三話 橋上の誘い
◇
「ククゥ、今日はもう上がっていいぞ」
大都市に添うように流れ、大陸を縦断する長大なその河川は、中原における重要な水上交易路の役目を担っている。
その船着場、行き交う物資の荷上場で次々に手渡される麻袋を懸命に運んでいたククゥは、伸びすぎた前髪の奥で目を見開いた。
「もう、ですか……?」
「ああ。足元がフラついてるじゃねえか、さっきから見てて気が気じゃねえんだよ。とっとと帰って休め」
「でも、」
厳めしい顔つきの監督人の心配そうな顔に、漏れかけた言葉をぐっと飲み込む。口の中に溜まった唾を呑み込んで、顔を伏せた。
「……わかりました」
今日は朝から働いて、まだ日は昇りきってもいない。
河川に運ばれる積荷はそれを上げるにせよ、下ろすにせよ一日中途絶えることはなかったが、その積み下ろしの仕事を一日中続けることは出来なかった。
理由は二つある。
一つは、たとえ仕事が無数にあったとしても、それを求める労働者はさらに多いということで、もう一つがククゥ自身の非力さだった。
同じ駄賃を払うなら、より力のある方がいい。当たり前のことではあった。
自分の体格が同年代の相手よりもさらに小柄であることは承知していたから、ククゥは黙って働いた分の駄賃をもらい、荷上場から歩き出した。
手渡された銅貨は表面がほとんど擦り切れていて、薄っぺらい。
それが自分自身の価値であることを暗に示しているようで、ククゥは悲しくなった。実際、その通りなのだ。
川沿いに歩き、自宅への帰路につく。
周囲にはたくさんの人の姿があった。忙しく働く人達。
だが、彼らの表情はみな厳しい。
その顔には強い疲労が表れ、口数も少ない。だからだろう。その場には奇妙なほど活気が感じられなかった。
自分も彼らと同じような表情でいるのだろう、と憂鬱に思いながら橋の下を通りかかったところで、
「――よう、元気だったか?」
降りかかった声に、ククゥは足を止めた。
顔を上げる。
橋の上に、太陽を背にして誰かが立っていた。
逆光で顔はよくわからない。
手をかかげて確認しようとして、それが誰かを理解したククゥは顔をしかめた。
相手を小馬鹿にするように捻じ曲げられた唇。
欄干に肘を置いて声をかけてきたのは、昨日、ククゥをさらった――さらわせた男だった。
慌ててククゥは周囲を見渡す。
昨日のように、いきなり頭からなにかを被せられることを警戒したからだが、
「なにをやってる。おかしな奴だな」
からかうような声に、憮然として相手を睨みつけた。
「……なにか、御用ですか」
「なんだ? なにを怒ってる? まあいい」
橋の上からなにかが投げられた。
自分に向かってきてそれを反射的に受け取って、ククゥは目を丸める。
大きな小麦のパンだった。
ふっくらとして、いかにも柔らかそうな。
「恵んでやる。その代わり、少し付き合えよ」
上がってこい、と顎をしゃくる相手の態度に、ククゥは強烈な反感を抱いた。
思わず、手に持ったパンを投げ返そうとして――主人の浅慮にあわてて異を唱えるように、大きく腹の音が響いた。
ククゥは顔を赤らめる。
橋の上では、男がつまらなそうに肩をすくめていた。
「……それで、私になにか」
橋の上にあがり、手すりにもたれている尊大な男――ラナハルに訊ねると、相手は苦笑のような表情を浮かべた。
「なんだよ。随分と警戒されてるな」
「それは。……当たり前じゃないですか。昨日みたいに、なにされるか、」
男は顔を歪めた。
唇を片方だけ吊り上げる。
――イヤな顔だ、とククゥは思った。
「阿呆か。お前をさらうのなら、どうして俺がこんなところまで来て、わざわざ声をかけなきゃならない。少しは考えろ」
「……っ。ですから、なんの御用ですかって聞いてるじゃないですかっ」
「だから、ちょっと付き合えって言ってるだろ。なんで怒ってるんだ、腹が減ってるのか? そのパン、食ってもいいぞ」
哀れむような物言いに腹を立てながら、ククゥは手元のパンを見つめる。
少し指に力を入れただけでどこまでも沈んでいくその実の柔らかさと、鼻腔をくすぐる香ばしさに、口内でじわりと唾が湧き上がる。
かぶりつきたくなる欲求を抑えて、ククゥは口を開いた。
「……私になんの御用ですか。それを聞くまでは、いただけません」
「律儀な奴だなぁ。気にするな、昨日の礼みたいなもんだ」
「昨日の御礼なら、もうもらってます」
「だから――ああ、もういい。好きにしろ」
男は鬱陶しそうに手を振って、
「確認したいことがあるだけだ。どうせ暇だろう? 今からまた、辻説法でもしにいく予定だったのかもしれんがな」
別にそんな予定はなかったが、相手への反発心からククゥは挑むような表情をつくって、
