四話 慈愛の皇妃
◆◇
その場所には、まるで人の心を休める魔法がかかっているようだ。
――などという感想をどこかで聞く機会がある度に、ウィザリムはその発言者の襟首を捕まえて強く言い聞かせてやりたい衝動に駆られる。
断じて魔法などではない。
それは全てこの部屋の主人の心配りの結果であり、つまりは人柄の成せるものだからだ。
帝宮南殿。そこに無数にある部屋の一つ。
落ち着いた調度類はあくまで場をひきたてるに留まり、己を主張しない。無論、一品一品は最高級の価値を有してはいたが、結局は調和して在るかに尽きる。
そうした意味では、たとえ路傍の石ころであれ、この中であれば調和を乱すことはないだろう――などというのは明らかに崇拝の気分が過ぎていたが、しかしウィザリムは半ば本気でそんな風に信じていた。
胡桃の無垢材による客卓には、活けられた生花が透明な香りを満たしている。
白陶の花入れは遠く、大陸の西の端から陸地を通って届けられた古来の品であり、そこに黄色と白色の花弁を小さく咲かせていた。
その花瓶を中央に囲むようにして、室内にはウィザリムを含めて三人の姿がある。
一人はこの部屋の主である皇妃ソレーヌ。
日にかざしたような薄茶色の髪を持つ彼女は、実際の年齢以上に若々しい。
緩く結い上げられた頭には最低限の装飾品が揺れており、胸元や白魚のように伸びた指にもそれはあったが、全体の印象としてはどこまでも控えめだった。
まるで全ての装飾品が、そうあれという主人の意向に添うように慎ましくしているようだ。という感想をウィザリムは持った。
皇妃ソレーヌは決して絶世の美姫ではない。
もちろん標準的な美的感覚の持ち主から見れば十分以上に美しく、子を生した今なおその美貌は失われていないが、彼女の価値はそんなところにあるのではなかった。
一般的には、それは政治的な意味からよく言われる。
グルジェという“帝国”を産んだ――文字通りの意味で――女性として。
だが、ウィザリムにとってはそれ以前に、一人の女性として心から尊敬すべき相手だった。
「ラナハルト。元気にしていましたか?」
「はい、母上。母上こそ、お身体の具合はいかがですか」
ウィザリムの隣に座ったラナハルが応える。
その口調は、普段の彼を知る相手であれば思わず耳を疑いたくなる程に誠実なものだった。
いつもはだらしなく着崩された格好も、襟から腕先に至るまでしっかりと整えられている。
それはこの部屋を訪れる前にウィザリムがしつこく注意したからではあったが、いつもは鼻で笑ってそうした注意を聞き流すラナハルが大人しく従うだけでも稀有なことだった。
「ありがとう。私はとても元気ですよ。お医者の方々のおかげで、最近は本当に辛いことが少ないの」
「そうですか。それは良かったです」
皇妃ソレーヌの視線が自分に向けられて、ウィザリムは背筋を伸ばした。
「ウィザリム。いつもラナハルトが世話になっていますね」
「いえ! ラナハルト皇子にはいつも良くしていただいています」
途端、隣からからかうような声がかかる。
「なんだ、いつもと随分と調子が違うじゃないか。もっと念入りに皮肉を効かせて文句を言ってくれてかまわないんだぞ」
「ソレーヌ様の前でなんということを言うのだ!」
慌ててウィザリムが止めにかかるのを見て、ソレーヌがくすくすと上品に笑う。
ウィザリムは顔が熱くなるのを感じた。
まるで自分が幼子に戻ったような錯覚を覚える。
初めて目の前の相手と対面した時のことを思い出し、投げかけられた眼差しがその時とまるで変わらないことに驚愕した。
もしかすると自分はあれからいくらも成長できていないのではないか、とそんな不安さえ抱きかけて、ふと香しい匂いに意識を戻される。
お茶の用意を整えた侍女が部屋に入って来たところだった。
濃い茶色の髪を掻き上げ、そのまま後ろまで長く伸ばした年若い女性は、ウィザリムとラナハルもよく知るマリューステスだった。
