Ⅰ
それから数週間後。長遐に帰った世捨て人たちは、日常を取り戻しつつあった。
気付けば秋の季も半ば。世捨て人の家の周囲の木立もにわかに色気づき、赤に黄にオレンジと、次々に燃えるような色彩を競っている。
銀杏の黄、朱や橙に色付いた楓。頭上だけでなく地面さえも絶妙に染まった落ち葉で彩られ、春や夏の豊かな緑から衣替えした山は、枝葉の先にまで金糸銀糸の錦を纏っているようだ。
しかし、紅葉の風情を楽しむ暇はあまりない。幾日も家を空けてしまったため、やるべきことが溜まっていた。そして、俺を除いた二人が怪我をしていて動けないというのが忙しさに拍車をかける。
世捨て人の秋は目が回る。雪と寒さに閉ざされる冬に備え、あらゆる支度をしなければならない。家の修繕をし、薪や油を集め、保存のきく食料を栗鼠のようにひたすら地下室に蓄えた。
山菜を採り、栗や銀杏を拾い集め、遡上してきた鮭を捕まえ、たっぷりの塩に漬けて干す。野良仕事に精を出し、ふと腰を上げては、頭上を染める鮮やかな紅葉と澄んだ青空に目を奪われる。
そんな儚い寂寥の季節は駆け足で過ぎていった。
翔の怪我は順調に快方へと向かっている。それでもやはり半月ほど安静を強いられ、冬支度に携わることは難しかった。
ただでさえ人手が不足しているのに、翔という腕のいい狩猟の担い手がいないのは深刻だ。獣肉は冬の間の貴重な脂肪やたんぱく源なのである。代わりに俺が弓矢で、と思いもしたが、まるで成功した試しがない。
「皓輝くんはスコノスだから、どこにいても動物に勘付かれてしまうのですね」
ひらり、花びらを散らすよう世捨て人の主は微笑む。それ以前に俺の弓矢の腕前に問題があるように思えたが、何にせよ役に立てないことは少々心苦しかった。
コウキの一件で危うくなった世捨て人の主との確執は――少なくとも今のところは、俺の杞憂で済んでいる。彼自身、俺を責めたところでどうにもならないことを分かっているらしい。
彼は、俺がコウキに対して抱いている感情のことをどれほど知っているのだろうか。もしこの胸に秘めたものすら捨てろというのなら、俺はこの家を出ていかねばならない。
そうならないことを願うばかりである。
秋の暮れ、俺は世捨て人の主とともに庭先で大きな鍋を焚いていた。鍋には熱湯と、今秋初めて翔が仕留めた鹿の骨や内臓が、ぐつぐつと煮られている。煮詰めた出汁から鹿脂を取るらしい。
俺は縁側に腰掛け、堅果を叩いて粉にしていた。昼間とはいえ午後の陽射しに温度らしいものはなく、外気は冷えている。寂しげな秋風、乾燥した枯れ葉が足元でくすぐったそうにざわめいた。
「……白狐さん」俺はすり鉢を地道に叩きながら、さり気なさを装って口を開く。「ニィって、結局何なんですか?」
彼の白いまつ毛に縁取られた左目が、ぴくりと震えた。やはりまずい質問だったか、と冷たいものを覚えるが、やや間を置いて返ってきたのはいつもの落ち着いた声である。
「さあ……。僕もあまり分かっていないのです」
「目にする機会はなかったんですか? その、スコノスを引き剥がされたとき、とか」
「ええ、何というか」白狐さんは説明しにくそうに口籠った。「目には見えなかったんです」
目には見えない。それが俺にとって初めて耳にしたニィの形だった。そこにあるのに、ない。稀薄な存在感をもった何か。それが彼のスコノスを切り離してしまったのだと。
ニィというのはスコノスとは違い、人格的な精霊ではない。そして話を聞く限り、どうやらそれは何かしらの質量を伴った未知の物質らしい。
俺は知らずのうちに手を止めていた。たかが“目に見えない物質”ごときが、一体どういうメカニズムで人間の体質までも変えてしまうのだろう、と。スコノスを引き剥がすだけではない。“永劫に続く生命活動”なんて、到底現実のこととは思えなかった。