「いけませんか」
「いや? 別にお前がなにに時間を使おうが、知ったことじゃない。なんでそんな無駄なことをするのかはまるで理解できないけどな」
「無駄って――」
反駁しようとするククゥにかまわず、相手は気のない様子で続ける。
「そうだろう? あんなところで声を張り上げたところでなんになる。無知な大衆を啓蒙でもするつもりだったのか? 阿呆だな、大衆は無知だから大衆なのだ。たとえ、お前が真理を語っていたとしても、聴き手がそれを理解できなければ意味がない。連中に言うことを聞かせるなら、手っ取り早いのは食べ物を恵んでやるか、奇跡を見せるかだ。そしてそのどちらもお前には出来ない。なぜならお前はまともな寝床さえ持たない浮浪者で、そして魔法使いでもないからだ。そんなくだらんことに時間を使うくらいなら、路銀でも稼いでいた方がマシだろうさ」
「それが、出来れば……っ」
ククゥは、思わず口にしかけた言葉をすんでのところで押し留めた。
瞳に興味深そうな色を見せている相手を睨みつけて、必死に呼吸を整える。
「――無駄だというなら。貴方こそ、こんなところで無駄をして過ごされようくらいにお暇なんでしょうか。……ラナハルト、皇子」
その言葉を口にしていいか戸惑いながら告げたククゥは、相手の反応に戸惑った。
名乗ってもいないはずの自分の素性をあてられた男が、それを怒るのでもなく、笑うのでもなかったからだった。
それは、どちらかといえば、単に困ったような表情に見えた。
「……困った」
ククゥの印象を裏付けるように、呟く。
「まさか自分から切り出してくるとはな。……どういうことだ? 本当にただの偶然だったのか? それともただの間抜けか。いや、わからんな」
相手の言っている意味がわからず、ククゥは不安を覚えた。
「なにが、ですか?」
「――ちょっと待て。こういう展開は考えてなかった。あー、一応聞いておくか。どうして、俺の名前を知っている?」
「それは……。昨日、貴方と一緒にいた人が、一度だけ、ラナハルって呼んでいましたから。それに、船着き場で噂話を聞いて」
「ああ、あのバカのせいか。あいつは頭がいい癖に、どこか抜けてるからな……。ったく、おかげでややこしいことになった。それにしたって自分から切り出す間抜けがいるか? ……世の中に馬鹿が多いことは知ってるつもりだったが、思った以上か?」
ぶつくさと言ってから、不機嫌な一瞥を向けてくる。
「それで? 船着き場で働いているのは、噂話が聞けるからか?」
ククゥは眉をひそめる。
「……他に仕事が見つからないから、ですけど」
それを聞いたラナハルはますます不機嫌そうに顔を歪めた。
なにかを見通そうとするかのように目を眇めて、それから深々と息を吐く。
「それが演技かなにかなら、大したものなんだが」
欄干に体重を預けるようにして、男は空を仰いだ。
すぐに視線はこちらに向かい、
「……パン、食っていいぞ。どうやら俺の用事は済んだ」
ククゥは困惑しながら、相手の言葉にどうするか悩み、結局は身体の欲求に勝てずにパンに齧りついた。
雲のような柔らかい食感を一度味わうと、あとはもう身体が止まらない。
ため息が聞こえた。
顔を上げると、奇妙なものを見る眼差しを向けられていて、ククゥは頬を染める。目を見開いた。
パンを喉に詰まらせかけて目を白黒させるククゥに、呆れたようにラナハルが言う。
「大丈夫か? 水も出せないくせに、詰まらせて死んだりしたら間抜けだぞ。まあ、いざとなったら川に飛び込めばいいけどな。安心しろ、深さは十分ある」
なんとか嚥下しきって、ククゥは安堵の息をついた。
手にはまだ半分近くのパンが残っていたが、ククゥはそちらにはとりかからず、目の前の相手に頭をさげた。
「ありがとうございます。美味しかったです」
「なんだ、もう食べないのか?」
「……持って帰って。あとで食べようかと思って」
相手の表情にわずかな憐憫が浮かんだ。
忌々しげに舌打ちされて、ククゥは思わず目線を伏せてしまう。
重い沈黙がおりた後で、
「――どうして、お前達は貧しいのだと思う」
不意に向けられた問いかけに顔を上げると、尊大な若者は、表情の奥にそれだけではないなにかを宿していた。
「どうして?」
「ああ、そうだ。何故、お前達がそんなにひもじいか、わかるか?」
「それは……、社会が悪いから、とか」
ラナハルが目を丸めた。
はっ、と膝を叩いて、
「面白い奴だな! お前、それはつまりこの国を支配している相手に対して真っ向から非難してるのか?」
さっと血の気が引くのがわかった。
ククゥは慌てて頭を振って、
「そんなつもりはっ」
