一話 異常の共感性
浮浪者にとっては、ほんの一瞬の出来事だった。
街道での演説を終え、虚しい達成感を抱えて帰路についていた背後から襲われた。
いや、襲われたということさえすぐにはわからなかった。
頭からなにかの袋を被せられて視界が闇に閉じる。
暴れようとした時には腕を捻られ、首を絞められて身動きどころか呼吸さえろくに出来ず、
「……静かにしろ」
のっぺりした声が耳元で囁いた。
ほとんど感情さえ顕わでないその声の平坦さに、逆に底知れない恐ろしさを覚えて、浮浪者の中にわずかにあった反抗への気力は即座に消え失せた。
それと同時、ようやく自分が襲われているのだということを認識する。
恐怖の度合いが増し、頭が麻痺したように真っ白く染まった。なにも、なにも考えられない。
身体を拘束されたまま、浮浪者は引きずられるようにして歩く。
どこかに連れていかれ、何かに押し込まれた。
前から馬の嘶きが聞こえ、それが馬車であるらしいと気づいたが、気づいたところでなんの意味もなかった。
それから馬車はひどく揺れながら長い時間をかけ、どこかに移動した。
しばらくして降ろされると、また歩かされる。
建物に入り、そこを出て、歩いた。
何度かそれを繰り返し、いい加減に疲労で足に疲れを覚えた頃になって、
「さっさと出ろ」
扉が開き、低い声で命じられる。
前面に異様な気配を感じてもたついているところを、腕を掴まれて外へと出された。
そのまま、引っ立てられるようにさらに歩く。
周囲に人の気配はなかった。
そのことも浮浪者にとっては恐ろしかった。
まるで一歩、一歩が死に近づいているようで、自然と歩幅が狭まり、それを後ろからせっつかれて転びかける。
後ろから露骨な舌打ちが響いた。
なにも考える余裕もないまま、やがて浮浪者はどこかの室内に通されてそこに乱暴に跪かされた。
頭に被せられていたものが取り払われ、視界が開ける。
ようやく視界の自由を得た浮浪者が真っ先に見たのは、奥から自分を見下ろす尊大な眼差しだった。
自分がこの部屋の支配者だという事実をそれだけで表現しているかのような態度で睥睨するその若者は、整った顔立ちに疑わしげな眼差しを浮かべていた。
足を組み、その上に頬杖をついているせいで前屈みに姿勢が悪かった。
姿勢のせいか、それとも目線のせいか。それともその両方か、どこか獣じみた雰囲気がある。
「おい、ウィザリム。本当にこいつか?」
椅子に座る相手の隣には、貴公子然とした身なりの人物が立っていた。
こちらもまだ若く、十代半ば頃と思えたが、詳しくはわからない。
ただ、その立居がひどく印象に残った。
真っ直ぐな――肩肘を張っているのでもない、無理のない自然な直立。
そうした印象は隣に座る人物の姿勢が悪い分、さらに鮮明なのかもしれなかったが、そんなことを冷静に観察しているような余裕はなかった。
自分をさらった相手が貴族であることを知って、浮浪者は土垢に汚れた頬を強く引きつらせた。
貴族。
つまりは支配者。
人間だが、同じ人間ではない存在。
「私が連れて来たわけではない。が、間違いないだろう。なんなら本人に訊いてみろ」
「手を抜いたのなら、許さないぞ。俺はしっかりお説教に耐えてみせたんだ。いつもより随分と長くかかったんだからな」
「手を抜いた表情でいたから、説教が伸びたのだろう。お前の不始末だ」
「なにを言う。爺の奴、顔を真っ赤にしてたんだぞ? それでこっちまで余計な力を入れてみろ。ますます顔面を強張らせてしまって、そのうち向こうの血管が切れてしまうじゃないか」
「あ、あの――」
自分のことを忘れたように刺々しい言葉を交わし始めてしまった二人に向けて、浮浪者は恐る恐る口を開いた。
「あなた方は、一体……」
獣のような雰囲気の若者がちらりと目をやった。
「おい、お前。さっき街中で下手な演説をやっていたか?」
態度にふさわしい、ひどく尊大な口調で訊ねてくる。
「え、演説……? え、ええ。そう、です、」
「そうか。下手クソだが、なかなか面白い内容だった。続きを聞かせろ」
それだけで説明は終わったらしく、口を閉じる。
目も閉じて、まるで詩の朗読でも待っているかのようだった。
