ステータスオープンできたから俺は変われる
「空腹値がゼロになった。体力が三〇、回復した」
今日の給食は牛乳、豚肉の炒め物、アスパラガス、わかめスープだった。好物のわかめスープが回復効果をアップしてくれた。
直前の授業が体育だったせいで体力が削られていたが、昼休みは乗り切れそうだ。
俺は鞄から小説を取り出した。中高生向けのライトノベルで、主人公が俺に似ている。俺のバイブルだ。
クラスメイトは校庭に出ていたり廊下で騒いでいたりで、教室にはほとんど人が居ない。そのため、昼休みは良い読書タイムになる。
「吉野くん」
幼馴染の小森が現れた。地味、小柄、童顔の美少女。
中学生になって二年目に入ったというのに、未だリボン結びのスキルを習得できていない。だがそれは飲み込みが悪いだけの問題で、本人が不器用というわけではない。
その証拠にポニーテールは習得済みで、マスターレベルだ。今日も、柔らかく扱いづらそうな髪の毛がうまくまとめられていた。
女子のランクとしてはAランク。愛嬌を振りまくタイプだったならSランクになれるはずなのだが。
「空腹値とか体力とかはさ、紙に書いておけば……?」
教室の前の方では女子達がニヤニヤと笑っている。Cランク、Cランク、Dランク。
小森はときどき、『変な独り言をやめるべきだ』と進言してくる。他の女子達が小森を煽っているのだ。俺の反応を見て笑うために。
「ステータスに変化があったら、勝手に声が出るんだ」
俺が返す言葉は毎回同じだ。『勝手に出るんだから仕方がない』と。
この返事は女子達の期待通りだったようで、あいつらは「出たよ」だとか笑っている。
「嘲笑耐性は習得済みです」
嘲笑耐性の熟練度は二〇を超えていて、習得済みとなっている。
俺の言葉を聞いて、小森は苛立つ様子で唇の端を噛んだ。女子達は失笑した。
このステータス化は、今年の二月、一年生の三学期に始まったものだ。
ステータス化が実装された当初は読み上げのせいで恥ずかしい思いをしたが、今はなんともない。耐性スキルのおかげだ。
小森は俺の前に立ったまま、唇を微かに震わせていた。
Cランクの女子が、放っておきなよと小森を呼ぶ。馬鹿が。お前が行かせたんだろうが。
いつもなら素直にして戻っていく小森だが、今日は違った。
「せめて、小声にしようよ。吉野くんが馬鹿にされるの、嫌だよ」
なんで? お前には関係ないだろ。お前は俺のことなんて、どうでもいいはずだろ。
あいつらの言うとおり、放っておけよ。知らねえよ。
知らねえよ、と言おうとした。
「――小森への信頼が一、あがった」
静寂があった。廊下の声も他の教室の気配も、ひいては学校中が静まり返った気さえした。
俺は勢い良く立ち上がった。椅子が引きずられる耳障りな音。静寂は終わった。
小森の気まずそうな顔と女子達の爆笑を置いて、俺は早足で教室から逃げた。
あああ、この馬鹿が! 俺! 俺、馬鹿野郎が!
「小森への信頼が一、さがった。さがった。さがった」
廊下を大股で進みながら俺は繰り返した。
無駄だ。ステータスの読み上げを真似てみても、実際のステータスは変化しない。
二階、階段脇の男子トイレに入る。奥の個室から誰かが出てくるところだった。
道徳欠如系クズクラスメイトが現れた。タバコ臭い。クズだ。Gランク!
「なんだ、ドラクエじゃん」
俺はドラクエじゃない。
無視してすれ違おうとする俺の肩を、クズが強く殴った。
「シカトすんなよ、キモいな」
クズの爪先が俺の脛を蹴り飛ばした。俺は短く呻いた。
「一の、ダメージ」
「一だけかよ。嘘つけ! 涙目になってんぞ!」
クズはぎゃーぎゃー笑った。俺の頭の中が殺意に満ちる。
クズは俺の頭をもぐらたたきのように殴る。一回、二回、三回――。
「おいドラクエ。今ダメージどんくらいだよ? はち、きゅー、じゅー」
気色悪いクズの笑い声は仲間を呼んだ。俺はクズ共に挟まれた。
背後からもう一つの気色悪い声。
「やめてやれよ。ドラクエが棺桶になっちゃうだろ」
クズの仲間が俺の背中を強く叩いた。クズの拳が一際強く俺の頭に落ちた。
殺すぞ、殺すぞ! 俺のパンチ力は九〇オーバーだ!
「一の、ダメージ」
クズ共は鼻で笑った。俺は個室に飛び込んでドアを閉め、急いで鍵をかけた。ドアの向こうでくすくす笑いが聞こえる。
「嘲笑耐性は習得済みで――」
バン!