いつもはラナハルに対して一歩も引かない勝気な瞳は、今は日向のなかにあるよう穏やかに凪いでいる。
洗練された動作で彼女が人数分のお茶を淹れると、彼女の主人が声をかける。
「ありがとう、マリィ。貴女もお坐りなさい」
「いえ、私はあちらに控えておりますので」
恐縮して部屋の入り口に戻ろうとする良家の令嬢に、皇妃は穏やかに笑いかける。
「いいのよ。あなたにもお話にまざってもらいたいの。いいでしょう? ラナハルト」
「もちろんです、母上」
助けを求めるような視線が、マリューステスから向けられる。
彼女の生家はウィザリムの家の領内にある。
彼女が皇妃ソレーヌの側仕えとして奉公することになった経緯にもそれは関係していた。
幼い頃からよく知る相手に、ウィザリムは黙って頷いてみせる。侍女が主人と席を同じくするなどあってはならないことだが、他ならぬソレーヌ様の言葉だ。
「……わかりました。それでは、失礼します」
頷いたマリューステスが、自分の席を探して――空席が皇妃ソレーヌの両隣しかないことに、石のように固まって動きを止める。
業を煮やしたらしいラナハルが、
「いいから、こっちに座れ。母様を困らせるな」
「そんな言い方をしなくてもいいでしょう――あっ、失礼しました」
自分の隣の席を引いてみせる相手へ、思わず普段のような応対をしてしまったマリューステスが慌てて頭を下げた。
皇妃ソレーヌはそんな二人のやりとりを見て、くすくすと少女のように笑った。
「いいのです。ありがとう、マリィ。貴女も、ラナハルトと仲良くしてくれて」
「いつも叱られてばかりですよ、母上」
「それは貴方が私を怒らせるようなことしか――ああ、もう嫌だ。どうしてソレーヌ様の前で、こんな」
天井を見上げて嘆くマリューステスに、思わずウィザリムは吹きだしてしまう。
「ウィザリム、貴方まで笑うことはないでしょう!」
「すまない。いや、本当に悪気はなかったんだ。申し訳ない」
ウィザリムは素直に謝る。
それは彼が生まれてから受けてきた教育による、貴族としての心構えと礼儀からだった。婦女子を笑うなど、たとえどんな理由でもあってはならない。
「出たぞ出たぞ、ウィザリムの格好つけだ。お前はそうやっていつも女にいいところを見せようとする」
「なにを言うのだ。私は当たり前のことをやっているだけだ」
「そうよ、ラナハル。貴方こそ、もう少しウィザリムの振る舞いを見習うべきよ」
常日頃のように言葉をかわしあってから、ウィザリムははっと我に返った。
皇妃ソレーヌはにこにことこちらを見つめている。
「すみません、ソレーヌ様。つい、」
「いいえ、そのまま続けて。私はあなたたちのお話をもっと聞きたいのです」
ウィザリムはマリューステスと顔を見合わせた。
もう一人の相手に視線を送ると、
「母様がそうせよと仰せだ」
力を込めた視線でラナハルからもそう言われてしまい、ウィザリムは頷いた。
「わかりました。ではラナハル、せっかくだからこの場で言わせてもらいたいことがある。だいたい、お前という奴は――」
皇族の身分に連なる人々のものとしては奇妙に騒々しい雰囲気で、歓談が始まった。
四人の茶会は長く続いた。
初めに用意されたお茶が冷え切り、それを淹れ直しに部屋を退出したマリューステスが戻ってから、それがほとんど熱を失う程の時間が既に経っている。
皇妃ソレーヌが体調を崩しがちであることはよく知られている。
先程、本人から調子が良いという発言がありはしたが、過度の面会が負担になることをウィザリムは恐れたが、会話の切り止め時を見つけられずにいた。
加えて、他ならぬ皇妃ソレーヌがもっと多くの会話を求めている気配があった。
決して積極的に会話に参加するわけではない。
息子であるラナハルとマリューステス、そしてウィザリムのやりとりを楽しそうに見守り、会話が途切れがちになると二言、三言、新しい話題へと誘導するように声をかける。
