」
アスナが慎重に自分の中で選んだ言葉が聞こえた瞬間、室内の緊張した空気はさらに高まっていく。
思わずテオが女性達の方を見ると、全員が緊張した面持ちで、全身から汗が噴き出ているのが見えた。
「あ、あのさ……これってどういう料理なの?」
テオが女性達から目線を逸らしてアスナの顔を見ながら質問すると、アスナは料理の方をチラッと見て口を開いた。
「なにって……焼いたカダックの肉と、ポリフです。こちらは、カダックの肉を焼いた際に出た肉汁に、ヴァルツという果物の汁を入れたヅルというつけ汁になります。ポリフは、こちらのヅルにつけてお召し上がりください」
「そうなんだ……分かった、ありがとっ!」
「ふふ、どういたしまして」
テオとアスナの会話を聞いた女性達は安堵したのか、部屋の中を満たしていた緊張の空気は消え去った。
そして、食事が終わってアスナを含めた女性達が食器類を片付けている時、
「ねぇ……」
テオは思い切って、アスナを含めた女性達に話しかけた。テオの声を聞いて、女性達は作業の手を止めてテオを見る……それは、アスナも同じだった。
数人の大柄な女性達に一斉に見つめられて緊張するが、テオは自身の臆病さを隠すように明るく話し始めた。
「その……皆はどこの出身なの? 見た感じ、いろんな見た目の人がいるけど……?」
テオの思いがけない質問に、女性達は困惑した表情を浮かべた。何を言っているか分からないというよりも、どうすればいいか分からないと言った雰囲気だ。
「あの……」
テオが困っていると、アスナがテオに近づいてきた。
「その……陛下」
彼女は、どこか気まずそうにテオに顔を近づけた……その瞳は深い憂いを帯びており、普段のアスナから想像もつかないほど困り果てた様子だった。
「……なに?」
「実は……奴隷は界皇とは話が出来ないのです」
「えっ!?」
驚愕の声を上げるテオに対して、アスナは悔しそうに顔を歪めながら言った。
「先代の界皇――ヴェグナガンが決めたことです……『奴隷はモノだから、口はきけない』と言って……」
そう言う彼女の表情は、徐々にこの上ないほどの憤怒に彩られていった。奴隷の女性達も、どこか怒りを覚えているようだった。
(そんな……)
テオも先代の界皇の人の悪さはこれまでにも散々聞いてきたが、改めてそのクズっぷりを知ることになった。だが、テオがそれと同時に『自分がそれを終わらせなければ』といった使命感を抱いたのも事実だ。
テオは改めて女性達の方を見て、明るい口調で話しかけた。
「それで、皆さんはどこから来たんですか?」
テオのその言葉を聞いて、女性達は驚愕の表情を浮かべる――すかさず、アスナはテオに進言した。
「あの、ですから話せない――」
「関係ないよ」
しかし、テオはアスナの進言を遮るようにキッパリと主張した。
「それって先代の界皇が言ったことでしょ? 今の界皇は誰? 僕でしょ?」
そう言いながら自信たっぷりとした表情で自身を見るテオに、アスナはしばらく硬直してしまった……なぜなら、それはアスナが初めて目にした、テオの自己主張だったからだ。
今までは自分が彼を引っ張ってきただけに、テオのその言動はアスナに新鮮に映る一方で、初めてテオの意見を聞くことが出来たことが、アスナには嬉しかった。
アスナはハッとして表情を取り繕うと、奴隷の女性達を見た。
「……ということだ。これからは陛下と自由に会話して構わん。他の奴隷達にもそう伝えろ」
アスナのその言葉を聞いて、女性達に明るい表情が戻る――その後はそれぞれ自己紹介をした後、テオは食事を終えてアスナと共に寝室へと向かった。
テオとアスナは昨日と同じようにイスに座り、アスナがあらかじめ持ってきていた皮紙を広げる。
「では、今日はこの世界に住むスキティア人についてです」
そう言いながら、彼女は皮紙に描かれたノルディン大陸を指差した。
「まず、北のノルディン大陸にはセ―ヴェル人がいます。彼女達はヴァステン人と似たような見た目をしており、スキティア人の中でも比較的温和な性格の民族です。個人差もありますが、その外見は茶髪、瞳の色が青や緑、体格は長身で頑強な肉体を有しています。
