Ⅱ
俺は時折、この翔のことが恐ろしくなる。
浅はかなたくあんだと侮っていると、裏で如何に多くのことをしていたか明かされたときに驚き呆れる羽目になる。その思考は常に俺の二歩も三歩も先を行くのに、ひけらかすことをしない。翔は卑怯なほど本心を隠すのが上手かった。
思えば、高校受験の件も俺の正体も、真っ先に指摘したのはこの翔である。「俺とイケメンで共謀していたって話、聞きたい?」と半笑いで問われたとき、俺は再び翔が得体のしれない生き物に思えて戦いた。
このたくあんは、この期に及んでまだ何か隠し事をしていたというのか。その心の覆いを何枚剥がせば本心に辿り着くのか――正直聞きたくなかったが、逆に黒い好奇心がむくむく沸いたのも事実である。
結局首を縦に振ったのは、翔がイケメンとあだ名する俺の主人の存在があったかもしれない。翔が拉致された後、コウキとどんな経緯を経て“共謀”するに至ったのか、興味があった。
「騙すつもりはなかったんだ」開口一番、翔は弁明から始める。「俺が何をしたところで結果は変わらないと思っていたしね」
言い訳をするのは後ろめたさのある証である。怪我人相手とはいえ俺は翔に対する疑心暗鬼の方が勝っていたので、非難とほぼ同義の穿った視線を送った。翔は鼻の上に小さく皺を寄せる。犬のような表情だった。
「今になって怒らないでよ」
「俺がどうするかはお前の話次第なんだ」
俺に急かされ、幾度か深呼吸をするような仕草をして、翔はようやく話し始める決意をしたらしい。
「何のためにコウキが俺を生かしておいたか。どうしてお前が来るまで俺を殺さず干物みたいに放って置いたか、分かるか?」
「……いや」分からない。強いて言えば俺をおびき寄せるための生餌役といったところだろうか。低く呟けば、翔はあっさりと肩を竦めて否定する。
そうして明かされたのは、全くの想定外で且つ下らない話だった。
「コウキは、お前が怒るところを見てみたかったんだってさ」
「……は?」
間抜けな声が飛び出るのも仕方ないほど、突拍子ない……。俺は瞬きして懸命に気を落ち着かせる。しかしなかなか飲み下すのは難しかった。
たった一人、この俺を怒らせるために、ただそれだけのために翔はあの男と共謀したというのか――こんな大掛かりな舞台まで用意して。
訳が分からない。俺は力なく首を左右に振る。理解が追い付かないあまり、声からあらゆる感情が抜けた。「何のために」
「あのイケメンは、自分のスコノスがどういうときに本性を剥き出しにするのか熟知していた」
どういうことか。翔は勿体ぶるでもなく、ただ野生動物の生態でも紹介するような抑揚の失せた解説を続ける。
曰く――古来より信じられているよう、雷は怒りと落星の体現である。それを体質として司る俺が、頭に血が上ると意識が混濁するのもまた自明の理。どうしようもなく制御できない怒りに駆られたとき、俺は厳つ霊を発現していっとう狂気のスコノスらしくなる。
心当たりがない訳ではなかった。かつて世捨て人の主は、俺がスコノスの力を露わにするときは命の危機に瀕したときだと指摘したが、それは大抵俺が激情に囚われて我を忘れているときでもあった。中学一年の時に気に入らない同級生を殴った時もそうだった。
どうやら俺は怒ると“化けの皮”が剥がれるらしい。
「――で、まあ俺はその呼び水ってこと」
「俺を、怒らせるための……?」
「そう。もちろん理想世界の一員にならないかと誘われたのは事実だよ? でもそれだけじゃなかった。コウキは、俺が理不尽なくらいボコボコにされたら、“当然”お前が怒ると踏んだ。それでお前を怒らせて、本当に自分のスコノスかどうか端的に確かめようとしたんだ」
滑らかな口ぶりで語る。翔はさすがに少しばつが悪そうでもあった。騙すつもりはなかったとのたまうが、試すつもりではあったらしい。「お前をここにおびき寄せるための生餌でもある訳だし、お前が来る前に殺しちゃまずかったんだよ」
