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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十九話 同胞
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 そこは広々とした礼拝堂じみた建物の奥、見晴らしのいい部屋だった。ゆとりあるそこは調度品もなく、貴人が寝食した部屋なのか、或いは客人をもてなす応接間なのか判断つかない。

 壁にも天井にもかつての栄華の面影が忍び、腐った垂れ幕の残骸も、すっかり幽霊の棲みかとなったこの廃墟ではまだ原形を保っている方だと言えるだろう。


 馬蹄状の扉枠を潜って踏み込んだ俺は、その瞬間から異臭を感じていた。染み付いた亡者の記憶とは一線を画す、くっきりと輪郭のある血の匂いを。

 じゃり、と靴の裏が海砂を踏む。俺は意識を研ぎ澄まし、部屋の隅々まで目を走らせた。凝った内装だ。均整の取れたアーチ窓の配置、曲線を描く柱の装飾は蛇に似ている。奥には半円にくり抜かれて一段高くなった間があり、見上げるほど高い天井には花束のような照明が釣り下がっている。


「……」


 祭壇の防御壁や見張り台、海戦に備えた砦の様相と比べ、何と不釣合いなことか。やはりこの城塞はそれなりに身分のある――恐らく“切り離し”実験のパトロンとなった――人間が、普段の生活を送る居城としての役割もあったに違いない。

 しかし、それは一体何者なのか?


 つい思考に気を取られた俺は、早くも油断をしたようだ。それが相手の思うつぼだったのかもしれない。

 とにかく背後の暗がりに囁くような獣の息遣いを感じた途端、室内にしてはあまりにも不自然な突風が巻き起こる。埃や砂利が縦横無尽に渦巻き、花束にも似た金属の照明が無残にも地面で砕け散った。


 咄嗟に背の剣を抜き放つ。目にも止まらぬ速さで衝撃が走り、怪我をした手が酷く痺れた。どうにか取り落とさなかったものの、既に腰の引けている俺は一歩下がるほかない。相手は素早かった。一足跳びに距離を詰められ、気づいたときにはもう遅い。

 衝撃や痛みを覚悟してぎゅっと目を瞑った俺は、いつまで経っても何も起こらないことを不審に思う。それどころか吹き荒れていた逆巻き風も嘘のように鎮まり、ただ生々しい血の匂いだけが鼻腔に残った。恐る恐る、片方の瞼を持ち上げる。


 初めに見えたのは、鋭い凶器の切っ先だった。ぶれるほど近い。視界の端に、地面を踏みしめる足がある。人間のものではない。猛禽の爪のように骨張り、関節の位置が不自然だ。

 少しずつ目線を上げていけば、二足直立の異形が目の前に立ちはだかっていることが分かった。体躯は俺よりずっと小さかった。

 俺は勇気を振り絞り、その顔を直視する。はっと言葉を失った。射貫かれたようだった。彼女の爛々とした強い碧眼が、あまりにも翔のそれと瓜二つだったために。



「誰を探しているの、お兄さん?」



 よく知った三枚刃の槍が喉元に突き付けられる。ただし、攻撃に備えて構えた俺の剣も相手の首に向けられ、間近で向かい合った俺たちは丁度お互いの喉首に刃を押し当てる形となっていた。

 未熟な歯を剥き出しにした凄絶な笑み。痩せているというだけではあまりに小ぶりな頭の骨格。黒ずんだ頭髪には艶がない。先の尖った耳が、大きく裂けた口が、彼女が人間でないことを教えていた。

 鳥肌が立つ。以前にも相見えた、底なしの貪欲な殺意だ。殺すために殺す不毛な狂気。同時に何やら親近感が湧いたのも事実だった。


「ス、コノス……」呂律が回らず、言い直す。「お前が、翔のスコノスか……?」


 裂け目のような口が、再び笑みの形に歪んだ。実際、確認するまでもなかった。俺の目が、肌が、五臓六腑がこの不気味な佇まいの女を“同族だ”と告げている。

 泥にまみれた生き血の匂い。人の似姿をしているのに人ならざる気迫。言うなれば抜き身の刃のような、混じりけのない殺意と死の体現――この地上で最も稀有な進化を遂げた、人型スコノスである。

