プロローグ
厚く連なった灰色の塊が、地上まで垂れ落ちてきそうな曇天の空だった。
緩い石畳に舗装された車道を一台の馬車が揺れている。
誂えの豪華な馬車だが、車体には地位を示す旗や紋章の類は見当たらなかった。
中には二人の若者が対面に座っている。
一見しただけで、まるで異なる印象を与える二人だった。
一人は座席に腰を浅く、ほとんどずり落ちるような格好で身体を投げ出している。
目鼻立ちは整っていたが、それ以上にどこか野卑な印象があった。
だらしなく着崩された服装。
不貞腐れた態度。
それらが十代半ばという年齢相応、あるいはそれ以上に幼い印象を他者に抱かせている。
「行儀が悪いぞ、ラナハル」
「うるさい」
低く唸り声を上げる青年の正面に居る相手は、こちらは姿勢よく腰を下ろしていた。
端正な顔立ちに、一目で仕立ての良いとわかる身なりを隙なく整えていて育ちの良さが窺える。
青年は呆れたような眼差しを不機嫌な同席者に向けて、口を開いた。
「いい加減に機嫌を直したらどうだ。いつまでも愚痴愚痴と、子どもでもあるまいし」
「うるさいと言ってるんだ、ウィザリム」
険悪といっていい視線で、ラナハルと呼ばれた若者はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「首を伸ばしてみたところで、どうせ窓の外にあるのは出かける前と変わらない。陰気な街並みと陰気な顔ぶれだ。そんなものを見るくらいなら、生娘のように天井の染みを眺めていた方がまだマシだ」
吐き出された言葉の品の悪さに、眉をひそめたウィザリムはなにかを言いかけたが、結局はそれを聞き流すことにして、
「……あちらの街並みは違ったのか?」
「違わないな。酷い有様だった。いや、もっと酷かった」
さりげなく誘導された話題に進んで噛みつくように、野卑な青年は吐き捨てた。
「貧相な通りに並べられた貧相な棚。貧相な品。その癖、上辺だけは豊かに見せようとしているから始末が悪い。晩餐会も酷いものだったぞ。量だけ揃えて、香料を山のように塗せばそれが持て成しになるとでも思っているのか、あれは?」
「レスルートは小国だ。他国の王侯を招いて粗相は見せられないだろう」
はん、とラナハルが嗤う。
「中原の端っこで、小骨のように引っかかる弱小国が今更なにを取り繕う。くだらん張りぼてに金をかけるくらいなら、槍の一本でも新調した方がマシだ」
「真新しい槍の穂先を城館の左右に輝かせて迎賓しろと?」
あまり品の良い考え方ではないな、と今度は口にして冷ややかな評を下すのに、言い捨てるような断言が返る。
「お上品に澄まして国が護れるか」
「獣のように吠えたてて牙を剥いていればいいのであれば、そこらの盗賊と変わらない」
「何が違う? 王などというのは、所詮は賊の親玉のことだろう。そこらの山賊と違うのは規模と、フン。正統性とやらだけだ」
歯に衣を着せぬ発言に、それを聞いた相手の端正な顔立ちが歪んだ。眉を顰めて、
「不敬だな。平民なら即刻、首が落ちている。それを帝族のお前が言うのだから、始末が悪いとしか言いようがない」
「この俺の始末が良かったことなど、今まで一度でもあったか? 我が友よ」
傲然と胸を逸らしてみせる。
ウィザリムは嫌そうに頭を振った。
「外国の空気に触れてみれば、多少は入れ替わる心も持ち合わせているんじゃないかと期待していたのだがな。残念ながらそうはならなかったようで、酷く失望しているところだ」
「お前のその言い方こそ、不敬だぞ」
「これは失礼を。お望みとあらば今すぐにでも改めますが、ラナハルト皇子」
洗練された発音に乗った皮肉には、そこにさえ典雅な響きがあった。
途端に顔をしかめたラナハルが、怖気を振るうように肩を震わせてみせる。
「お前にそんな口調を使われると、鳥肌が立って仕方がないな」
「なら我慢しろ。城に戻れば、これ以上の説教を聞かされることになるのだからな」
「何故だ! 文句も言わず、きちんと務めを果たしてきたところだぞ、俺は!」
大仰に両手を広げる皇子に、この上なく冷ややかな一瞥が突き刺さった。
ラナハルの顔が大きく歪む。
「……お前がバラしたのか」
「当たり前だ」
ウィザリムは至極当然といった顔で頷いた。
