二話 帝宮の異端児
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マリューステス・フラミエルが行儀見習いとして宮殿に上がったのは、三年前のことになる。
大陸の中原に位置するグルジェでは、高貴な身分の人物に対して、良家の子女がその世話役として仕える慣習が存在した。
これは帝家に対する人質として始まった行いとされるが、ほとんど初期の頃から社交、あるいは教育としての意味合いも含まれており、今では後者の価値こそが強まっている。
この時代、教育はそれぞれの家中で行われることが一般的で、そこで最低限の教育を受けた貴族の令嬢は一定の年齢で奉公人として宮廷に上がる。
そこでもっとも高貴な女性の方々に仕え、そこで作法と教養を磨いて、やがて社交を覚えて自らその場に立つ。
名のある貴族の家柄に生まれた令嬢にとって、いずれの主人に仕えるかということは、その後の人生そのものにさえ大きく関わっていた。
マリューステスの生まれは貴族ではない。
あくまで豪族と呼ばれる身分の、地方の名家というだけに過ぎない。
その彼女が帝宮で奉公することになった経緯には、いくらかの事情が存在していた。
政治的背景と大人達の思惑、その擦り合わせ。
それらについてマリューステスは承知していたが、自分自身の置かれた状況を不幸とは思っていなかった。
日々、腹が立つことは多い。
慣れないことや思わず眉をひそめてしまうことも多々あったが、彼女は自分の仕える相手のことを心から尊敬していたから、その相手の傍にいられるというだけで、大抵のことには我慢できた。
だが、そんな彼女にもどうしても許せないものがある。
正確には、それはたった一人の相手の存在についてだった。
その人物は彼女の一つ年下であり、紛れもなくこの国でもっとも高貴な血筋でありながら――その振る舞いは粗野にして乱暴。
他人の思いやりをまるで汲み取ろうともしない、彼女の知る限り最低の人物だった。
初めて会った瞬間、マリューステスはその相手と自分の反りが合わないことを確信した。
それはほとんど思い込みに過ぎないようなただの予感だったが、しかしその後に揺るぎない現実として彼女の中に屹立した。
三年が経った今も、その事実は変わらない。
むしろ相手のことを知れば知る程、マリューステスの相手への反感は強まった。
そればかりは、如何に敬愛する主人から「仲良くしてあげてね」と言われたところでどうしようもなかった。
努力の限りを尽くして、なお不可能なそれは難題だった。
だからと言ってその言葉を正面だって拒否するわけにもいかず、頭を下げ、嫌悪と苦悩に満ちた表情を隠す彼女に向かって、彼女の主人は困ったように微笑むばかりだった。
そうした気配をつぶさに感じて、またマリューステスの内面では激しい怒りが燃え上がるのだ。――何故、このような素晴らしいお方から、と。
今、帝宮の一画を歩く彼女の正面に、件の人物が姿を見せた。
見事な蛇紋の浮かんだ灰理石製の廊下。
東西と南、三方に繋がる外廊下に、横合いから飛び込んできた相手の存在を認識した瞬間、マリューステスは整った眉を吊り上げていた。
「ラナハル! 貴方、またそんなところから!」
颯爽と――よく言えば――廊下に着地した相手が、ちらりと彼女を見やる。
「ああ、マリィか。元気か。相変わらず怒っているな」
相手の息が弾んでいることを確認して、マリューステスはちらりと男の背後を確認した。
また、誰かから逃げてきたのだろうと思ったからだ。
そう察することには、特別な洞察力は必要なかった。
彼女の知る限り、ラナハルト・クオリジ・ヴェル・アダル・イオ・グルジェの常態とは、逃げているか、怒られているか。あるいは、いないかのどれかだ。
「御機嫌よう、ラナハル。今度はいったいなにをしたの」
皇妃に仕える侍女とはいえ、マリューステスの口調は皇族に対するものとしてはいさかか以上に気安いが、しかしその無作法は彼女に原因があるわけではなかった。
というのも、初めて彼女が男と対面した時から、一般的な礼儀作法に則った口調に対して、ラナハルはいい顔をしなかったのだ。
それどころか、返事さえしなかった。
マリューステスのどんな問いかけにも、それを受けた相手は唇を大きく捻じ曲げた嫌な表情で、小馬鹿にするような一瞥を向けるだけだった。