 一度対面したことはあるとはいえ、その姿を見るのは初めてだった。あのときは翔の身体に憑りついた彼女と対峙したのであって、声を聞いたことすらなかった。

 ただ醜悪であるとか品がないとか、宿主たる翔がぼやいたことを思い出しては、俺は納得できるようなそうでないような複雑な心地を覚える。


 ほとんど裸に近い彼女は怖いほど痩せこけ、腰に巻かれた端切れらしき布にのみ辛うじて衣服としての体裁があった。

 やけに長い首筋。浮き上がった鎖骨。飢えた野良犬のような双眸は爛々とし、薄汚れた肌が、皮膚にちらつくカビのような羽毛が、その表情をさらに気味悪くしている。


 確かに醜いといえばそれまでだろう。しかし、同じ人型スコノスとして言わせてもらえば顔面や骨格が奇妙奇怪であるのは恐らく進化以前の動物の名残りのようなものであり、必ずしも人間の美醜の尺度で計って良いものではないように思える。

 それに、ただ一言不細工であると言われるのは案外傷つくものだ。俺が彼女に覚えた親近感とはそういうものなのかもしれない。


「考え事、してる場合か?」


 鋭い槍の切っ先が視界の下でちらつき、俺は我に返る。にたりと顔全体を歪ませた翔のスコノスは、自身にも剣先が向けられていることなど一切気に留めた様子もなく、むしろこの状況に興奮していた。

 身動きが取れない。それは俺も彼女も同じことである。このまま無為に時間が過ぎていくか、はたまたどちらかの首が落ちるかという瀬戸際に立たされたとき、呆気なく凶器を下げたのは相手の方だった。


「やめやめ。驚かせただけだって」


「……」


「安心しろ。取って食いやしねえよ」


 そう言って両手を広げる彼女はなるほど敵意こそ薄くしてはいるが、出会い頭に仕掛けられた一撃の素早さから鑑みて説得力が皆無であることは明らかだ。

 スコノスは――いや、霊というものは基本的に信用ならない。群れる人間と違って協調性に欠けるし、こちらの常識や価値観がほぼ通じないからだ。それは当然相手から見た俺も同様に映っているのだろうが、ともかく俺は警戒を解かずに一歩退いた。


「……で?」翔のスコノスは驚くほど翔によく似た瞳を眇める。「お兄さんは、わざわざ俺を探してまで、何の用?」


「……翔が、お前を呼び戻して来いって」


 俺は出来る限り平坦な声で、端的に伝言を述べる。ははあ、と大きく口を開けて相槌を打った彼女は、ふわり、そよ風に浮かぶよう俺の横を通りすぎ、バルコニーとも呼ぶべき見晴台へと向かって行った。


「何だぁ、あのバカ死ななかったのか。しぶといなぁ」


 一見するとそれは心底つまらなそうな声音だった。翔の分身である彼女は、主の翔が生きていることも当然知っていたはずである。何故わざわざそんなことを口に出す必要があるのか、俺には分からない。

 壊れた窓から舞い込んだ潮風。最早耳慣れてきた海の轟きに「死ねば良かったのに」と呪詛が混じった途端、俺の両肩は無意識に緊張する。あまり聞いていて気持ちのいい発言ではなかった。


「んで、お兄さんはそのためだけに来たワケ?」


 舞い込む潮風によって、彼女の長い髪が無重力に遊ぶ。見晴らし台には申し訳程度の柵があるとはいえ、軽そうな彼女がいつ風に煽られて落ちるのかと俺は内心で冷や冷やした。



「――いや。お前に……訊きたいことがあった」



 咳払いし、勿体ぶらずに続ける。


「ひとつ腑に落ちない。夢の中で俺を呼んだのはお前か?」


 翔のスコノスは感心した風にその目を軽く見開いた。もし彼女に人間のような眉があれば片方だけ上がっていただろう。彼女は、ははあ、と再び大きく口を開けて相槌を打った。


「俺の声が届いて何より。さすがは同胞」


「じゃあ、お前は俺を呼んで……」


「舞台を面白くするのに三枚目役も必要かなってね」


 どこか苦しそうに笑う彼女を眺めながら、俺は先日の夢の中で聞いた声を思い出す。「文字を読め」と叫んだ。それは文字占いのことだった。「もう間に合わない」とも。

 あれは随分と切羽詰まった、危機感のある声だったが、そんなこと彼女にわざわざ言う必要もないなとも思った。何故彼女が俺にヒントをくれたのか、強がってまで嘘をついたのか、知る由もない。

