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第一幕 「『非』恋愛体質」

 ――それは、さよならの始まりにある最低の言葉だ。



「ええー、させてあげなかったの!?」

汀子(ていこ)、声が大きいって」

 クライアントから再校正を持ち帰り、印刷会社に入稿を終えて、やっと取れた昼休憩――。

 会議室兼休憩室で、買い置きのコーンスープを啜りながら、帰社途中に買ってきたベーグルサンドを齧っていると、コーヒーを淹れに同僚の水守(みずもり)汀子がやってきて、一昨日はあれからどうしたのかと、にやにやしながら私に質した。


「他の人に、聞こえたらどうすんのよ。すぐそこに本人だっているのにさ……」

 私の職場は、社長とたまにやってくる、経理兼総務の怖ーい奥さんを入れて、総勢十二名のデザイン事務所。アラサーと呼ばれる年齢にもうすぐ届く私が、年下の新人スタッフ君に、勢いで告られて思わずはっ倒しました――なんてことがばれたら、気まずいったら無い。転職まで考えなきゃならないレベルの気まずさだろう。


 そんなことは考え無しに日野(ひの)の奴が、一昨日の夜中に、クライアントから真っ赤に朱入れされて、全面やり直しに近い初校からの手直しと、それに伴う校正疲れでぶっ壊れて、

颯夏(さつか)さん好きです! 滋養強壮にハグさせてもらっていいですか!」

 などと、両手を広げて抜かしやがったものだから……。私たちとは別仕事だけど、一緒に残業していた汀子に、事務椅子を転がして窓際までドン引かれてしまった。そして汀子は……、シガーケースを片手に、そそくさと事務所から出て行って、しばらく帰って来なかった。おい!


 日野佑久(たすく)は私のアシスタントだ。折り込みチラシやカタログ、ポスター、リーフレット等の製作の仕事を教えながら、オペレーターと校正と、クライアント及び印刷会社へのパシリをやらせている。

 入社したての頃の使えなさを考えると、日野の作業はうんと素早く効率よく、そしてとても正確になった。レイアウトのセンスも色使いも光るものがあるし、バクダンマークやちょっとしたカットなんかを描くのは最初から上手だったから、もうそろそろ、何かメインで持たせる仕事を割り振って、私や汀子と同じグラフィックデザイナーに昇格ってことになりそうだけれど。

 てか、一昨日みたいなことが起こるなら、切実にそうして欲しい……。見て見て、社長! 日野のこのスバラシイ成長っぷり!! 私ビシバシ鍛え上げましたよ!!



*****



 三時のおやつ時間の昼食を終えて、軽く化粧を直して、テナントビルの給湯室で愛用のマグカップを洗っていると、背後にぬうっと人が立つ気配がした。

「颯夏さん、俺――」

「わーわーわーわー」

 聞きたくなーい!!

 ぬるりと滑り込んできた日野の声に、私は濡れた両手で、耳に栓をして適当に喚いた。

「俺――のカップは、自分で洗うから……」

 子供じみた私の態度に、日野はなんだかしょんぼりしながら、ささっと避けた私と流し台の前を入れ代わって、パーカーの袖をラフに捲り上げた。現れるのはダラシナイ肉じゃなくてカッコイイ筋。引き締まった男の腕は芸術的なパーツだ。ボクちゃん実にいいモノ持ってますねえ。


「日野」

「……はい」

 あーヤダ、もう……、叱られたワンコみたいな目をして振り向くんじゃないの。ほだされてしまいたくなるじゃないか……。

 まあ、カップを洗う――なんていうのはきっと口実で、仲直りのきっかけを掴みにきてくれたんだろうし、今のままだと仕事やりにくいし、モヤモヤしたまま休みに入るのもどうかと思うし、そろそろ許してやるとするか。


「日野、あの場面で『滋養強壮』は無いわー。どう元気になるつもりだよって思うじゃない? あんなの完全にアウト、セクハラもいいとこだって気付きなさいよ。言うならせめて『疲労回復』か『栄養補給』でしょ」