何度となく無視され、それに腹を立てたマリューステスが意地になって声をかけ続けた。
ようやくラナハルが彼女にまともな返事をかえすようになった頃、彼女の口調は自然と砕けたものになっていた。
それくらい、怒り心頭に達していたのだった。
「なにもしてないさ」
「嘘。聞いたわよ。レスルートの帰り、国境で行方をくらまそうとしたんですって?」
腰に手を当ててマリューステスが言うと、ラナハルは嫌そうに顔をしかめた。
「誰から聞いた?」
「誰からもよ。宮殿中が噂しているわ、また皇子がやらかしたって」
「ふん。宮殿務めの連中には、いい退屈しのぎになっただろう? 話題を提供してやったんだ、ありがたく思って欲しいもんだな」
「そんなものありがたくもないわ。貴方がなにかしなくたって、ここじゃ何時だって話題になんて事欠かないんだから」
「毎日が楽しそうで結構じゃないか」
相手の皮肉にむっとして、マリューステスは大きく息を吸いこんだ。
力強い碧眼の瞳でじっと目の前の相手を睨みつけて、
「――ソレーヌ様、心配されてたわよ」
目の前の相手がもっとも嫌がる一言を告げてみせると、思惑通り、それまで余裕のあったラナハルの表情が一気に苦しいものに変わる。
「……母様、なんと仰っていた」
「無事に戻って来て欲しいって。帰ってから、まだお会いしていないのでしょう? 顔を見せて差し上げたら? 今なら、お部屋にいらっしゃるわ」
「そうか。――いや、」
なにかを振り切るように、ラナハルの表情が普段のものに戻る。彼女が嫌いな、粗野で乱暴なものへと。
「今日はちょっと忙しい。母様には、お前からお伝えしておいてくれ。ラナハルトはいつものように馬鹿をやっていました、とな」
「ラナハル!」
「頼むぞ! それから、後から来る奴には俺があちらに行ったと伝えろ! いいなっ」
言い捨てて、指さした方角と反対に駆けていく相手に向かって、大声でそれを制止しかけて、マリューステはため息をついた。
まただ、と思う。
ラナハルが母親であるソレーヌ皇妃と顔をあわせようとしないのは、今日に始まったことではなかった。
理由はわからない。
幾つか思いつくことならあった。それをラナハルに訊ねたこともあったが、相手はまともに答えようとはしなかった。
「早くしないと――」
唇から漏れかけた言葉の端を、マリューステスは慌てて喉奥に押し留める。
帝宮にはどこに誰かの耳があるかわからない。
それは彼女の心情からも同様だった。
今、自らの心中に浮かんだ物事について口にすることは、不吉なことのように思えた。
ふと、背後から誰かの気配を感じて振り返ると、彼女のよく知る相手が懸命な表情で駆け寄って来るところだった。
「マリィ! ラナハルを見なかったか!?」
「たった今」
「どちらへ行った!」
鬼気迫る表情に、黙ってラナハルの示した方角を指して見せる。
「と、いうことは――あっちか!」
「ええ。でも多分、すぐに方向を変えているんじゃないかしら」
長年の付き合いから偽装を即座に看破して、そちらに駆けだそうとする相手に、マリューステスは冷静に告げた。
「確かに、な。……くそ、相変わらず、逃げ足の早い奴だ」
「逃げ足の問題ではないでしょう」
そもそも、帝宮は広い。
途方もなく広い。
そこでの追いかけっこでウィザリムがラナハルを捕まえることは不可能だろう。
その理由は身体能力ではなく、気質の差だ。
ラナハルは帝宮における礼儀作法など気にしない。ここを歩くべし、という約束事や不文律など無視して、最短距離を駆け抜けていく。
一方のウィザリムは、そうしたものをこそ貴ぶ人物だ。
貴族としての自分に誇りを持ち、それに殉ずるウィザリムは、宮殿の壁を跨ぐことなど出来るはずがない。
初めから、結果のわかりきった勝負だった。
「行き先はわからないの? それとも、隠れそうな場所とか」
「かくれんぼをしているわけではないぞ。……行き先に思い当たりはあるが、正直、当たっていて欲しくはないな」
苦み切った表情で呻く相手に、マリューステスは同情を覚えた。
貴公子然とした相手はラナハルと同い歳のはずだったが、眉間に深く皺を刻んだウィザリムの表情は、彼女やラナハルより遥かに年上のようだった。
一度、そのうちに皺が戻らなくなるんじゃないかしら、とマリューステスがからかった時、ウィザリムの顔に浮かんだ絶望的な表情を思い出すと、気の毒になる。
その時は、相手のあまりの深刻さに思わず笑ってしまった彼女だったが。