 それより俺は、向こうに佇む翔のスコノスの表情が思ったよりも理知的であることに驚いている。


「……お前は、ずっと知っていたんだな」ゆっくり、言葉を噛み締めて口を動かす。見知らぬ野良犬に手を伸ばすような心地だった。「俺が人型スコノスだって」


「霊の目は誤魔化せない。俺も、他の自然霊だって一発で見抜いていたさ」


 ……つまりあの春雷の日、スコノスの狂気に憑りつかれた翔と対峙した時から――いや、きっとその以前から彼女は俺が同族であることを知っていたのだ。

 さぞ虚しく滑稽だったことだろう。自身を人間だとかネクロ・エグロだとか思い込んで暮らす俺の姿は。丁度、犬に育てられた猫が己を犬と思い込んでしまうように。

 彼女はふっと笑みを消して、視線を外す。その腕に疎らに生えた羽毛が風に靡いた。


「みんな知っている。お兄さんはこの世にいちゃいけない存在だって。自然霊も、野山に棲まう鳥も獣も」


 この世にいちゃいけない存在。声に出してみる。思いの外、ずっしりと心に響く言葉だった。

 翔のスコノスはその肩越しに見える乱れた海面をつまらなそうに眺めていたが、やがてその青い視線をこちらに傾ける。



「お兄さんは納得しているの?」


「……納得?」


「自分の正体に、さぁ」



 外側に備え付けられた柵に肘を突き、彼女は片目を眇めた。「だって、ハイそうですか、って流せる話じゃないでしょ」


「まあ確かに」


 軽く首肯した俺に、翔の分身は怪訝そうにしている。彼女の言い分は最もだった。しかしながら、存外俺の心は凪いでいるということも事実だった。

 そりゃあ確かに、あの瀕死で傷だらけの翔にそう告げられた時は衝撃だった。にも関わらず思いの外すぐに動揺が過ぎ去ったのは、それ以上に惹き付けられるものがコウキにあったのだろう。考えるよりも先に行動させた本能が、これから俺の行くべき道を示してくれた。

 少なくとも、今は納得している。時間が経つにつれて悩まされることも多々あるだろうが、それはその都度考えればいい。



「んじゃあ訊くけどさぁ」翔のスコノスは嘲笑し、後頭部に痩せた手を重ねる。「自分の人生が紛い物だってことに気づいてる?」



 は、と短く息を吐いた俺は、一拍置いて困惑した。「どういう意味だ?」と。


「その様子じゃ、翔は何も言わなかったみたいだな」


 やや勝気な風の彼女に言い返す言葉もなく、俺はただ間抜けな顔を直すことしか出来ない。夜明け前の澄んだ空気が頬を撫でる。翔のスコノスはその痩せこけた腕を軽く持ち上げた。


「俺たちスコノスは宿主がいなければ存在することすら出来ない。だから主に執着する本能のようなものが最初からあるらしい」


「それは聞いたが」


 彼女はにたりと笑みを深め、自身の側頭部を指でとんとん叩く。「それだけ?」


「え?」


「翔が話したのはそれだけかって訊いてんの。どうせあの臆病者のことだ、お前に気を遣って言えなかったんだろう。お兄さん知ってる? 鳥の刷り込みってやつをさ」


「刷り込み……?」


 意図を計りかねて眉を顰める。脳裏を過ったのは、鴨の雛が母鴨の後ろを行儀よく列になって歩いている光景だ。

 卵から孵った鳥類の雛は、最初に見た動いて声を出すものを親だと思い込む習性があるという。例えそれが本当の産みの親が否かなんて関係なしに。それが刷り込みだ。



「そう、それと同じだよ。雛鳥が親と認識したものを必死に追いかけるように――例えそれが本当の主かどうかなんてお構いなしに、本能が決めたことに逆らえず、間違っていると気付きながらもただ一人の女のために愛を捧げたことが、お兄さんにはあるんじゃないの」