 日野は、たった一個のマグカップを洗うためだけに、泡だらけにしたスポンジを握り締めて、給湯室の入口にもたれかかっていた私に勢いよく向き直った。


「颯夏さんが引っかかってたのってそこですか!? ほんじゃ今俺、あれから颯夏さんに冷たくされて凹みまくってます。栄養補給にハグしたっていいですか?」

「いや、いいわけないから。てか、泡飛ばさないでくれる?」

 どういう思考回路を経たらそういう結論に達するんだ? お願いの仕方をどう換えようと、要求自体がまずオカシイんだってわかれ、日野。


「颯夏さんのケチー」

「ケチなんじゃないの。私は自分を安売りしない女なの。一応言っとくと疲労回復でも『うん』って言わないからね。この話は、はい、おしまいっ! もう引きずるのも持ち出すのもやめにしようね。それからそう、うちの事務所のデザイナーは、簡単なコピーだって考案しなきゃなんない仕事だよ。日野は今から、その残念な言葉のチョイスを、もうちょっと頑張れるようにしておきな」

「颯夏さんのオニー」

「はいはい、オニですよー」

 日野にひらひらと手を振って、綺麗にしたマグカップをぷらぷらさせながら給湯室を離れると、喫煙場所から家政婦ならぬ汀子が見ていた。



「日野くん、かわいそー。颯夏オトコいないんだし、試しに付き合ってあげればいいのに」

「ヤダ」

 私は煙草をふかす汀子に向けて、思いっきりしかめっ面をしてみせた。

 試しって何だ? 試しだろうが何だろうが、日野となんて付き合えるか。


 ――だって私は、日野が好きだ。


 ただ単に、気の合う仕事仲間としてだとか、可愛い弟分としてだけじゃなくて、滑らかにマウスを運んで軽く叩く指先や、くっきりとした喉仏やすっと浮き出た鎖骨、眠たい時のとろんとした表情なんかに、ぐっとくるエロさを感じてしまう異性として……。あんな色気のある腕で、ぎゅっとハグなんてされてしまった日には、どうにかなっちゃうんじゃないかってくらいに、私は日野のことが大好きだ。


 だからこそ私は……、軽々しく日野のオンナになんてなりたくない。

 奴の好きを本気にして、受け入れてしまったら、その瞬間からさよならに至る針は進む――。いつか大好きな人を大嫌いになって、辛くて苦い別れを迎えるならば、最初から何も始めなければいい。



*****



「そうだ汀子、今夜空いてる?」

「何で?」

「何でって、今日汀子の誕生日でしょ? ちょうど週末だし、珍しく一緒に早く終われそうだし、晩御飯ご馳走してあげようかと思って」

「うわあ、覚えててくれたんだ! ありがとう颯夏! だけどごめん。今夜はね……、彼が都合付けてくれて、あたし彼と二人で明日の朝まで過ごす約束なんだ」

「……そっか」


 汀子の彼氏は、汀子が受け持つレギュラー仕事のクライアントだ。地元で人気の外食産業チェーンの本社宣伝部の男。

 病欠した汀子の代理で仕事の穴を埋めた時、私も一度だけ会ったことがある。見た目も人当たりも悪くない……てか、ああこれは、いかにもモテるな、汀子が落ちるのも無理無いなっていう雰囲気イケメン。だけど私は、汀子の彼氏が大嫌いだ。


「うん。誕生日は、年に一度のわがままデーだから、あたしのお願い聞いてくれるって」

「そうなんだ」

 それでも汀子が好きで、私が彼を嫌う理由も納得の上で、付き合っているものは仕方が無い。それに女の友情を保つ上で、男の趣味の一致をみないことは、とても重要なファクターだ。


「それじゃあ奢りは、また今度ね」

「ありがとう。だけど、そんな大げさにはしなくていいよ。ランチの時にコンビニでプリンでも買って」

「それでいいの? じゃあ、週明けにね」

「うん」


 もう少し煙草を吸っていく――、という汀子と別れて、私は先に事務所に戻った。

 さあもう一息。定時まで勤しもう。キリはついているけれど、やらなきゃならないことは山ほどある。

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