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メイドの知らない彼の決意。 3

 =====



 アミリスの機転のお陰で、警邏官が早く到着したまでは良かったのだが、リリアは思わぬ人達との再会に、一瞬気が遠くなる様な錯覚を覚えた。

 息を切らして到着したグレンとチェイスの顔を見た瞬間、倒れる事はなかったものの、足はガクガクと震えが止まらず、チェイスの怒鳴り声を聞いた時には、その場で腰を抜かしてしまいそうな程怖かった。


 それをなんとか我慢できたのは、これ以上誰かに甘えるのは嫌だという気力が勝ったからだ。

 毎日少しずつ自分に出来る事は確かに増えてきている。

 でもアミリスが不審者に襲われ、倒れているところを見た時、頭が真っ白になり、結局また何も出来なかった。


 もしあの時、アミリスの意識がない状態だったら?

 もしアミリスが大怪我を負っていたら?

 もしあの不審者が自分にも襲いかかってきていたら。


 考えれば考えるほど怖くてたまらない。

 でもずっとこのままではそのうち一番大事なものを失ってしまうかも知れない。

 

 警邏官に囲まれ、グレンが目の前にいる今だって凄く怖い。

 でもこの邸は今、自分が任されているのだから、何としても乗り越えないといけない。


 ギュッとスカートの裾を握り、気の毒なくらい真っ青な顔で身を縮めるリリアに、部屋の中にいた警邏官とグレンが気の毒そうな視線を寄越してくる。

 グレンが何気なくリリアを落ち着かせようと片手を上げかけると、その所作にビクリとしてリリアはギュッと目を閉じてしまう。


 その手のやりどころに困ったグレンは、ぽりぽりと後頭部を掻いて苦笑した。

「うーん困ったなぁ。あのね、僕達はもう君の事疑ったりしてないし、君に危害を加えるつもりも無いよ? 君もまたあんな事があったら困るでしょ? だから早く犯人を捕まえないといけない。で、犯人を捕まえる為には、君に協力して貰わないといけないの。それは判る?」

「は、はい」


 集中しなければ聞き取れないくらい小さな声でリリアが返事を返すと、グレンは少し考えて、警邏官に退室を促す。

 そしてグレンも徐に立ち上がると、リリアの後ろに回り込んで、リリアから一番遠い部屋の壁に寄りかかった。


「僕の方は振り返らなくていいよ。どう? これでも怖い?」

「…………」

「うーん……」


 視界に入らない分、逆に怖いとも言えず、リリアが身を竦めたまま黙り込んでいると、グレンは腕を組んでまた少し考える。

 そうしているうちに、タイミング悪く扉が叩かれ、リリアが一番会いたくないチェイスが部屋の中に入ってきた。

 声も出せず、ひくりと喉を鳴らしたリリアを見て、チェイスは思わず顔を背ける。

 グレンが呆れた様な顔で肩を落としてチェイスを見ていたが、チェイスは構わずグレンを手招きすると、ひそひそと耳打ちをして、背広の胸ポケットに入れた何かをグレンにチラリと見せた。

 それを見て、グレンが息を飲む。


 互いに視線で何かを確認した後、二人はリリアの前にあるソファーに座る。

 どれだけ力が入っているのか、リリアのスカートを握りしめる手は真っ白に変色して、かなり痛々しい。


「ごめんね。いきなりチェイスが来て、びっくりしちゃったよね。リリアちゃん、とりあえずお茶でも飲んで、少し世間話でもしようか」

「だ、大丈夫です。あの、その……ア、アミリス、さんが、倒れてて…………」

「うん。ありがとう。でももうちょっと落ち着こう? 他の人と代わってあげられたら良かったんだけど、ごめんね。そうそう、このお茶、ナナリーさんだったっけ。あの人が入れてくれたんだってね。惜しいなぁ。人妻じゃなければお近づきになりたい所だったんだけどなー。うん、美味しい。冷めたら勿体無いし、リリアちゃんもどうぞ。ほら、お菓子もあるよ。甘いものは好き?」