「――……」



 俺は口をつぐんだ。突れたくないところを突かれた。そんな痛みを覚えた。彼女が誰を想定しているのか俺はすぐに分かったが、声に出すのはしばらく時間がかかった。次に出た言葉は、蚊の鳴くように情けなくなる。


「母さんのことか?」


「……」


「母さん……」


 力なく肩を落とし、俺は死んだように呟く。押し殺した声は俺自身の内面に響いた。叩かれた鐘の中にいる気分だった。

 逡巡し、せめてもの抵抗と開いた口はただ苦い粘液をもよおし、吐息をつくのが精一杯。幾度か唾を飲み、唇を噛む。残念ながら、彼女の確信めいた問いに対する答えを俺は持っていた。



「――多分、お前の言っていることは当たっているよ」と。



 認めてしまえば呆気ないもので、自分の人生ががらがらと音を立てて崩壊していく無常を成す術もなく見守る他ない。反駁するどころか、俺は薄々己で勘付いていた節さえある。

 マザー・コンプレックス、なんて生易しいものじゃない。母さんへの過激な愛。献身という名の拘泥。自ら認めているよう俺は彼女を愛しているが、今にして思えばあれも明らかにスコノスの習性の一環だと。主に――正確には主と認知したものに愛を捧げ、依存し、執着する。そんな抗いようのない本能が、俺の中に生来あるのだと。

 そう言ってしまうのは簡単だったが、認めるのは容易ではない。俺の十六年間の人生は一体何だったんだ。他でもない自分が選択したと思っていた信念の道も、所詮は本能に支配された一本道に過ぎなかったなんて。


 翔が敢えてこの話を俺にしなかったというのが事実なら、その気遣いの意味もここで砕け散った。今の俺は崩れ去った人生の残骸を、無様に立ち尽くして一望するほかない。



「お兄さんはあらゆる意味で例外だ。多分、お兄さんみたいな運命を辿ったスコノスは他にいないだろう。……だから俺もはっきりとしたことは分からないけど、生涯一人の主を定めるはずのスコノスが、記憶を失くしたときこういうことが起こるんだ」



 こういうこと。つまり、主が二人併存するという奇妙な現象が。前の主を忘れたとき、新たな主を無意識に求める。スコノスにとって主の存在は生きていく上で必要不可欠だから。

 人間界で生まれ落ちた俺の潜在意識は、初めて目にした人間――恐らく幼少の自分と最も関わる機会の多かった母さんを――生涯の主だと“勘違い”したのだ。半ば強引に、愛を捧げる相手を“作り出した”のだ。 そうでもしなければ生きていけない程に、この依存本能というやつは深刻らしい。


「ただ、主といっても宿主とは違う。飽くまで母親は刷り込みによる勘違いが生んだ主だ」


「宿主とは違うって……どういうことだ」


「読んで字の如く」翔のスコノスは思いの外賢そうに瞳を傾ける。「二番目の主には、宿っている訳じゃない……」


 ご存知のように、スコノスは宿主とあまり長く離れてはいられない。ところが人間界とここじゃ距離がありすぎるし、お兄さんがこちらに来てから半年も経った。もしお兄さんが母親に宿っているのだとすれば、この気が遠くなるような距離に耐えられずとうの昔に消滅しているはずだ、というのが彼女の弁だ。

 言葉がぐるりと脳を巡ってぐちゃぐちゃと混ざっていく。俺は思わずこめかみを押さえた。



「つまり、待て……混乱してきた」


「俺も混乱してきた」



 薄暗い石造りの一室、スコノス同士が情けない顔を突き合わせ、思わず変な笑いが出る。何だか俺は眩暈を覚えた。自分という存在がどんどん遠ざかっていくようだ。

 目を回す俺を見兼ねてか、翔のスコノスは両手を指揮者のように振ったかと思えば、仕切り直しをしてくれる。



「お兄さんは最初の主から切り離されて消滅するはずだった」


「そうだな」


「俺が訊きたいのは、じゃあ何で今ここにいるのか、という話」








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