ドアを強く蹴る音に俺の身体は跳ねた。俺は息を潜めた。
耳鳴りが止む頃にはトイレからクズ共の気配が消えていた。俺の脳内に勝利のファンファーレが響いた。
「忍耐が一、あがった」
俺はあいつらのために耐えてやった。
俺はあいつらを殺さないでやった。
「不殺の心得が一、あがった」
俺は拳を握り締めた。
なんだ、不殺の心得って。そんなのいらねえよ。
あの小説の主人公はいじめっこを殺せたじゃないか。なんで俺は手が出せないんだ。なんであの主人公は手が出せたんだ。
俺は自信が無いのか? 俺が弱いからか?
そうだ。まだステータスが低いんだ。だから、だから小森も、俺を軽蔑して――。
クソ! あの女、いじめられっこに優しくできる自分が可愛くてたまらないんだ!
違う、小森は本当に可愛いし優しい!
だからどうした、小森がなんだってんだ、俺はクズを黙らせるんだ!
ガン!
「パンチ力が一、あがった」
ゴン!
「キック力が一、あがった」
ガン!
「パンチ力が一、あがった」
上がる、上がる。ステータスが上がっていくぞ。この調子だ!
ガン! ゴン! ガン! ガン!
*
夕方。俺は整形外科の診察室のベッドに腰掛け、項垂れていた。
合成樹脂の床は白色の木目模様で、蛍光灯の光を反射していて、いかにも現実世界のものだった。
お母さんがパートを終えて迎えに来るまで、もうしばらく待たなければならない。優しそうなおばさん看護師が出してくれた温かいお茶は冷めきっている。おかわりは自由で、美味しいよとも言われたけど、まだ一口も飲んでいない。
隣では、放課後になってやってきた小森の、控えめに鼻をすする音が聞こえていた。
男子トイレでのステータス上げに集中していて、ふと気付いたら、ドアの向こうから先生の怒鳴り声がしていた。
慌てて鍵を開けるとドアが激しく開き、学校一キレやすい暴力教師に胸ぐらを掴まれた。咄嗟に両手を上げて顔を庇おうとしたら、今度は押し飛ばされた。
暴力教師は絶句していた。後ろに控えていた先生も、俺の右手を見るなり顔を青くした。
俺はぽかんとしてその表情を眺めていた。
わけも分からないままに救急車に乗せられて、整形外科に放り込まれた。
医者は目を丸くして俺の右手に麻酔をかけた。
俺の右手は、弄ばれたマネキン人形のようにくちゃくちゃだった。今は手のひらから指先までが固定されて、ミトンを嵌めたみたいになっている。
「吉野くんは、あの本の主人公みたいになりたいの?」
小森は涙声で言った。
あの本? 昼休みに読もうとしていた小説か?
「吉野くん。あの主人公みたいに、みんなに復讐したいの?」
あの主人公の境遇は俺と似ていた。
いじめられっこの主人公はクラスメイト達と共に、いきなり異世界に転移する。そこはゲームのようにステータスが設定されている世界で、彼は高いステータスと強力なスキルにより、いじめっこを殺して復讐を果たすのだ。
女子達に頼られ、男子達にも認められ、童顔の幼馴染に惚れられ、異世界の人達にも尊敬される。物語の後半では随分とヌルい奴になってしまっていたが、若者向けの小説だからっていう事情があるんだろう。
確かに、俺はこの主人公みたいに、周りの奴を見返してやりたいと思った。
「私の、せい……?」
小森の声は震えた。
お前には関係ないだろ。なんで自分のせいにしようとしてるんだ。
なんで俺のことで泣いてるんだ。お前は俺のことなんて、どうでもいいはずだろ。
*
俺は小森が好きだった。多分、いじめが始まる前、小学生の頃から好きだった。
頭が良くて、可愛くて、誰よりも優しかった。
中学生になって俺が『いじられキャラ』になりはじめた頃、俺をからかう奴らに対して、小森は控えめながらも注意を与えてくれた。だんだんと『いじり』が『いじめ』になっていく中でも、俺が完全に孤立しないように声をかけてくれた。
そのせいで、小森自身までがからかわれても、小森は俺への態度を変えなかった。
あの日、一年生の三学期のあの日。俺と小森が手を繋いでいる写真が教室内に回された。小学生の頃の、林間学校の時の写真だった。
小森が力なく「やめてよ」と呟いたのを聞き、俺はクラスメイト達に「いい加減にしろ」と怒鳴った。俺が表情を歪めるほど、クラスメイト達は笑った。小森の顔は俯いていった。
俺は小森の手を掴んで教室から走り出た。
守られてばかりだった俺が、小森を守る側になったんだ。俺は怒った顔をしながら、心のどこかで笑っていた。
ごめん、俺のせいで。
非常階段の近くまで来て、俺は静かに言った。小森は俯いたまま首を横に振る。
俺はお気に入りの小説に出てくるヒロインを思い出した。怖くて声が出ないんだ。俺は慰めようとした。
大丈夫、大丈夫だからな。俺はずっと小森の味方で――。
最後まで聞かず、小森はまた首を振って、顔を上げた。泣き顔だった。
「私、味方になってもらう必要なんて無い。もう諦めるよ。吉野くん、変わろうとしないじゃんか」
俺は頭が真っ白になった。小森は俺の味方で、小森の味方は俺なんだと思っていた。
いじめられているのは、俺が変わらないから? お前は、あいつらに媚びろって言うのか?