わけがわからずに浮浪者が困惑していると、うっすらと瞼が持ち上がり、早くしろという胡乱な目線が向けられる。
「何してる。説明しただろう、さっさとしろ」
「あの、でも――」
隣に立つ若者が深く息を吐いた。
「お前はもう少し、説明という言葉の意味を知るべきだな。……突然、こんな場所に連れてこられて困惑するのはわかる。すまないが、さっき街で話していた内容について我々に聞かせてくれないか。悪いようにはしない。いくらか礼も出そう」
穏やかで丁寧な口調を聞いて、浮浪者は少しだけ動揺を落ち着かせることが出来た。ごくりと唾を呑み込み、
「あの、あなた達は」
「そんなことはどうでもいい」
苛立たしげに、椅子に腰掛けた青年が手を振った。
「お前が俺達の素性を知る必要はない。お前の喋っていた話に興味があるだけだ。さっさとしろ、死にたいのか」
険悪な表情で凄まれ、浮浪者は息を呑む。
逃げるようにもう一人へと視線を向け、そこにある優しげな眼差しにまた少し心を落ち着かせて、震えながら口を開いた。
「あの――ですから。私が言っていたのは。……マナのことで、す。マナっていうのは、決して万能なんかじゃなくって、」
つっかえながらもなんとか語りだすが、頭の中はいまだ混乱の極みにあった。
紡ごうとした台詞の断片がもつれ、形にならないままに吐き出される。
焦れば焦るほど舌のもつれは酷くなり、ついには文字としての体裁さえ失いかける始末だった。
自分の耳にも届く音も、自分でひどく支離滅裂に思える代物でしかない。
「だから、魔法っていうのは。すごく理不尽で。ええと、おかしいんです。法則とか、そういうことじゃなくて――なんていうか、間違ってるっていうか……そう、歪んでて。だから」
目の前の二人が顔をしかめている。
一人は大きく顔を歪め、もう一人はわずかに眉をひそめる程度だったが、彼らの心中にあるものを察することは容易だった。
その彼らの表情にますます焦りを掻き立てられて、さらに恐慌する。
貴族の不興を買えば殺されてしまうかもしれない。
彼らにとって平民の命などその程度のものであることは十分に理解していた。この世界は、そういう世界だと。
はあ、と吐息を漏らした野卑た若者が、ゆっくりと手を持ちあげる。
その動作は、この場を終わらせようとする仕草に浮浪者には見えた。
それどころか、首を斬り落とせ、という合図かもしれない。
焦燥感が絶頂に達し、視界が点滅する。
息ができない。
自分が呼吸不足に陥っていると知って、浮浪者はあわてて肺に新鮮な空気を送り込もうとするが、そのための器官は痙攣したように動かなかった。
ひりついた口内はからからに枯れて水気はなく、代わりに身体中からだらだらと汗となって垂れ流されている。
間近に迫る死の予感に、ほとんど失神しかける程の恐怖を覚えながら、浮浪者はなにか言葉を探した。
相手と、そして自分に向けて、なにか端的でわかりやすい一言。
「ゆ、夢を! 見たんです……っ」
ぴたりと若者の動きが止まった。
「夢?」
「は、はい――」
噛み合わせの悪かった歯車がなにかの拍子で動き出すように、泊まっていた呼吸が再開される。
ほとんど溺れかかっていた心地で、浮浪者は大きく深呼吸を繰り返した。
個体のような空気が喉に詰まって、げほげほと何度もむせる。涙が出た。
「どんな夢だ」
浮浪者は顔を持ち上げる。
椅子に座った青年は、尊大な姿勢のままこちらを見おろしていた。
粗雑な眼差しも変わらない。
ただし、その瞳の奥に奇妙な理知的な光も見て取れるように思えた。
いつの間にかたっぷりと口の中に溜まった唾を喉の奥に押し込むと、浮浪者は震える声で告げた。
「マナがない、世界。です……。私は、夢の中で。その世界で長く生きてきました」
室内に沈黙が落ちる。
不意に落ちた無言の帳の意味を量りかねて、浮浪者はぶるりと背筋を震わせた。
自分の発言がどれほど奇天烈なものであるかという自覚があった。
経験もある。
決して口から出まかせを言ったのではなくとも、今まで何回か同じことを誰かに言ったことはあるからだった。
その時に周囲の人々が自分に向けてくる反応は全て同じだった。
