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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十九話 同胞
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 翔のスコノスは丸い目玉をぐるりと回して熟考しているようである。その腕を組んだ立ち方があまりにも翔と似ていたもので、俺はその内彼女がたくあんでもかじり始めやしないかと横目で窺ったりした。

 彼女の呈した疑問は最もである。そして俺はそれを満足させるだけの回答を持っていないというのも事実だった。

 記憶がない。この言い方が適切かどうかわからないが、とにかく俺は何も知らないのだ。俺が知っているのは、コウキがかつての主で、俺は今も彼を愛しているということ。それだけだ。


 ただし、先程気が付いたこともある。飽くまで推測の域を出ないが――記憶がなくなっていようが、数千年後の別世界に飛ぼうが、俺はコウキのことだけは無意識レベルで覚えていたらしい。

 姿形を忘れられず、遠い昔の主を引き摺り、未練が身体をつくり上げた。それが刻夜皓輝の正体だ。

 コウキに成ろうとしていたのか、或いは人間になろうとしたときたまたまコウキの姿を真似ただけなのか、定かでないが。


 人型スコノスと言っても、完全な人の似姿になれないということは目の前の彼女が証明していた。むしろ二足歩行を強いる無理な進化をしたため、骨格が歪になるともいう。

 つまるところ異様に発達した眼球であるとか鱗にも似た皮膚病であるとか、現代医学が匙を投げた俺の珍妙極まりない容姿は、コウキに化けたときに隠しきれなかった化け物の名残。そう考えれば、残念なくらい辻褄が合う。


 何故コウキから切り離されたという俺が人間界で生まれたのか。何故男と女で血を繋ぐ必要のない精霊が、人間に孕まれたのか。そして、何故宿主なしで今ここにいるのか――。

 偶然に偶然が重なって、万に一つの可能性がこの俺を生かしたのだろうか。



 夜が明け始めていた。息苦しい曇天がようやく晴れ間を見せるよう、青く白んだ薄明が窓から差し込み、俺の影を石床に伸ばしていた。

 彼女の足元には影がない。彼女にはなくて自分にはある理由を、俺はあまり深く考えない。


「……俺が思うに」


 いきなり口火を切った翔のスコノスに驚く。まだ考えていたのか、と。目を瞬かせる俺を尻目に、彼女は慎重に言葉を並べた。あまり自信はなさそうに。


「宿主から切除されたスコノスはすぐに消滅するワケじゃない。例えば主が死んだ後も、スコノスはしばらく消えずにその場に留まるだろう」


「ああ」


「それと同じだ。スコノスってのは消滅するまでに若干の時間がかかるんだ」


 それを聞いて俺の頭に思い浮かんだのは、いつだったか翔と二人で奴隷商人に襲われた山道の夜のことだった。大立ち回りを演じた翔はわき腹に傷を受け、それが徐々に凍傷となり翔を苦しめた。

 奴隷狩りの連中は既に殺されていたにもかかわらず、そのスコノスは最後の力を振り絞って主の仇敵に一矢報いた訳だ。無論、その後あえなく霧散したが。



「それで、もし完全に消滅する前に“新しい依代”を見つけることが出来たなら?」



 彼女の一言には俺をぞわりとさせるだけの力があった。それは例えば黒板を爪で引っ掻いたときのような、怖気。閃きにも似た光が瞼に散り、俺を染め上げた。青ざめさせたと言ってもいい。

 筋は通っている。説得力はあった。そして俺は、そんなことが可能なのかという当惑と、もしそうなら、と浮上する更なる疑問に苛まれる。

 新しい依代を見つけることが出来たなら――もしそうなら、今の俺は一体“何に”宿っているのだろう、と。


「理論上の話だ。実際にやってみなけりゃ分かんねえな」


 そう言って薄っぺらい両肩を竦めた翔の分身は、もうこれ以上議論を重ねても無駄と悟ったらしい。その表情には若干の失望が垣間見える。

 彼女は相当俺の存在に興味を募らせていたようだ。ご期待に沿えず申し訳ない。



 俺は明け方の寒気を深々と吸い込む。すっかり鼻に慣れてしまった潮の匂いが喉をいがらっぽくさせ、衣服と擦れ合う皮膚のあちこちが砂っぽい。疲労して頭は鈍っているのに、やけに目ばかり冴えていた。

 そして、再度翔のスコノスへと注意を向ける。

 正直俺は、彼女をどう捉えるべきか計りかねていた。そもそもスコノス同士にそう呼べる関係があるならの話ではあるが、もし仮に敵か味方かの選択肢があるのなら、彼女はそのどちらなのだろう、と。

 その悩みを見透かしたわけでもないだろうが、翔のスコノスは柵に寄り掛かるようにして緩慢に口を開く。なあ、と腫れぼったい瞼を持ち上げ、その大きく裂けた口から舌を覗かせて。



「主が二人いるって、どういう気分なんだ?」



「……その主っていうのは」どこか息が詰まるような思いで、俺は確認する。「俺の母さんと、コウキのことか?」


 その口の端をぴくりとさせ、無言の肯定。彼女の大きな瞳が人間よりも遥かに長い間隔で瞬きするのを見、俺は迷いながら暗中に言葉を手探りする。己の気持ちを心のどこに据えるべきかはっきりしない。

 どういう気分と言われても、という困惑が、差しあたっての率直な感想だった。



「……多分、どうもしないさ」


「……」


「ただ、俺にとってはどちらも等しく大事だよ。比べるものでもない。俺の世界は二人の主を中心に回っている……それだけ」



 それだけだ。慎重に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。がらがらと無残にも崩れ去った俺の人生の残骸。それでも砕けなかった大切な本心だけ拾い集め、並べている。そんな気分だ。