俺は悪足掻きのように、脳内で埃をかぶっていた知識を引っ張り出す。前にどこかの本で読んだことがあった。生き物が老いて死ぬのは、一説によれば体内の遺伝子にそう書き込まれているからなのだと。生まれながらに遺伝子に死がプログラムされているのだと。
ならば――これは憶測以上の価値を持たないが、ニィというのはその遺伝子を何らかの力によって破壊しているとは考えられないだろうか。例えばそう、体内の細胞を透過し、遺伝子破壊を引き起こす放射能のように。
最近、改めて都市伝説「血売り男」の正体が自身であることを明かした白狐さんに曰く、ニィは適合者の体質を本来あるべきところから歪め、例えば異様な治癒能力をもたらす。彼の血を使った怪我の治療が単なる輸血以上の意味を持つのはそういうことなのだと言う。
それにしても、と口を動かす俺は、ニィの物質的特徴よりも別のところに感心している。「よく自分の血を売ろうなんて思いつきましたね」
「お金が必要だったんですよ。昔は今よりも困窮していましたから」
世捨て人の主は悪びれなく、苦笑気味に肩を竦めていた。まあ、万病に効くなんて大袈裟ですよねぇ、と彼は詐欺師の顔をしている。
それは翔と出会う前のことなのだろう。彼が世捨て人になる前、どんな場所でどんな生活を送っていたのか興味はあった。しかし同時に、訊いたところで濁されるだろうという諦めもある。彼が何者なのか明かされるのは、もう少し先になりそうだ。
***
本日の夕餉は甘い味付けの八宝粥である。もち米を、なつめ、竜眼肉、はすの実、緑豆、干し葡萄、ゆり根などと蒸したもので、秋から冬にかけてよく食べられる。それから、鹿のもも肉を使った角煮。久しぶりに並ぶ肉料理に翔は歓声を上げている。
「鹿肉って旨いのか?」
「食べてみれば分かる」
生まれて初めて鹿を食べる俺は、角煮を箸で摘んでまず匂いを嗅ぎ、そろそろと口に入れてみた。まず肉らしい繊維が口の中で解けて、柔らかさに驚く。味付けは醤油と酒、生姜と香味をたっぷり添えているので臭みもそれほど気にならない。
「美味しい」一言素直に言えば、向かいから見守っていた白狐さんはほっと表情を緩めた。
脂身の少ない淡白な鹿肉は、丁寧に血抜きをして丁寧に調理さえすれば山のご馳走に様変わりする。世捨て人たちの知恵に感心する俺の傍らで、翔は勢いよく粥を啜っていた。
「皓輝くん」おもむろに口を開いた白狐さんは、何やら懐かしむような優しい眼差しをしている。「前と比べて表情が豊かになりましたねぇ」
俺は口の中のものを飲み込むのに必死で、上手く答えられない。彼は紅の隻眼を薄ら細めた。
「今でも覚えていますよ。初めてここであなたに食事を出したとき」
「……俺、何か失礼なことしました?」
「表情が死んでいる子だなぁと」
直球な物言いに最早返す言葉もなく、情けない笑みを口の端に、隣で声を上げて笑った翔を小突くことしか出来ない。あのときは緊張と疲弊と混乱で、ただ訳も分からず出された料理を口に入れていた。半年も前の記憶である。
「あのときは光もいたのに」
不意に翔があっけらかんとそんなことを言ったので、食卓の空気は一瞬止まった。その手のだらりと垂れ下がったたくあんだけが場の緊張を和らげており、俺はどう反応するべきかしばし逡巡する。
何にせよ、光という名に脳裏を洗い流されるような冷ややかさと不快な苛立ちを覚えた。
当の翔は悪意がなさそうに、むしろどこか嬉しそうに笑う。
「ああ、そういう顔は変わっていないんだな」
「悪いか」
「全然」
その飄々ぶりに肩透かしを食らった俺は、訝るように目線をやった。たくあん王子はどこか悪戯っぽく片目を瞑る。
「俺ね、お前のそういうところ、結構好きだよ」
「……」