その話題の持って行き方が実に巧みでもあったから、ウィザリムはいつまでも話を終えることが出来なかった。
ウィザリムは決して話が上手くはない。
だが、その彼が自分でも驚くほどに雄弁に物を語ることが出来るのは、間違いなくこの部屋の主人である皇妃ソレーヌの力によるところだと思われた。
そして、そのことがまったく苦痛ではない。
穏やかな空気に包まれ、あるいはこのままずっとこの時が続けばどんなに幸せなことだろうか――その甘美な誘惑に、ウィザリムは耐え難いものを感じていたところに、
「母上。今日はこの辺りで失礼しようと思います」
きっかけをつくったのはやはりと言うべきか、ラナハルだった。
「そうですか? まだ、もう少しお話をしたいのだけれど……ごめんなさい。少し疲れてしまったかしら」
物悲しそうな表情に憂いの色を帯びた眼差しを向けられて、ウィザリムは力強く頭を横に振った。
「いえ、私は――」
「いいえ、母上。実はこの後、剣の練習の約束をしていまして」
「まあ、そうだったの」
そんな予定があるなどとは聞いた覚えもなかった。
眉をひそめかけたウィザリムに、ラナハルはほとんど睨みつけるような眼差しで、
「行くぞ、ウィザリム。……それでは、母上。また参ります」
有無を言わさない声音で告げた。
一人でさっさと立ち上がり、部屋の扉へ向かうラナハルの後を追って、慌ててウィザリムも立ち上がった。
後ろを振り返り、頭を下げる。
「失礼します! 本日はありがとうございました!」
皇妃ソレーヌは、慈愛に満ちた微笑みでこちらを見送っていた。
「こちらこそ、付き合ってもらってありがとう。また一緒に遊びに来てもらえると嬉しいわ」
「はッ!」
「……なにをしている! 置いていくぞ」
過分な言葉に感激していたところに、苛立ちを強くした声が降りかかる。
舌打ちしたいのを我慢して、ウィザリムは皇妃の自室から退出した。
「一体どういうつもりだ。あれではソレーヌ様に失礼だろう!」
足早に廊下を歩く背中に追いついて、ウィザリムは非難の声を叩きつける。
肩越しに振り返ったラナハルの表情を見て驚いた。
その顔は、誰かへの怒りに満ちていた。
「……なんだ。どうしたというのだ、なにがあった」
「なんでもない」
唸るように言って、ラナハルは頭を振った。
「気分が悪い。少し、馬で出てくる」
「なに? それなら少し待て。今、供の用意を――」
「いらん。ガロンを連れていく」
突き放すように言うと、廊下を踏み鳴らして去っていく。
その背中を見送って、ウィザリムは溜息をついた。
気まぐれで怒りっぽく、またその理由が容易には余人にわかりづらい。
ラナハルという人物は、赤子の頃から付き合いのある彼にとっても難しい相手だった。
ともかく、ソレーヌ様にはお詫びしておくべきか――来た道を戻りかけたウィザリムは、向こうからマリューステスが歩いて来るのに気づいて足を止めた。
「マリィ、さっきはすまなかった」
「いいえ。ラナハルは?」
「外へ行った。なにか、気に障ることがあったらしい。ソレーヌ様にお詫びに行こうと思うのだが、お会いできるか?」
取次ぎを求めると、皇妃の侍女は美しい眉をひそめて頭を振った。
「……ごめんなさい。ソレーヌ様、少しお疲れみたい」
ぎょっとして、ウィザリムは目を見開いた。
「そうなのか?」
「ええ。……全然、気づかなかったけれど。無理をされてたのかも。恥ずかしいわ、私ったらそんなことにも気づかないで長々とお喋りばかりして」
後悔するように、マリューステスは強く唇を噛む。
去り際のラナハルの態度を思い出し、ウィザリムははっとした。
「どうしたの?」
「……いや。私はラナハルを追う。ソレーヌ様のことはよろしく頼む」
「ええ。……ごめんなさいって、ラナハルに伝えてくれるかしら」
やはり、彼女も気づいている。
「わかった。それではまた」
「ええ。それじゃあ、また」
ウィザリムは頷き、マリューステスと別れると、足早に廊下を歩きだした。