 そして声に出してみてようやく、俺は自分の心の動揺を多少なりとも鎮めることが出来た。

 コウキも母さんも、俺にとってはどちらも譲れない大切な主だ。そこに優劣はない。例え切り離されようが捨てられようが、片方を蔑ろにしたり片方を贔屓にすることは絶対にできない。

 俺の心が――言わばスコノスの本能が――それを許さないからだ。


 無論、母さんやコウキへの"愛"の正体を知った今、わざわざそれに縛られ続ける必要があるのかと疑念が湧かない訳でもない。

 こんな俺にも理性というものが許されるのなら、答えは間違いなく否である。彼らのために生き続けることは、俺にとって何らメリットのない無駄骨だ。合理的に考えればそんなことすぐに分かるはずである。


 ただ、真実を目の当たりにした今でも、俺は彼らのことを嫌いになれないらしい。恐らくこの感情だけが俺を形作る全てなのだ。どんなに非合理であろうと、その部分を自ら否定することだけは出来なかった。

 結局俺は、この愛に固執するしかないのだろう。



「羨ましいな」



 不意に翔のスコノスが掠れ声で漏らしたので、俺は耳を疑った。愚かと一笑に付されることは覚悟の上、まさか羨まれるなんて思っても見なかったのだ。

 一体俺のある種開き直った不自由さのどこに羨望する要素があったというのか。訝しく目元を歪めて視線を送れば、そこには思いの外真っ直ぐな目をしたスコノスがいた。


「その顔は幸せを知っている顔だ」彼女はじっと舐めるような目付きで俺を見据えた。翔によく似た、何もかも見透かしてしまう青い瞳で。「俺は、翔に愛されたことすらないのに」


「……」


「俺には名前がない。――名前すら、ない」


 ふっと俺を外し、虚空を漂う彼女の目線。返す言葉もなく、ただ俺は瞬きも忘れてその横顔に見入る。彼女の憂いを帯びた表情が翔に重なった。見えないものを視るとき、過去に思いを馳せるとき、遠くを見るときの翔の顔に。



「……でも、翔が雨の夢に囚われている限り、あいつは俺だけのものなんだ」



 辺りを低く震撼させた彼女の語尾に、初めて執着心らしきどろりとした感情が覗く。俺は鳩尾のあたりを軽く突かれたような衝撃を覚えた。てっきり翔のスコノスは翔のことを真っ向から憎悪しているのかと思っていたが、それは間違いらしい。

 愛することも、憎むことも、同じ一つの執着なのだ。今初めて、俺はそれを知った。


 気づけば俺は考えるよりも先に言葉を口にしていた。首を窄めるようにして、彼女の閉ざされた内面に注意深く手を伸ばすよう。


 翔のことが、嫌い? と。



「ああ……嫌いだよ。大ッ嫌いだ」



 吐き捨てられた言葉は酷く刺々しかった。棘どころか毒刃が仕込まれているような殺意があった。俺に向けられたものではないのに、俺は心が丸ごと抉られるような痛みを覚える。



「……俺を愛してくれない翔なんか、死ねばいい」



 はっと瞠目する。泣きそうなほどか細い声を出し、途端に翔のスコノスは小さな旋風とともに消え去った。見晴らし台から飛び降りた風に見えたので俺は慌てたが、すぐに溜飲を下げる。

 スコノスはあまり宿主と長くは離れていられない。彼女自身の言葉が蘇った。きっと彼女は実体を保てなくなり、主である翔のもとへ戻って行ったのだろう。そういえば、翔を残してきた地下牢は丁度この建物の真下だった。

 安堵したせいか、それとも俺自身疲弊の限界が訪れたのか、バルコニーの手前でへなへなと崩れ落ちる。耳にはまだ、翔のスコノスの悲痛な呟きが残響していた。


 それがお前の本心なのか、と俺は地面についた手をゆっくり両膝に乗せる。胃が引き絞られるようだった。可愛さ余って憎さ百倍、なんて世間では言うが、あの尋常でない憎悪と狂気は翔への愛ゆえなのか……。


「翔はお前を手放さなかった」


 一筋の涙を流すよう、俺は殺伐とした部屋の床にそんなことを零す。青に金色の光が混じり、夜が朝に塗り替えられる時刻。もどかしい悔しさが込み上げ、手放さなかったんだよ、と俺は小さく繰り返した。



 スコノスとはかくも厄介なものなのだろう。何と不器用な生き方をするのだろう。

 主に固執するあまりこんなにも愚かしく惨めで、しかしひたむきに。ネクロ・エグロの相即不離の付属物ごときが、どうしてこんな愛憎表裏一体に苦しめられなければならぬのか――。


 思い浮かぶのは自分のことだった。皓輝の方ではなくミライと呼ばれた方の自分だった。

 あれは、あの名はかつてコウキが俺に付けてくれたものなのだろう。どこにどんな意味が込められているのかは知らないが、か細い記憶の断片がコウキとミライの関係を浮かび上がらせるようだった。

 名前を付けるという行為は主が霊を支配する呪いであると同時に、信頼の証でもある。ゆえに、その関係が崩壊している翔は自身のスコノスに名を付けていない。名付けるに値しないと本人が考えているからだ。

 では、俺に向かって幾多の辛辣な暴言をぶつけながら、それでも最後に覚悟を決めたよう俺の真の名を呼んで「殺す」と宣言したコウキは、どういう心境であれを言ったのだろう。



 答えは出ない。ただ切り離された我が身が痛いほど切なくて、俺は空白の記憶を埋めてみる。コウキも昔はミライを愛していたのだろうか、と。







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