「悪気がないって、僕らは分かっていますから」続いた白狐さんは、ゆったり茶碗に唇をつけた。「不動なところが皓輝くんの美徳であり、欠点です」
「……急にどうしたんですか、二人とも」
俺は空になった平皿を脇に押しやり、いよいよ不審がる。褒めてもどうにもならないし、そもそも彼らの言動が褒め言葉なのかも判断つかない。
食べかけのたくあんを軽く持ち上げ、翔は屈託なく笑ってみせた。
「もうさ、皓輝に変わって欲しいなんて思わないけれど……ただ俺は、お前たち兄妹が幸せであれとは願っているよ」
こつん、と小石をぶつけられたような言葉だった。そうそうと同意するように頷いている世捨て人の主を一瞥し、俺は内心で首を捻る。
幸せという単語にぴんとくるものがなかった。決して意味が分からない訳ではなく、兄妹が揃って幸せになるという翔の発想はとても斬新で、そして難解であるように思われた。
俺と光と幸福を繋ぎ止めるものが何なのか、さっぱり見当もつかない。
あれこれ眉を寄せている間に、気移りの激しい翔は既に関心を別に移していた。それはいつものこととしても、いかんせん今日は落ち着きがない。突然背筋を伸ばしたかと思えば、まるで耳を立てて周囲を警戒する猫のような仕草をしている。
「あ、ねえちょっと静かに!」
いきなり人差し指を唇に押し当ててそんなことを言うので、俺の思考も雲散霧消してしまった。
「どうしました?」と小首を傾げる白狐さん。食卓は水を打ったように静かになり、静寂の中に透明な耳鳴りが錯覚されるほどだった。つられて俺も一寸呼吸を止め、聴覚を澄ます。
「……」
「何も聞こえない」
不服が漏れたのは決して思考を邪魔されたからという訳でもないが、どんなに耳を研ぎ済ましたところでせいぜい聞こえるのは僅かな衣擦れと三人の潜めた呼吸だけ。
ところが翔は「そう、何も聞こえない」楽しげに息を弾ませた。
「こういうときは、きっとね」
そう言って椅子から降り立った翔は、颯爽と身を翻して雨戸をがらりと開け放つ。
途端に心臓が縮むような夜の冷気が足元を這うように流れ込んできた。俺は身震いする。やけに空気が冷たい。室温が急激に下がっていく。
不意に翔は、真っ暗闇の虚空を指さした。焦点の合わない鳥目で、それでも空の向こうに何かを捉えたらしい。
「ほら、雪だ!」
「嘘だろ?」
思わず、声が半ば裏返った。腰を上げて翔の隣に並び、寂寞として夜に沈んだ苔森を一望する縁側に出る。そして急かす翔の人差し指に従えば――確かに深い紺碧に塗られた頭上を、ひらひら頼りなく舞い落ちる白いものがあった。
ひゅうと風に吹かれたら消え飛んでしまいそうな可憐な花びら。色濃い闇に映えるひとひらの純白。次から次へと夜空から零れ、煌々しい星屑が静かに地上を目指しているかのようだった。
雪だ、と吐いた息はほんの少しだけ白くなる。鼻先が冷たくて、すんと匂いを嗅げば仄かな埃っぽさが口腔に染みた。
「おやおや、初雪ですねぇ」
ひょっこりと俺の肩越しから顔を覗かせた世捨て人の主は、いつもの暢気な調子で微笑んだ。ちらつく雪の風情を楽しむ素振りすら見せる彼に、「山の冬は随分と気が早い」と俺は驚きをそのまま口にする。
もしも人間界で住んでいたかつての地元でこんなに早く降雪があれば、ニュースで騒がれることは間違いないだろう。
「雪なんて年明けに降るものだと思っていた」
「標高が高いんだよ、この辺り」
宙に手を差し出した翔は、銀河のように闇を彩る雪片を掴む。俺もふと掌を広げた拍子に白いものが舞い落ち、跡形もなく溶けてしまったそれを握った。冷たい。
冬だ、と思わず声に出す。するとこだまするよう「冬だよ」「冬ですね」と二人の言葉が重なり、互いの顔を見合わせて笑っていた。
とうとう、長遐の山岳に冬がきたらしい。