「……」
馬鹿げてる、とやっとの思いで声に出す。翔は答えなかった。先程の祭壇、あんなに切迫した応酬にそんな茶番劇が仕込まれていたなんて、試されていた俺からしてみてもいい気分はしない。
確かに傷だらけの翔が現れて俺がえらく気を動転させたとき、コウキは俺の一挙一動を注意深く観察していたような気もする。今更ながらあの意味ありげな視線の真意に気付き、足場を切り崩されたような心地になった。
「それで、協力したのか」つい憮然と口を尖らす。自分が殺されるかもしれない状況なのに、と。
この腑に落ちない感情がほぼ八つ当たりに変換されていることに俺は勘付いていたが、大袈裟なシナリオに組み込まれた立場として多少の文句を呈する権利はあるように思えた。
翔はやはり少し気まずそうに両肩を窄め、「俺だってお前の素性に興味はあったし」と再び言い訳じみたものを口走る。
「好奇心はたくあんを殺すんだよ」
「俺の知っていることわざと違う」
「まあ、どうせイケメンの目論見は外れたしな」
その通りである。俺は動揺こそすれ、化けの皮が剥がれるほど激怒するには遠かった。それどころか翔が痛めつけられたことに関して怒りを露わにしたのはむしろ白狐さんの方で、あのときのコウキが彼をぞんざいに扱った態度にも頷ける。
きっと、お前じゃない、とコウキは苛立っていたのだろう。その後の死闘も所詮は茶番の延長線。煮え切らない俺の態度に痺れを切らしたコウキは翔を海に投げ落とすという暴挙にまで出たが、結局俺が漏らしたのは怒りではなく「愛してる」の一言である。
「ほら。お前は、スコノスだからさ」
翔は再び、含みのある嫌な言い方をした。意味を計りかねて眉を顰めれば、その口許には疲れた笑みが貼りついている。俺の眼が見開かれたのは、次の言葉だった。
「スコノスはさぁ……習性っていうか、ある本能みたいなものが生まれつき備わっているんだ。例えば尚武の気風に富むとか、血に対して異様に興奮するとか――宿主以外の世界のすべてに関心がない、とかね」
俺は相槌を打つことも忘れ、ただ呼吸している。そんな話初めて聞いた、という感想は言い損なった。肺が収縮するたび、自分の中にある心が、なけなしの人間らしさが押し潰されていくようだった。
だって考えても見ろよ、と俺のことを見透かすように薄く笑った翔の本心が読めない。
「社会を形成して集団で生きていく人間と違って、スコノスは宿主さえいれば生きていくことが出来るんだ。家族とか、友達とか、恋人とか、そんなもの必要ない。だから周囲に興味を示さない。主以外なんてどうでもいいから」
「……」
「だからお前は大切な宿主が傷つけられたときは怒るけれど、それ以外の――例えば俺なんかがどんな目に遭おうが知ったこっちゃないのさ」
そうだろ? 突き放すような言い方に、今まで翔と俺の間にあった空気のようなものがぱちんと弾けて消えた。不意に真っ暗な無重力空間に置き去りにされたようだった。
何か言いかけた俺は、やがて緩慢に口を閉ざす。人型のスコノスをその身に宿した翔の言葉には真実味があり、説得力があり、反駁の隙を見つけられない。俺に出来るのは、ただ込み上げる感情を口の中に閉じ込めることだけだった。
「お前は怒らなかったよ。俺が傷つけられたのを見ても、怒らなかった。つまり、そういうことだ」
そうじゃない――という反論が咄嗟に出来なかったこと。それが全ての答えだった。ああ、そう。そうか。やがて俺は翔の言わんとしていることを察する。力なく伏せた目はただ己の握った拳を凝視した。
コウキと対面した時から俺はおかしかった。自分が自分じゃなくなるような錯覚。全身の五感が、関心がコウキの一点に集中し、それ以外の音も匂いも消え去った。世界のあらゆるものは、コウキを前にして何の価値もない物として切り捨てられ――例え白狐さんが半殺しにされようが翔が海に落とされようが、目もくれずに。