「は、はい」


 返事はするものの、リリアの手は一向に動こうとはしない。

 そのリリアの様子に、やはり出て行くべきかとチェイスが逡巡していると、グレンは何を思ったのか、予告なしにいきなり立ち上がり、「ちょっと待ってて」とだけ言って、チェイスとリリアをその場に残していそいそと部屋から出て行ってしまった。


 またなにかロクでもない事を思い付いたのだろうと、こういった状況に慣れているチェイスは思い至ったが、完全に萎縮してしまっているリリアと二人きりにさせられたのでは、ますますもってどうしていいの分からない。


 チェイスが少しでも動けば、すぐにでも失神してしまうんじゃないかというくらい顔色は真っ青だ。

 現に今、溜息を吐き出しただけでビクビクと縮こまってしまった。


(これ以上悪化するとしたら気絶するだけだろう)


 ならもう何をしてもしょうがないだろうと、チェイスは半ば開き直ってリリアの前にある茶の入ったカップに手を伸ばす。

 何をするつもりだろうと、警戒を強くするリリアの口元近くに、チェイスはカップを掲げて促す。


「飲め。グレンの言う通り、君は少し落ち着いたほうがいい。俺はもう、君に危害を加えるつもりはない」


 言葉はぶっきらぼうだったが、どこか諦念の交じったチェイスの声音を耳にして、リリアは恐る恐る顔を上げる。

 チェイスの顔を見れば、あの時の様に怒った顔はしていないものの、やはり無表情で、何を考えているのか判らない。

 しかしリリアがビクビクと差し出されたカップを手に取り、口に茶を一口含ませると、どこかほっとした顔でチェイスはソファーに座り直す。

 その表情が意外にも柔らかかった所為か、リリアは先程よりは幾分落ち着きを取り戻し始めた。


 少しの沈黙の後、「すまなかった」とチェイスが呟く。


「君にはずっときちんと謝らなければと思っていたんだが、こんな形になってしまった。何を言っても言い訳になりそうだし、今更過ぎるかもしれないが……仕事とはいえ、君にここまで深く傷つける事になるとは考えていなかった。本当に、申し訳ない」

「……えっ? あ、い、いえ……えっと…………」


 深々と頭を下げたチェイスに驚いて、リリアは慌ててカップを置いたが、続けるべき言葉が見つからない。

 気にしていませんとは流石に言えないし、怖いと感じているだけに、許しますと言うのも何かおかしい気がする。


「あ、あの、頭を……」


 あげて下さいと、消え入りそうな声でリリアが言えば、チェイスは居心地悪そうに顔を上げる。

 まさか急にチェイスが顔を上げるとは思わなかったリリアは不意を突かれて、まともにチェイスと視線を合わせてしまった。

 だが先に顔を背けたのは、意外にもチェイスの方だった。

 そこで「あれ?」と、リリアは瞬きをする。


 明るい場所に居るせいだろうか?

 あの時あれ程狼のような鋭さを伴っていたのに、今はまるで叱られた仔犬かと思えるくらい、落ち込んでいる様に見えたのだ。

 お茶を口にした効果もあったのか、よくよく見ればセスの様に生理的に怖いといった印象は受けない。

 同じ男性なのに、身体つきもゴツゴツとした印象は受けないし、元々優しい顔立ちをしている所為だろうか?

 それとも相手が乱暴に迫ってこようとしていない所為なのだろうか?

 何故かはよく分からないが、彼の誠実な態度もあってか、どこかで会ったことがあるような、ずっと今まで近くにいたような、そんな既視感すら感じる。

 そんなことを考えているうちに、あれだけ感じていた恐怖が不思議と薄らいでくる。


 一方でチェイスは、リリアから顔を背けながらも、この先どうすれば良いのか悩んでいた。

 まだ謝らないといけないことがあるのに、どう言えばいいのか分からない。

 彼女に落胆される事もだが、これを伝える事で全て終わってしまう事実がとても恐ろしいのだ。


 成り行きで雇い、正体も隠したまま顔をあわせる事なく、ただ帳面でやり取りをしていただけの関係に過ぎなかったのに、思いの外、彼女の何気ない報告や彼女が作る空間が心地いいと、いつの間にか手放し難くなっていた。