「子飼いの連中を迎えに来させようとしていたようだが、そんなもの気づかないはずがないだろう。生粋の馬鹿か、お前は」
「待て、その話は一体どこまで知られているんだ。まさか――」
「こんな馬鹿げた話を皇帝陛下のお耳に入れてみろ。侍従長以下、明日から路頭に迷う人間が何人出るかわからない。もっとも、どこかから知られてはいるだろうがな。安心しろ、いつもの奇行かと笑われているだけだろうさ」
「はっ、好きに囀っていればいい」
言いながら、ラナハルは忌々しそうに自分の膝を叩く。
「馬鹿が。囀られるだけですむものか。侍従長はカンカンだぞ。皇族が他国から戻る途中に行方知れずになるなど、外交問題にまでなりかねない。たっぷりと絞られることは覚悟しておけ」
「お説教はたくさんだ」
「そうだな。説教はマリィに任せよう。彼女の方が私より何倍も上手く、お前の心身をうんざりとさせてくれるだろうからな」
「……レスルートの方がまだマシだったな。少なくとも、お前達の小言を聞かずに済む」
「それが嫌なら日頃の素行を正すことだ」
「出来ると思っているのか」
「思っているとでも思っているのか」
二人は異なる表情で睨み合う。
馬車の車輪が石畳に乗り上げて大きく車体が揺れたのをきっかけに、彼らは顔を背けあった。
「それで。どうだったのだ、レスルートは」
顔を背けたまま、ウィザリムが訊ねる。
まったく同じような表情のラナハルが応えた。
「言っただろう。酷かったぞ」
「料理や歓待についてじゃない。見るべき人物はいなかったのか」
「料理も歓待も、どちらも人が用意するものだろう。用意された物が不味くて、用意した者が良いことがあるのか? ――ああ、だが確かにまともな相手もいたな。晩餐会に出ていた若い女だったが」
ほう、とウィザリムは頷いた。
「どこかのご令嬢か?」
「そういうわけでもなさそうだったがな……。周りの態度を見るに、いかにも疎まれていた様子だった。そういう相手が日の目を見るのであれば、あの国にもまだ先があるのだろうが――無理だな。衰退という言葉を象徴しているような国だ、あそこは。あの国に限らないが」
「そんなことはないだろう。“魔王災”から長い時間をかけ、各国の努力で復興は順調に為されて来ている」
「誤魔化すな、ウィザリム。俺が言っているのはそんなことじゃない」
よく発達した犬歯を覗かせる。
その姿は高貴な血筋というより野盗の首領といった方が近かったが、凄まれた方は気にした様子もなく肩をすくめて、
「なら教えてくれないか。レスルートのどこに衰退の兆候があったんだ?」
「知らないのか。あの国では冒険者などと言って、辺境の村落にまで積極的な自衛力の保持を認めているんだぞ? 自衛力、つまり武力だ。正気の沙汰ではない」
「苦肉の策だろう。たった百年前、この世界の一切は滅びかけたのだ。その混乱に乗じた魔物の襲撃が多発しても、遠方にまで派兵する余力のあった国など多くない」
「それでは既に形骸ではないか。自分達を護ってくれない相手を、どうして民が敬ってくれる? なんのために連中がブツクサと文句を言いながら、それでも税を納めていると思うんだ? 案の定、レスルートでは地方の領主どもが台頭して、中央の求心力はだだ下がりだ。馬鹿め、ギルドなどと明文化までするからだ。これであの国は将来、内乱必至だ。十年もしないうちにそれぞれ周辺国の手が伸びた地方勢力同士で、泥沼の統一戦だ! まったく迷惑にも程がある!」
「確かに我が国はレスルートと隣国ではあるが、それがどうしてお前の迷惑に繋がるのだ?」
「当たり前だろう。後になって面倒に始末をつけることになるのはこの俺だからだ」
言葉の裏に含まれた意味を察して、ウィザリムは深々と嘆息した。
「ラナハル。お前の大言壮語には乳飲み子の頃から付き合ってきたが、せめて時と場所くらいは選んでくれよ。……まさかとは思うが、レスルートでもそんな放言を口にしたりはしていないだろうな」
「言ったがどうした」
平然と言われたウィザリムもこれにはさすがに目を剥いて、思わず身を乗り出していた。
「馬、……鹿かお前は! いや違うな。今のは私の間違いだ、言い直そう。馬鹿だ、お前は!」
眉を吊り上げ、狭い馬車の中で立ち上がり、人差し指を突きつける。