北の大陸に住んでいるという事もあり、寒冷地での生活や戦闘の知恵を豊富に持っており、元々はヴァステン人と共にサルヴェン大陸にいたそうですが、新境地を求めて旅立った結果、現在のノルディン大陸に移動、定住するに至りました。ちなみに、我が国にも一定数のセ―ヴェル人が居住しておりますので、よろしければ後で拝見して下さい」
「うん……それにしても、戦闘種族なのに温和な性格をしてるって珍しいね?」
「いいえ、ヴァステン人とサルヴェン大陸で暮らしていた頃は、そうでもなかったようです。なんでも、当時ヴァステン人が居住していた地域周辺の町や村は、ほとんどセ―ヴェル人の侵略や略奪の被害に遭っていたのだとか……私も先祖から又聞きしただけなので定かではありませんが、そんな彼女達の性格も、ノルディン大陸に移住してから大きく変わっていったそうです。
今では異世界からの来訪者達から伝えられた医療の技術を戦争に組み込んでおり、その負傷率の低さとケガの完治率ではスキティア人の中でもっとも高い水準を保っています。最近は『社会福祉制度』なるものまで導入するのだとか……よく分かりませんが、今の彼女達は非常に温厚な民族ですよ?」
「ああ、そうなんだ」
アスナからセ―ヴェル人の話を聞いてテオが真っ先に思い浮かんだのは、北欧諸国だった……確かあの辺りの人達も、昔はヴァイキングとして戦争や略奪を繰り返し、交易によって栄えたそうな……。
もしセ―ヴェル人と北欧諸国の人々に違いがあるとすれば、未だに大規模な正規戦争をしているという点ぐらいなのだろうか?
(そう言えば、北欧諸国だと移民や難民なんかの問題があったみたいだけど……こっちのセ―ヴェル人達も似たような悩みを持ってるのかな?)
テオは心の中で密かにそのような考えを抱いた。
その辺りも、界皇として勉強しなければならないだろう……戦徒は気持ちを切り替えて、アスナの話に耳を傾けた。
「ただ、いくら今は温厚な性格になったとはいえ、その戦闘力はスキティア人の中でも飛び抜けて高く、味方にできればオークや他の獣人達との戦争で今よりもさらに優位に立てるでしょう」
「今よりもって……彼女達は戦争に参加してないの?」
テオにそう言われて、アスナは困ったような笑みを浮かべた。
「……獣人共とはためらいなく戦うのですが、こちらへ増援を送ってくれたことは一度もありません」
「へぇ~……アスナとしてはどう? セ―ヴェル人って頼りになると思う?」
テオに質問され、アスナは顎に手を当てて『う~ん……』と唸りながら自身の考えをまとめる……少し経って、彼女はテオの顔を見て口を開いた。
「いいえ。ハッキリ言って、戦闘種族のくせに平和がどうとか、愛情がなんだとか、かなり頭がおかしいかと……」
「う~ん……そっか~」
やはり、セ―ヴェル人=北欧諸国のステレオタイプに間違いはなかったようだ。
「……アスナは、セ―ヴェル人と戦いたいとは思わないの?」
テオのその質問を聞いて、アスナはニヤリと笑った。
「ぜひ戦いたいですっ! 先祖達の話を聞く限りでは、セ―ヴェル人達は非常に勇猛果敢で力強い民族なんだとかっ! そのような者達が相手ならば、いくら暴れ回っても大丈夫でしょうっ!」
「……」
「あ、いや、ゴホンッ!……え~、次です」
呆れた顔をしているテオから目線を逸らし、アスナは皮紙に描かれたヴァストル大陸を指差した。
「東のヴァストル大陸には、ユルモ人とデューク人がおります。ユルモ人は大陸東部と南部、南東部に居住しており、デューク人は西部、北部、北西部に居住しています。デューク人は大昔に我々の先祖達がノルディン大陸から移動して定住した者達の末裔であり、ユルモ人は、デューク人がヴァストル大陸に来る前から居住していたそうで、彼女達は私や陛下とは若干顔つきが違っております。