「どんなつもりだったんだ? まあいいさ。別に間違ってはないからな」
ラナハルは肩をすくめた。
「……間違って、ないんですか?」
「ああ、確かに社会の問題だ。わかりやすく言えば、――おい、本当にわからないのか?」
答えようがないククゥは頭を振るしかない。
「まったく。意味がわからん……。原因なんて、決まってるだろう」
疑わしそうに首を捻ってから、ラナハルは続けた。
「――“魔法”だ」
「魔法が?」
「そうだ。魔法は便利だからな」
そんなことは誰だって知っている。
男が口にしたことは当たり前のことすぎて、ククゥにはその意味が理解できなかった。
やれやれと言いたげに、ラナハルが説明を補足してくる。
「単純な話だ。魔法を使える兵士と、使えない兵士。どっちが戦力としていい?」
「それは……使える方が。いいと思いますけど」
「そうだ。ほんのちょっとだけでも魔法を扱える奴なら、素人だって普通の兵士を三人は倒せる。もちろん、相手を殺せない、なんて奴は除くぞ。熟練した奴なら、囲まれた状態からでも十人は殺れるな。距離さえ間違えなければ、百人だっていけるかもしらん。それどころか――使い方さえ選べば、一人で一軍だって抑え込める。それが“魔法”だ」
ククゥは唾を呑み込む。
相手が口にした内容はひどく血生臭かったが、それを感じさせない淡々とした口調で話は続く。
「別に戦場に限った話じゃない。ある程度の水を創りだせる魔法使いがいれば、そいつ一人で集落中の飲料が賄えたりする。畑に撒く分まで出来たら、まあそいつ一人で集落が成り立つことになるな。魔法を使える連中っていうのは、そういう意味だ。つまり、魔法を使える奴と、使えない奴じゃあ、圧倒的に労働力としての価値が違う」
「労働力の、価値……」
「だから、魔法使いというのは求められるわけだ。人間の場合、魔道の素養ってのは遺伝じゃないからな。そういう才能がありそうな連中を片っ端から掻き集めることになる。大金をはたいて育てる。あるいは雇う。そうなると、」
「コストがかかる」
独り言のような呟きにラナハルがわずかに眉を持ち上げるが、ククゥはそれを意識していない。
「そうだ。だが、魔法も万能じゃない。簡単に言えば、スタミナがない。人間種族の魔法は瞬間的なもので継続性に乏しい。大量の水を一度に生み出すより、少量の水を長時間に渡って生み出す方がはるかに難しいわけだ。“魔法力による労働力”には限界がある。だから、ぶっ倒れた魔法使いの隙間を埋めるために使われるのが、」
乾いた心地で、ククゥは相手の言葉を継いだ。
「……“魔法を使えない労働力”、ですね」
「そうだ。だが、当然のように労働力に対して支払える金には限度がある。魔法使いを探すのも、囲うのにもとにかく金がかかる。かといって魔法使いを雇わないわけにはいかない。なぜなら、敵は魔法使いを雇っているだろうからだ。こちらにも魔法使いがいなければ、相手に勝てないからだ。そして戦争に勝てない支配者になど価値はない。だから、どいつもこいつも大金を使って“魔法使い”の確保に躍起になる。手持ちの金は尽きる。そうして、“魔法使いではない”連中に向けられる金はほとんどなくなってしまう。魔法を使える誰かと、魔法を使えないお前の労働力としての能力の差が千対一にもなるとしたら、どちらにコストをかけるのが効率的だ? ほら、単純な話だろう?」
ククゥはいつの間にか握っていた手のひらを目の前まで持ち上げた。
拳をひらく。
表面が擦り切れてほとんど模様が見えなくなっている銅貨が手汗に塗れていた。
それは最底辺の通貨だ。
さっきククゥが食べた小麦のパンさえ買えない、貧者の証。そして、無能の証明だった。
「……どうすれば」
ぎゅっと拳を握りしめる。
手には、その中の硬貨も潰れろというほどに力が籠もっていた。
「どうすれば、いいんですか。どうすれば、“私達”は――」
「知るか」
やるせない憤怒に満ちた呻きに、応えた声は冷ややかだった。
「そんなのは俺が知りたいくらいだ。別に俺は賢者でもなんでもないぞ」
そこで言葉を切って、この国の皇子は尊大な表情を歪めた。
「お前の方にこそなにか案はないのか? お前は、『マナのない世界』を知っているんだろう」
「私……?」
突然、思いもしなかった言葉を投げかけられて、ククゥは目を瞬かせる。
まじまじと相手を見つめた。
目の前の人物はからかうような表情で、けれどその眼差しは笑っていないのを確認して。
――ぞくりとした。
今さらのように、この自分と比較にならない身分であるはずの相手が、自分に対してこんな話を聞かせている理由についてククゥは訝しんだ。
いったいこの人は、私になにを言わせようとしているのだろう?