小森は俺の味方じゃなかった。小森は俺に背を向け、教室に戻っていった。
俺は、諦められた。
その時、あの小説の主人公と自分がぴったりと重なった。
誰からも見放された孤独な主人公。初期ステータスは全てが最低値。
彼はクラスメイトを見返すべく、地道にステータスを上昇させた。そして力を手に入れた。
俺も、味方なんていらねえよ。見返してやるよ。俺は変われるんだよ。
主人公の成長の第一歩、ステータス情報の開示。
「ステータス、オープン」
魔法のようなこの言葉で、俺の成長は始まる。
*
俺の成長は終わった。
「嘲笑耐性は習得済みです」
「わ、笑ってないよ!」
小森は焦ったような声で否定した。
「うん。でも、確かに嘲笑耐性が二〇を越えたら習得済みになったし、耐性も付いたんだ」
「じゃあ……わざと変なことを言ってるんじゃなかったんだね」
「もちろん」
スキルを習得した後に現れた効果は、結局のところ自己暗示だったのだろうか。それか、俺が嘲笑に慣れて平気になったから、その時点で習得したってことにしたのかもしれない。
どちらにしろ、その点において俺は変わった。
しかし得たものは、クラスメイトを見返すための力ではなく、孤独に傷付かないための盾だ。
俺は、やり返せるくらい強くなって、クズ共に復讐して、みんなに見直される予定だった。幼馴染に惚れられるとまではいかなくとも、頼りにされるようになる予定だった。
ところが、はじめの段階から躓いた。やり返せなかったのだ。
「小森のせいじゃないよ……」
小学校の頃は誰とも対等だった。中学に入ってから、いじられキャラとして扱われはじめた。いつのまにかいじりの理由に『うざい』が混じっていた。それからは、不満を述べれば述べるほどに『うざい奴』とされていった。
クラスメイトはクズばかり。唯一まともな価値観をしている小森だけが俺を理解できる。そう思っていた。その小森が去ったときは、裏切られたと思った。
だから今日の小森が、あの日以来初めての俺への心配を口にしたとき、嬉しいと思った。
あのときに気付くべきだったのに、俺は信頼度上昇の読み上げと、小森の困惑した様子に気が動転して逃げてしまった。
男子トイレではクズに絡まれ、やり返せず、そこでもまた逃げた。
小森はこれまでに何度も伝えようとしてくれていた。自分を変えるべきだ、と。
俺はそれを、あいつらに迎合しろという意味だと勘違いして、拒否していた。
「俺って、嫌われるようなことしたのかな」
小森は小さな声で否定した。
「人の嫌がることを楽しんでる方が悪いんだよ。でも、意地悪が酷くなったのは……」
「俺がみんなを見下してるような態度でいることが多くなったからだろ?」
当然だ。見下していたんだから。俺はまともで、周りは馬鹿だと思っていたんだから。
こういうところもあの主人公と一緒だが、彼は物語の後半で自分の態度を反省し改めた。正しいか間違っているかは別として、相手の価値観を認めようと努力するようになった。
あの物語で描かれた主人公の成長は、ステータスの上昇じゃなくて、その先にあったんだ。
「ごめん、小森。何回も教えてくれてたのに、俺は意地になって聞き入れなかったな」
「ううん。私も、ごめん。からかわれるのが嫌になったからって……酷いこと言った」
俺が憧れるべきだったのは、彼自身の変化だ。
変えようとするべきだったのは、俺自身の歪みだったんだ。
置きっぱなしの冷たいお茶を一口飲む。かなり渋めの味だ。まあ、おばさん看護師にとってはこれが美味しいのだろう。でも俺にとっては渋い。味覚が違った、それだけだ。
「ステータス、オープン」
唱えても、ステータス情報の読み上げは始まらない。
「吉野くん?」
「うん。これでいい」
数値化された力も、習得済みのスキルも、俺には無くていい。
小森はほっとしたような溜息をついた。
「……吉野くん。あのね、お昼休みに言ってた信頼ってさ――」
「痛い」
「え? 大丈夫?」
「……なんか痛い!」
「大丈夫? 指が痛いの?」
指がというか、指先から肘くらいまで痛い。一のダメージ、いや十の、百の――なんでもいい!
「急に痛くなってきた、ガチで!」
「か、看護師さん呼んでくる!」
何故かクズに蹴られた脛まで痛くなってきた。
クソ、ムカつくな。学校でクズに会ったら蹴ったことを謝れって言ってやろう。昼休みに俺を笑った女子達にも、いや、女子はちょっと怖い。少し様子を見よう。
全員に喧嘩を売り返そうってわけじゃない。喧嘩を売られる筋合いはないって主張をするまでだ。
実際にあいつらを前にした時、今と同じ威勢の良さでいられるかは分からない。だけど、話が通じないと決めつけて不貞腐れるのは、俺の目指す自分じゃない。
みんなに尊敬されようとまでは思わないけど、少しでいいから理解はされたい。
だから俺は自分を変える。
ステータスじゃなく、俺自身を変えるんだ。