また、少しスッキリとした体型で、スキティア人の中では比較的小柄な体格をしている人が多いですね。そのためか、特徴的な戦闘技術や文化を持ち、工業技術力が非常に高く、我が国の中にもユルモ人が一定数居住しておりますので――」
「後で拝見して下さい?」
テオに先回りされ、アスナはフッと微笑む。
「はい、そうです。あ、そういえば、城内の奴隷達の中にもユルモ人がいたはずです」
「……あ~、そういえば……」
テオは記憶の糸を手繰り寄せて、脳内にその時の光景を投影していった……確かに、給仕をしている時や廊下を掃除している奴隷の女性達の中に、アスナが言ったユルモ人の特徴を持つ女性がいたように思える。
だが、テオの記憶が正しければ、ユルモ人は他の民族とさほど見た目が変わらないように思える。
目の前のアスナも、ガッツリとした白人顔というよりは薄めのハーフ顔といった見た目だ。アデーレもエルザもジーナも、それぞれ特徴的な外見はしているものの、アスナが言った『顔つきが違う』というほどの違うは見られないように思える。
比べてユルモ人の方は、確かにそれらの民族に比べれば顔の濃さは薄れているかもしれないが、言うほど外見が違うとも思えない。
それは今のテオも同様であり、かつて桶に張られた水に浮かんだ自分の顔を見た時には、さほど違和感は感じなかった。せいぜい、美男子になったというくらいの思いだ。
(……まぁ、あまり気にしてもしょうがないよね……)
テオは心の中でそう呟き、アスナに質問をする。
「それで、デューク人ってどういう人達なの?」
テオがそう質問すると、アスナはカッと目を見開いて対面に座るテオの両腕をガシッと掴んだ。
「よくぞ聞いてくださいましたっ!」
「ひっ!?」
あまりの事態にテオが恐怖に駆られていると、アスナの怒涛の民族自慢が始まった。
「まずっ! 我らがデューク人は、世界で初めてっ! 胸当てと腰当てを作りましたっ!」
テオから両手を離し、アスナはそう話しながらイスから立ち上がって自身の胸当てと腰当てをバンッバンッと叩く……その目はキラキラと輝いており、邪な感情が一切感じ取れない、澄み切った瞳だった。
「そしてっ! 世界で初めて世界地図を完成させたのもっ! 我らデューク人なのでありますっ!」
その後も、アスナはデューク人の魅力をこれでもかと喧伝した。
デューク人は実は戦闘力最強民族、デューク人の作るお菓子はおいしい――もちろん、デューク人の作る料理全般がおいしい――デューク人はスキティア人の中でも一番文明的な民族、デューク人に生まれただけで、この世界の八割の幸福を享受できる――根拠はない――。
……アスナが話を終える頃には、すでに日が傾いていた。
「――という訳でっ! 我らがデューク人は、スキティア人の中でも非常に優れた民族と言えるでしょうっ!」
「……そう、なんだ……」
すでにテオの精根は尽き果てており、適当な返事しかできない。そんなテオの様子に気づき、アスナはハッとした表情を浮かべた。
「も、申し訳ありませんっ! つい、自分の民族の事を熱く語り過ぎてしまいましたっ!」
「いや……大丈夫だよ……」
本当はまったく大丈夫ではないのだが、アスナを気遣ってテオは優しい嘘をつく。
「ほ、本当ですか? 顔色が優れないようですが?」
「……大丈夫……」
テオの返事を聞いて、アスナは心配しながらも『それでは』と言って再び説明を始めた。
「ゴホンッ!……そ、それでは、勉学を再開します。次にメルディン大陸ですが、この大陸にはヴォルガ人とカリドゥシア人がいます。この両者はスキティア人の中でももっとも好戦的ですが、幸いにこれらの民族が治める領地とは良好な関係を築いています。ヴォルガ人はセーヴェル人と双璧を成す非常に頑強な肉体を誇り、その外見的特徴は燃えるような赤い髪、黄金色の瞳、褐色の肌です。筋肉質な体格をした者が多いのも、特徴の一つでしょう」
「そうなんだ……あれ? ひょっとして、ジーナってヴォルガ人?」
テオの質問に、アスナは頷く。
「はい、そうです」
「……ヴォルガ人って、皆ジーナみたいな性格なのかな?」