……逃げたい。
そう思ったが、足が動かなかった。
代わりに唇が動いている。
ククゥは震えながら、自分自身がなにを口走るかわからないまま、喉の奥から呼気を押し出しかけて、
「――――」
最初の一言を発しようとその瞬間、相手の視線が逸れた。
魔法が解けたように重圧が消え失せる。
全身を脱力感に襲われながら、ククゥがラナハルの視線を辿ると、向こうから二人組の若い男がやってくるところだった。
敵だろうか、と反射的に思いつく。
ただの浮浪者であるククゥには、もちろん自分の“敵”となる相手など想像できなかったが、目の前の相手は違う。
一国の皇子がお供を連れずにこんなところに来ているなんて普通ではない。
誘拐とか、そういうのがあってもおかしくない――
ふん、という鼻息にラナハルを見ると、今度は反対側を眺めていた。
そちらを見やると、馬車が停まっていた。
そこから降りてこちらに向かって来る若い相手は、昨日、会った品の良い青年だった。
敵? 味方? 挟まれた?
ククゥがどうすればいいかわからないうちに、左右から歩く三人の男達はすぐそこまでやって来て、
「……こんなところでなにをしている」
低く抑えた声で、品の良い若者が言った。
反対側から来た二人は、にやにやとこちらを見つめている。
ラナハルが肩をすくめて、
「見てわからないか?」
「わかるか、馬鹿!」
品の良い青年が怒鳴った。
「こんな逃げ道のない場所で、もしも襲われたらどうするつもりだ!」
「だから、この二人に護らせていたんじゃないか」
それに、と下を指さして、
「いざとなったら飛び込むつもりだったから、問題ない」
「川ごと凍らせられでもしたらどうする!」
「ばーか。そんな腕のいい奴に遠くから狙われたら、その時点でおしまいだろうが」
嘲るように言うラナハルに、貴公子がさらに眉を吊り上げる。
心の底から鬼気迫る表情に、ククゥは思わずそこから視線を逸らして川の水面を見て――そこでぎょっとした。
水面から、ぬっと腕が突き出ていた。
流れてきた死体などではないことを示すように、ゆっくりと左右に振られて、そしてとぷんと水中に潜る。
それを横目に見た品の良い青年が、疲れ果てたような深い嘆息を漏らした。
「……とにかく、城に戻れ。説教はあとだ」
「いいだろう。誘いをかけてみたんだが、どうやら不発だったらしい。とんだ無駄足だった。……いや、そうでもないか」
おどけるように言ったラナハルが、面白そうな光を浮かべてこちらを見やる。
「おい、お前。名前は?」
大いに迷ってから、告げた。
「……ククゥ、です」
「ククゥ?」
顔をしかめたラナハルが、彼女の全身を上から下まで眺めるように視線を上下させる。
顎に手をあてて、ははあ、と頷いた。
それを見て不思議そうにした品の良い青年が、
「なにをしている。行くぞ、ラナハル。……ククゥ、すまなかった。これはほんのお詫びだ。受け取ってくれ」
差し出された手のひらには、真新しい輝きの銀貨が輝いていた。
ククゥは息を呑み、それから相手を見つめて、その優しげな表情に頬を染めて、
「――け、けっこうです!」
言って、あわててそこから逃げ出した。
一目散に駆け去っていく小柄な背中を見つめて、ウィザリムが呆然と呟いた。
「私がなにかしたか……?」
「お前はもう少し、洞察力を鍛えるべきなんじゃないかと思うね」
欠伸を噛み殺しながら、ラナハルは言った。