「それより、ウィザリム。貴方からも言っておいてもらえないかしら。ラナハルに、ソレーヌ様のところへ顔を出すようにって」
彼女とウィザリムの間にも立場の差は存在する。
ある意味で、ラナハルと対するよりも具体的な関係性が両者にはあったが、どちらもラナハルという稀代の問題児に振り回されていることへの共感性から、二人の交わす言葉も気安いものだった。
無論、公私を弁えた上でのものではある。
「……ソレーヌ様のお加減は」
「お変わりないわ。つまり、良くはないということ」
「そうか……」
ウィザリムは沈痛そうに顔を歪める。
マリューステスがこの相手に共感を覚える点のもう一つが、彼女が自分の主人を敬愛するのと同じくらい、ウィザリムもソレーヌ皇妃に対して敬慕の念を持っていることだった。
「――わかった。私からもよく言っておく」
「首に縄をつけてでも連れてきて」
「そうしよう。ただし、手綱を持つのは君にやってもらってもいいか」
もちろん、皇族にそのようなことをやってただで済むはずがない。
「ええ、構わないわ」
マリューステスは迷うことなく頷いた。
たとえその後にどのような仕打ちが待っていようとも、主人の前にあの馬鹿皇子を引き合わせることが出来るのなら、そのくらいはやる覚悟があった。
驚いたように目を見開いたウィザリムが、
「冗談だよ。そのような真似を婦女子にやらせるわけにはいかない。あいつは、私が首根っこを捕まえてでもソレーヌ様の前に連れていく。約束しよう」
「ありがとう。この間のことで、すごく心配されていたの」
そうか、とウィザリムは渋い顔で頷いた。
「当然だな。余計な心配をおかけして、ソレーヌ様に合わせる顔がない」
「ねえ、どうしてラナハルはあんなことをやったの? 他国に外交使節として赴いた帰りに失踪しようとするなんて、信じられないわ。普段やっているようなこととはまるで問題の程度が違うでしょう」
マリューステスが訊ねると、ラナハルに幼くから仕える青年は周囲を気にするように素早く視線を巡らせてから、彼女の耳元に口を近づけると、
「――危険を感じたのかもしれない」
かろうじて聞こえる程に小さく囁いた。
なにを、と思いかけて、すぐにマリューステスは顔をしかめる。
まさか、と視線で問いかけた。
口に出すことは出来なかった。誰が聞いているかわからない。
彼女の瞳に浮かんだものを読み取ったように、ウィザリムは肩をすくめてみせた。
ややわざとらしく、大きめの声で告げる。
「まあ、あいつがなにをやりたいのかなんて、そんなことがわかる相手などいないさ」
「……そうね。本当に」
言葉少なく同意を返しながら、マリューステスは自身の顔色に注意した。
帝宮で気をつけなければいけないのは何者かの耳だけではない。
誰かの目。
誰かの息遣い。
肌に触れる気配や予感でさえ、心の裡に生じる全てに神経をすり減らして対さなければならない。
ぎこちなく表情を強張らせるマリューステスに、ウィザリムはそれに気づいてにこりと微笑んでみせる。
「大丈夫だ。とりあえず、あいつを連れ戻してソレーヌ様の許にお連れしよう。今日……はちょっと間に合うかわからないが、明日には必ず。ソレーヌ様にはそうお伝えしておいて欲しい」
「わかったわ。お願いね」
マリューステスは頷いた。
この相手が決して嘘をつく相手ではないことは知っていたから、彼女はその約束を信じた。
「さて、それではあいつを捕まえてくるとしよう」
「行き先はわかっているのでしょう? 先回りしてはどう?」
マリューステスの提案に、ウィザリムは苦々しい表情ですべらかな顎をなでながら、
「どうだろう。私がそう動くことを予想して、私がいない間に宮殿でなにかやらかすかもしれない。以前、それで酷い目にあったからな」
「ああ、皆して締め出されたことがあったわね。……ご苦労様」
たった半年程昔に宮殿を騒がせた一幕を思い出して、マリューステスは吐息をはく。
「本当に、大変だと思うわ。なにか私に出来ることがあったら言って。少しでも貴方の苦労を減らせるのなら、なんだって協力するから」
「ありがとう。そう言ってもらえるだけでも本当に心強いよ」
苦労性の皺を眉間に滲ませて、容姿端麗な貴公子ウィザリムは力なく微笑む。
去り際、彼は己の心情を簡潔に言い表してみせた。
「それにしても。頭のいいバカというのは、本当に厄介だ」