 認めてしまえば、尾行をしていた時から目が離せない存在ではあった。

 だからこそ近づかないほうが良いと判っていたのに、浅ましい想いを完全に振り切れず、この有様だ。


 せめて遠くから見守っているだけでも良いから……と。


 グレンはおそらく強硬手段に出る前に見抜いていたのだろう。

 リリアがチェイスの理想の令嬢だということに。


 彼女にしてみれば、いい迷惑だろう。

 一時夢を見られたと思えばきっと傷は浅いはずだ。

 何とかそう自分に言い聞かせ、チェイスはリリアに気付かれないように細く息を吐き出す。


「もう一つ、君に、話さなければならないことがーー」

「いやいや、お待たせ!」


 意を決してチェイスが口を開きかけた時、唐突に部屋の扉が勢いよく開け放たれる。

 胸を張って戻ってきたグレンは、何故か料理に使うのし棒を手にしており、その後ろからはぞろぞろと警邏官や近所に住む人々、それにアミリスやナナリーまでが続いて部屋の中に雪崩れ込んできた。

 手には各々やはり何故かフライパンやおたまといった料理道具を手にしている。

 チェイスとリリアが一体何事かと唖然として目を瞠る中、のし棒を片手に意気揚々と満面の笑みを湛えたグレンが皆の中央に躍り出て、リリアとチェイスに深々とお辞儀をして見せた。


「おい……」


 嫌な予感がしてチェイスが深く唸ると同時に、グレンはのし棒を高く掲げる。

 すると調理器具を手にしていた警邏官や近所の人々が、粛々と調理器具を抱え直し、居住まいを正す。

 漸くそこでグレンが何をするつもりか察したチェイスが「止めろ!」と慌てて声を張り上げる。

 しかし制止も空しく、チェイスが全てを言い終わる前に、グレンののし棒は、指揮者の如く降り下ろされた。

 日が沈み始めた邸の中から、ガチャガチャ、カンカンと、金物を叩く奇妙な大騒音が響き渡り、聞くに堪えない前奏から、皆半ば怒鳴り上げて、古い民謡を歌い始めた。


♫ ダマリン町の洗濯女 洗濯抱えて川に行くよ

山積みの服 えっちら おっちら

くるっと回って 服まで踊る

たんたん 叩いて 洗濯棒

あらやだ こりゃあ 旦那のケツだ


山積みの服 えっちら おっちら

くるっと回って 旦那も踊る

たんたん 叩いて 洗濯棒

あらやだ こりゃあ 干したニシンだ


山積みの服 えっちら おっちら

くるっと回って 猫も踊る


 道行く人々は奇怪な音に何事かと振り返ったが、中から楽しげな歌声が聞こえてくると、宴会でもしているのかと迷惑そうな顔で皆邸の前を通り過ぎていく。


 耳を塞ぎながら怒声を放つチェイスの声もかき消して、皆、まるで交響楽団の様に威風堂々と調理器具を叩き、声を張り上げる。

 自分達でもおかしな事をやっている自覚があるのか、笑いを我慢しきれずに、口元がヒクヒクと引き攣っている者までいる。

 やがて皆つられる様に笑い出し、酒の席でもないのに肩を寄せ合い踊りだす。


 狭い部屋の中で繰り広げられる奇妙な見世物に、リリアはただただぽかんと口を開けてそれを眺めていた。

 一曲歌いきると、皆互いを讃えて拍手をしあう。

 その頃にはチェイスも諦めた様に苦笑を浮かべていたが、リリアはグレンに声を掛けられるまで呆気にとられていた。


「どう? 怖くなくなった?」


 グレンは最後のお辞儀をすると、リリアに向かってパチリとウインクをする。

 リリアが曖昧に頷くと、グレンの提案に協力した面々が、まるでイタズラが大成功したみたいに歓声をあげだす。

 リリアはそれがなんだか可笑しくなって、漸くそこでくすりと笑みを漏らしたのだった。

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