「マナがない世界、ねぇ……」
野卑な若者が億劫そうに口を開く。
上げかけていた手をおろし、改めて頬杖をついた体勢で、相手はつまらなそうに続けた。
「――それで、どんな世界だ?」
「は?」
浮浪者は目を丸める。
歯を剥くように表情を歪めた青年が、
「だから、その夢の世界とやらだ。どんな世界だったんだと聞いている。長く生きていたんなら、もちろん覚えているんだろう?」
「それは――あの、馬車が空を飛んだり。ええと、硝子の塔が針のように立ち並んだり……」
「それだけか?」
若者の口調に露骨な失望がまじったことに、浮浪者は混乱した。
自分の発言を受けて頭がおかしい奴だと笑われることは想像していたが、こうした反応は考えてもいなかった。
「なんだ、案外つまらないな。吟遊詩人どもの歌にだって出てきそうな内容じゃないか」
「ち、違いますっ」
慌てて声を張り上げる。
「その世界は、その――マナがないんです! 魔法が、ないんです。だから、」
「――お前、“無能者”か?」
不意に投げかけられた言葉に、浮浪者はぐっと言葉を詰まらせた。
こちらを見下ろす眼差しはひどく冷ややかで、それを避けるように目線を伏せながら、羞恥に耐えて答える。
「……はい」
「そうか。ああ、別にだからどうだと言うわけじゃない。俺だって似たようなものだ」
えっ、と顔を上げかける浮浪者に、
「それで、その夢で見た『マナのない世界』とやらがなんだと言うのだ。その夢の世界が実際にあると言いたいのか? 証拠でもあるのか」
「証拠、ですか?」
「そうだ。その世界が在ることを証明するモノだ。当たり前だろうが。それがなければどうやって他人にそれを信じてもらう。なにか認めさせたい仮説があるなら証明してみせろ。でなければなんの話にもならん」
苛立った口調で言われ、浮浪者は目を白黒させる。
自分の突飛な発言が一笑に付されなかったこともだが、その驚きは向けられた返答が意外に理知的なものだったからだった。
仮説と証明。
そうした概念について無知だったわけではない。
ただし、それらは浮浪者の耳にはひどく縁遠いものになってしまっていた。
「それは――」
「なんだ? 証明できるのか? なにか必要なものがあるなら、言ってみろ。地図か? 道具か? それともやはり、出来ないのか」
自分を見おろす眼差しに嘲るような光が浮かぶのが見えて、反射的に浮浪者は答えていた。
「で、出来ますっ!」
「そうか。なにが必要だ」
少し考え込んでから、
「じゃ――、じゃあ。あの……木の棒を。いただけますか。あの、握れるくらいの太さの。それと、厚い木の板も」
「木の板? まあいい。おい、ウィザリム。用意してやれ」
「……まったく。どうして私が……」
深々と息を吐いたもう一人の青年が、扉を開けてすぐそこにいたらしい誰かに声をかける。
「はッ!」と返事をした気配が、慌てるように遠ざかっていった。
少しして、気配が戻ってくる。
「失礼します!」
声とともに部屋に入って来たのは、全身を重々しい鎧に包んだ屈強な兵士だった。
手に外から拾ってきたような手頃な木の枝と、木板を抱えている。よほど急いだのか、息を切らしていた。
「そいつに渡してやれ」
「はッ」
浮浪者は慌ててそれを受取ろうとする。鈍色の兜の奥から胡散臭そうな視線が貫いた。
「他に御用はございますか」
「ない。外に出ていろ」
「……はッ」
去り際、兵士の視線がもう一度自分を睨みつけるのを感じて、浮浪者はぞくりとした悪寒を覚えた。
「それで? いったい、なにを見せてくれる」
尊大な青年が、眼差しに若干の興味の色を湛えて言ってくる。
浮浪者は口内の唾を呑み込み、渡された木の棒と木の板を見おろした。
「は、はい。えっと……」
浮浪者は木の棒から余計な枝葉をこそぎ落とすと、次に木の板を足元に置いて両膝で強く固定する。
改めて触れてみて、その表面が十分に乾いていることを確かめてから、あっと声を出した。
「あ、あの」
「なんだ」
青年はじれったそうに膝を揺すっている。
「あの……ここじゃあ、危ないかもしれなくて。出来れば、外に……」
「外?」
「はい、あの」