目前に突きつけられたラナハルが不快そうに眉を顰めた。
「一体なんだ、急に」
「急にもなにも! 一体なんのために今回、陛下の名代としてレスルートまで行ってきたと思っているのだ。わざわざ喧嘩を売って帰ってきたのか!? これが馬鹿でなくてなんの所業だ!」
「喧嘩など売っていない。単に事実を言っただけだ。近い将来におけるな」
「それを放言と言うのだ!」
端正な容姿を大きく歪めて、はあっと吐息を漏らしたウィザリムは硝子窓に額を押しつける。
「やはり私も同行すべきだった。いや、それでも同じか……」
「その通りだ。お前が一緒にいたくらいで、この俺の言動が変わるとでも思うのか。自意識過剰が過ぎるぞ、愚か者め」
「お前にだけは言われたくないものだ、その台詞は」
眉間に皺を刻み、うんざりと頭を振る。
「もういい。……少し窓を開けていいか。気分が悪くなった」
「軟弱な奴だ」
「うるさい、開けるぞ」
「好きにしろ」
彼が枠に手をかけ、ほんの少しだけ外側に開く窓を解放した途端、
「――こ、っの世界は。間違ってる……!」
馬車の中に飛び込んできた甲高い声に、二人はきょとんと顔を見合わせた。
「なんだ? 辻説法か?」
「その類だろう。おい、よせ。急いで城に戻らなければならないのだぞ!」
ウィザリムの忠告を無視したラナハルが御者台側の壁を蹴りつけた。
緩やかに馬車の速度が落ち、停止する。
狭い窓から二人が外の様子を窺うと、少し離れた通りの角に数人の姿が集まっている。
彼らの馬車が進んでいるのは帝都を四方に貫く主要道の一つ。
しかし、平日の昼間にも関わらず人通りは多くない。
その寒々しい一画に、いかにも浮浪者じみた汚い身なりで一人が立っていた。
背たけは低い。
擦り切れた外套を深く被っているせいで、顔は露わになっていなかった。
周囲を囲む人の数はまばらで、特に盛況という様子でもなかったが、
「こ、この世界にはマナが、満ちているというが! そ……それは決して絶対でもなければ、万能でもないんだ! 我々は、もっと客観的に、マナという存在と向き合う必要が――」
所々つっかえながら、懸命さだけはわかる口調で声を張り上げている。
ひどく若い声だった。
「物乞いか?」
「それにしては難しい言葉を知っているな。学がないわけではなさそうだが」
彼らはしばらく、お世辞にも洗練されているとは言い難い論説に聞き入っていたが、
「それを――認められないのは、知ることが禁じられているんだ! わ、我々は、知ることを放棄させられている! 彼らは、我々を飼い慣らしておきたいんだ!」
と言いだしたところで再び顔を見合わせた。
顔をしかめたウィザリムが、信じられないと頭を振る。
「……なんて危ないことを。はっきりとした精霊教批判だぞ、あれは」
「面白い奴じゃないか」
反対に、ラナハルは興味深そうに口元に笑みを湛えている。
その表情を見たウィザリムが再び眉間に皺を刻んだ。
「おい、ラナハル。なにかまた良からぬことを考えているんじゃないだろうな」
「まさか。俺は至っていつも通りさ」
ウィザリムはため息をつく。
相手にとっての平常とはつまり、良からぬことを企んでいるということだ。
「いったい何を考えているのだ」
「あの物乞い。あれではどうせすぐに仕舞いだろう。場が白けて解散か、もしも盛り上がったら盛り上がったで、私刑にあって殴り殺されるのが落ちだ。阿呆だな。扇動のやり方がなっちゃない。だが、それではつまらんじゃないか。だから――」
それから耳元でいくらかの言葉を囁かれて、ウィザリムは心の底から嫌そうに相手を見る。
その表情を見て嬉しそうにしたラナハルが、
「お前が俺の頼みを聞いてくれるなら、俺はこのまま大人しく城へ戻る。爺からのお説教もしおらしく聞いてみせるさ。なんなら、右手を胸にあてて反省の弁を口にしたっていい。どうだ? 悪い取引ではないだろう」
「……理不尽だな。そんなことをしたところで、私にはまるで益がない。かと言って、聞かなければ損だけを一方的に被ることになる。とても公平な取引ではない」
唸るような言葉を聞いて、若く粗暴な皇子はどっかと勢いよく座席に尻を戻した。
傲岸不遜そのものといった表情で、ふふんと鼻を鳴らしてみせる。
「知らんのか? 王侯の取引とはそういうものだ」