テオとしては、これからヴォルガ人とお付き合いをしていくなかで、少しでも彼女達の事を理解しておきたい……そんな思いで遠慮気味にアスナに質問した。
「そうですね……概ねその通りです。彼女達は非常に豪快な性格で、いささか深謀遠慮に欠けています。それなりの年月を生きてきた者でさえ、感情的になりやすいのです……まぁ、そんな性格が功を奏して、オークや他の獣人共との戦争では常に最前線で戦い、輝かしい戦果をあげているわけですが……」
「そうなんだ……別に悪い人達ってわけじゃないんだね?」
「ええ、そちらの方は問題ありません……たぶん」
そして、アスナは皮紙を見ながら説明を続けた。
「次にカリドゥシア人ですが、この者達も非常に好戦的です。外見はというと、褐色の肌というのはヴォルガ人と共通していますが、髪は黒、瞳は茶色です。ヴォルガ人もそうですが、この者達は砂漠地帯での戦闘技術が非常に優れており、そういった地帯で生き抜く知識も豊富に持っています。確か、この民族出身の奴隷も、城内にいたと思います」
「うん、そうだね」
テオが食堂や廊下で何度か出会った、あの顔に刺青が入った褐色の女性……あの人がカリドゥシア人だろう……テオが少し微笑んで会釈をしても、ムスッとしたまま仕事に戻ってしまうので、未だにあの人の事を良く知らない。
「続いて、我が国が存在するサルヴェン大陸ですが、ここにはヴァステン人がおります。アデーレやエルザがヴァステン人ですね。説明は以上です」
「えっ!? もう終わりっ!?」
テオがそう言うと、アスナはこれ以上ないほど不満な様子で、
「何か?」
とテオの方を睨んだ。
その顔には、『早く次の話題に移りたい』という思いが如実に表れていたが、テオはたじろぎながらも必死にアスナにヴァステン人の事を教えてもらおうと思った。
「も、もう少し説明してくれないかな? ね、お願いっ!」
「……まぁ、陛下がそう仰るなら……」
……この上なく嫌そうな表情で、アスナは説明を始めた。
「え~っと……ヴァステン人は金髪碧眼、小生意気、傲慢、偽善的、あ、あと臭いですね。とっても泥臭いです」
「……そうなんだ」
「はい、そうなんです」
アスナは、テオの瞳をジッと見据えている……その瞳にはまったく迷いはなく、恐らくアスナは嘘偽りなくそう言い切ったのだろう。
テオとしては、エルザが小生意気という意見には賛成だ。もっとも、あんな短い時間で彼女の性格が分かるわけではないが、初対面の印象があまりにも強すぎる。
「そう……わかった。ありがとうっ!」
テオのお礼に、アスナは『どういたしまして』と微笑み、別の皮紙を取り出して広げた。
「次に、敵についての情報です。すでにご承知の通り、このサルヴェン大陸にはオーク共がおり、我々と敵対しております。他の大陸にも、オークとは別の種類の獣人達がいるのですが、いずれもほとんど脅威とは呼べません。ですが……他に主たる脅威は存在しないので、事実上の脅威は獣人共という事になります。オーク共ですが、私の密偵によるとゴアヘルム以外には生息していないようです。といっても、こちらに攻撃してくる際は野営などをするようですが」
「そうなんだ。ねぇ、アスナはオークとの戦争はどうすれば勝てると思う?」
テオにそう質問されて、アスナは考え込む。
「そうですねぇ……今までは襲い掛かってくるオーク共を殺していくというやり方でした。この際、我々の方からオーク共の本拠地に攻勢を仕掛けるのはいかがでしょう? それなりに人手は必要ですが……」
「え? オーク達って、そんなにいっぱいいるの? ていうか、今までオークの本拠地に侵攻したことないの?」
「はい……ハッキリとその数は分かっていませんが、この数百年間で我が国に侵攻してきたオークの総数を合計すると、我が国の人口を遥かに超えています。それだけ、侵攻してくる人数が多いのです。幸い、戦闘力が低いので問題はないのですが……オークが非常に高い繁殖能力を持っている事から考えて、奴らの種族全体の総数は我々よりも非常に多いことが推測できます。