「――いや、その必要はない」
と言ったのは、気品ある佇まいの青年だった。
彼は小さく嘆息すると、
「大丈夫だ。そのまま続けてもらってかまわない。……これからの展開は、まあ読めたからな」
相手の態度に戸惑いながら、浮浪者はそれならと動作にとりかかる。
強く固定した木の板に、直角になるように木の棒を立てる。
ちょうどよい窪みに棒の先端をあてると、それを両の手のひらで挟むように持って――手のひらを素早く擦った。
「あっ」
すぐに先端が外れてしまう。
それを戻して再び両手で包み込む。
今度は慎重に、なるべく早く転がす。
あとはそれを繰り返すだけの単純な作業だったが、行うのには十分な集中が必要だった。
木の板に宛がった棒の先端は、少しでも力がずれるとすぐに窪みから外れてしまう。
しばらくその慎重な作業に没頭していた浮浪者は、ふと異変に気づいて顔を上げた。
周囲に微妙な気配が生まれていた。
目の前の尊大な青年の、奇妙なものを見るような眼差しでこちらを見つめていた。
「……それは、まさかと思うが、火種を作ろうとしているのか?」
「え? あ、はい。そうですけど……」
浮浪者が頷くと、二人の若者は互いの顔を見合わせる。
大きくため息をついた。
「あー。一応、聞いておくぞ。それの一体なにが、“証明”になると思ったんだ?」
「え? えっと。それは、」
ひどく脱力しきった室内の雰囲気に戸惑いながら、浮浪者は答える。
「わ、私は、魔法を使えませんから……。だから。それでも火を熾せるってことが、魔法が絶対じゃないって証になるんじゃないかって……」
語尾が徐々に尻すぼみになっていったのは、目の前の二人が発する空気が変化していくのを敏感に察したからだった。
冷ややかな呆れ。白け。そのようなものに。
なにがいけなかったのだろう。
涙目になりながら浮浪者は手元の木の板を見る。
あれほど強く木の棒を擦りつけていた窪みには、まだ焦げ跡さえついていなかった。
「……君が間違えていることは幾つかある」
品の良い青年が、優しげな声音で諭すように言った。
「まず一つ。火種を熾したいのなら、そのやり方では不十分だ。摩擦熱を利用した発火法なのだろうが、それでは非常に力が要るだろう」
浮浪者の元に近づくと、床に置かれた木板を拾い、重さを確かめるように上下に振ってみせる。
「下に敷くなら、もう少し柔らかいものの方がいいだろうな。よくは知らないが、乾燥しているかどうかも重要ではないのかな。表面だけ乾いていても、中がどうかまではわからない。ラナハル、どうなのだ?」
「そんなこと俺が知るか」
見るからに不機嫌そうに、野卑な青年は吐き捨てた。
「そうなのか? お前なら外で一度くらいやったことがありそうだと思ったのだがな」
「知るか、と言っているだろう。知りたいなら外の兵士にでも聞いてこい」
品の良い青年は肩をすくめ、視線を浮浪者に戻した。
「今のが二つ目だ。こうした発火法は別に特別なものではない。確かに魔法を使えば着火するのは簡単だが、君も知っている通り、たとえもっとも初歩的といわれる火属性でも、魔法というのは誰にでも扱えるものではないからね。当然、そうした人々は魔法以外の発火方法について火打ちなどの知識を持っている」
「それは……知ってますっ。私が言いたいのは、」
「マナに頼らない発火方法。それを行うことが、マナの絶対性に対する反証になる――残念ながら、そういう理屈にはならないよ」
穏やかに遮られる。
青年の眼差しには、どこか哀れむような光があった。
「確かに、魔法を扱えない人々は大勢いる。だが、それは一般的に『魔力を有用な形にまで具体化できない人々』のことを指す。具体化までは出来なくても、知覚はできる。もちろん感覚の鋭さなどはあるけれどね。本当の意味で“完全に魔力の素養を持たない”というのは非常に稀少なんだよ。どれくらい稀少かと言うと、そんな輩は一人として存在しないだろうと思われているくらいだ。在り得ないと言ってもいい」
「在り得ない……?」
「――この世界はマナから創られた。そのくらいは知っているだろう」
言葉を継いだのは、それまで黙っていた粗野な青年だった。
「マナを司る精霊どもがこの世界を創った。そして、それは事実だ。少なくともそれを否定できるだけの材料はない。腹立たしいがな。この世界にはマナが溢れている。俺やお前が魔法を扱えようが、扱えまいが関係ない」
「でも、私はっ」
「うるさい、黙って聞け。お前が魔法を扱えるかどうかは関係ない。何故なら、この世界にはマナが溢れているからだ。全ての物にはマナが含まれている。それはつまり、全ての運動にはマナが含まれているのだ。……まだわからないか?」
侮蔑の色を浮かべて、青年は言った。
「お前という存在がこの世界に起因して存在する以上、お前の行いの全てにはマナが関与しているわけだ。どんな証明行為も、それを否定することは不可能だ。マナがこの世界にあまねく遍在するものである以上、マナを否定しようとしてなにかを証明するなどということ自体が出来ない相談事なんだよ」
浮浪者は言葉を失った。
「やれやれ。だから言っただろうが、『証拠でもあるのか』とな。なにを見せてくれるかと思えば、質問の意味すら理解できていなかっただけとはな。馬鹿馬鹿しい」
舌打ちするように言うと、野卑な青年はつまらなそうに手を振った。
「ウィザリム、もういい。こいつを帰らせろ」
◇
呆然自失の状態で駄賃を握らされた浮浪者が退出させられた後、ラナハルはすぐに部屋に戻ったウィザリムに命じた。
「あいつの後をつけさせておけ。寝床を知っておきたい」
指示を受けたウィザリムは眉をひそめ、慎重な表情をつくった。
「……念のために聞いておくが、さっきの話を信じたわけではないだろうな?」
「さっき? あれのなにを信じろと言うんだ」
ラナハルは大きく唇を捻じ曲げる。
「まるで話にならん。ただの狂言でしかない」
「では何故だ」
「狂言だからだ」
素っ気なく告げて、
「さっきの辻説法で、あいつが吐いていた台詞を覚えているか? 言っていただろう、『知ることが放棄されている』だとかな」
くつくつと笑うラナハルに、ウィザリムは注意深い眼差しを向ける。
「それがどうしたのだ? 同じような狂言の類だろう」
「その通り。ただの狂言で、つまりは狂人だろうな。だが、その狂人がどうして俺と似たような思いを抱くことになったのかは、なかなか興味深いと思わないか?」
「……ラナハル」
声を抑えた呼びかけに、肩をすくめる。
「正直に言えば、あいつが何故あんな思想に至ったかなんてどうでもいい。本当に『マナのない世界』があるかどうかとか、そっちの話もまるっきり興味はないな。妄想だろうと構いやしない。俺が興味があるのはその価値観だ。クソったれた精霊と、連中とその手先のエルフどもが押しつけてくる教えに縛られた――この世界の在り様をおかしいと認識する、その異常な価値観に興味がある」
振り返った青年の表情は歪んでいた。
自らの異常性を自覚して、その上でその正しさを信じている生き物の表情だった。
それに突き進むことに躊躇しない表情でもあった。
ぞっとした気分を呑み込み、ウィザリムは訊ねる。
友であり、主君でもある人物に対して。
「あの浮浪者をどうするつもりだ?」
「さあ、どうするかな。なにか上手い使い道があればいいんだが、あんまり頭の出来はよろしくなかったしな……。だが、まあ別に構わんだろう。常人にはないおかしな発想から、なにか予想も出来ない形に結びつくことだってあるかもしれん」
「……面倒事を抱え込むだけになると思うのだがな。ただでさえ、お前には立場というものがある。しかも決してよろしくない評判を伴ってだ。今でも十分に敵が多い宮中に、付け込まれるような隙をつくることはない」
「役に立たないなら切り捨てれば済む。役に立ちそうなら、せいぜい役に立ってもらうさ」
「わからないな。あんな浮浪者が、いったいなんの役に立つと言うのだ?」
その言葉を受けて、ラナハルは野性的な表情に満面の笑みを浮かべた。
そして、断言する。
「決まっているだろう。この俺が世界を征服するためにだ」
自信と野心に満ちた眼差しにあるのは、覇気ある輝き。
それは晴れ晴れとした――ただし、見る者によっては容易に狂気と呼ぶことさえ躊躇わないだろう程の、確かな異常性の発露だった。