彼らの本拠地を侵攻しない理由は、まさにそこにあるのです。どれほどの数がいるかも分からないのに、迂闊に攻めるわけにはいきませんから」
「そっか、そんなもんだよね……」
アスナの発言はあまり戦闘種族らしくない言葉だが、テオでもそのように考えるだろう。
「となると、やっぱり可能な限り多くのスキティア人に協力してもらったほうがいいのかな?」
テーブルに頬杖をつきながら話すテオに対し、アスナは深く頷く。
「ええ。その通りです。うまくいくかどうかは分かりませんが……」
アスナがそう言うと、テオは改めて界皇の職責を感じた。
(内政を充実する前に、オークを倒した方が良いかな……)
いつの間にか界皇らしいことを考えていた自分に驚くが、これからはそうやって生きていかなければいけない……テオは改めて決心した。
「ありがとう、アスナ。参考になったよ」
テオがそう言うと、アスナはニコリと微笑んだ。
「どういたしまして、陛下」
そう言うと、アスナはテーブルに広げられた皮紙をすべて折り畳んで片付けると、かしこまってテオの方を見た。
「それでは陛下。以上で、勉学は終わりです。これからは何かと大変かとは思いますが、私が全力で陛下をお支えいたしますので、どうかご安心ください」
……テオはポカンと口を開けてアスナを見ていた。
「ん? どうかしましたか、陛下?」
「いや、あの……もう終わり?」
テオは拍子抜けした。界皇としての教育というから、てっきり帝王学やテーブルマナーなどを学ぶのかと思ったが、アスナは何か問題があるのか、といった様子だった。
「はぁ?……そうですが?」
「あの……算数とか」
「サンスウ? 何ですか、それは?」
テオはますます混乱した。
念のため、テーブルに置いてあったカゴから、一つの紫色の球体を手に持った……質感は表面がゴムのようで、上にはフサフサとした灰色の毛が生えている。
「これって何?」
「それはクートという果物です。甘くて美味しいですよ」
アスナは微笑んで言った。
「ねぇ、アスナ。もしこのクートが百個入ったカゴが八個あったとして、クートの数はいくつになる?」
テオのその質問を聞いて、アスナは呆然としていた……それは、目の前で聞いたこともない外国語を喋られたハーフの日本人のようだった。
「……えー……んー……おそらく千個ぐらいじゃないですかね?」
テオは開いた口が塞がらなかった。
アスナがそう言った瞬間、テオのアスナに対する憧れのような感情は少しだけ消えてしまった……対するアスナは、呆然とするテオを見て自分が何か失言をしてしまったのかと心配になっている。
「あの……答えは八百個。百個入ったカゴが八個だから、八百個だよ……」
「はぁ、そうですか……あの、それが何か?」
アスナは、テオの考えていることが全く分からなかった。
そして、そんなアスナの様子を見て、テオはある決心をした。
「……とにかく、この世界の事はこれからも教えてもらうけど、学問の方もなんとかしなきゃね」
そう、その決心とは、アスナを含めたスキティア人に学問を身に付けさせることだった。
「ガクモン? ひょっとして、先程言われたサンスウのようなものですか? あなたの世界にあるような?」
「まぁ、そんなところ」
テオがそう答えると、アスナは顎に右手を添えて考え込んだ……しばらくして、アスナは腹を括った様子でテオを見つめた。
「分かりました……それでしたら、これからしばらくは私も勉学に励みましょう。他のスキティア人達にも、ガクモンを教えた方がよろしいですか?」
「うん、お願い」
テオからしてみれば、国民に基礎学力が無いのは国家として問題があると感じて、界皇として何とかしなければと思ったのだ。
だが、アスナからしてみれば、異世界の技術や知識を取り込めばオークとの戦争に終止符を打てると思ったからこそ、テオから学問を学ぼうとしたのだ。
そして、テオは今日も、未だに慣れないベッドで眠りについた。