俺にとって、彼らは「その程度」の存在なのだ。所詮、コウキに比べれば砕ける心はこれっぽっちもなかったのだ。
何故なら、俺がスコノスだから。
愕然としたのは、それを他でもない翔に指摘されたせいだったのかもしれない。己の言動の極端さは――例えば罪悪感の欠如だとか、良心の薄さ、特定の人物に対する異常な依存癖――そういったものは概ね把握しているつもりだったし、今更気にすることもないと開き直っていた。そのはずだった。
翔にだけは言われたくなかった。俺は、翔にだけはそんなことを言って欲しくなかったのだ。お前にとって俺なんかどうでもいいんだろ、なんて、底のない谷間に突き落とすようなことを。
例えそれが否定しようのない事実だったとしても。
いや、これはただの甘えである。翔に対する俺の驕りだ。今までだって翔の心が広いのをいいことに散々好き放題言っておいて、今更突き放されて傷つくなど……。
俺は無意識に唇を噛んでいた。血流が止まるほど強く噛んで、詫びる言葉を探していた。今までの粗忽な振る舞いへの謝罪か、これ以上翔に距離を置かれたくないという恐怖か、分からない。ただそれはとても、スコノスらしくない感情であることは確かだった。
がん、といきなり背中に固い衝撃が走る。何が起こったか分からず、しかし上手く振り返ることが出来ない。俺のうなじに湿った髪の毛が触れ、それが翔のものだと知る。
翔は俺の曲がった背に凭れかかり、顔を見せることも許さず、先程とはまるで違う叫ぶような調子で言い放った。
「知ってたし」
その声は、古びた石壁にぶつかって砕けた。耳の奥で幾重にも残響する。「お前がスコノスだって、俺は知っていたんだよ」
「それが何だってんだ」
「……」
「友達だって、言ったじゃないか」
意味を理解するのに時間がかかった。俺はゆっくりと瞬きする。言い知れぬ人間の温度を感じた。背中越しに触れ合う体温が、芯まで沁みていくように。
翔は知っていたのだ。俺がスコノスだととっくに知った上で、それでも夏至祭のあの日に――何の躊躇いもなく。
「例えお前にとって俺がどうでもいい存在だとしても、皓輝はたった一人の俺の友達なんだよ。文句あるかちくしょー」
がん、と再び衝撃。翔が背中合わせのまま器用に頭突きをしてくる。痛いよ、とこぼす。痛い。胸が、締め付けられる。
翔の表情は窺えない。ただまるで不貞腐れた子どものように後頭部を擦り付けてきて、砂や汚れが一緒になって押し付けられるのが、また何とも言えずくすぐったかった。
「大抵の愛は一方通行だって、そう言ったのはお前だろ」
「そうだっけか」俺の乾いた唇は、いつしか苦しい弧を描いている。「お前は、いい奴だな」
本当にいい奴だ、と続けた。「優しくて、人を見る目がない」と。
「寛大なたくあん王子を侮辱するなよ」
「はいはい王子様」
背中に圧し掛かる翔の体重を、俺は背筋を伸ばして受け止める。言い知れぬ切なさで胸が一杯になった。
ああ、翔が俺を友達という名前で呼んでくれることで、今の俺がどれだけ救われたか、翔は知っているのだろうか? 許された、という安堵は不思議なほど心地よく、らしくない涙が滲むほどだった。
それがいいことなのか悪いことなのか、今は考えないようにしよう、と目を瞑る。
大きく息を吸い込んで、しばらく二人揃って沈黙する。くぐもった風の音が聞こえても、もうそれほど寒くはなかった。例えそれが錯覚だとしても、今はいい。少しくらい現実から目を逸らしたって、今は許される。そんなように思えた。
「……たくあん食べたいなぁ」
ようやく口を開いた翔は、ため息混じりにそんなことを呟く。力の抜けた身体が、虚脱感が俺の背に圧し掛かってきた。
「家に帰りたい。……白狐さんのご飯が食べたい」
「帰るさ」
励ますようにその右手を軽く叩く。爪がない。こびり付いた血のざらついた感触が残った。
コウキと対峙したときの切迫が翔の演技だったとしても、この全身に刻まれた傷跡は紛れもない本物だ。拷問じみた暴力で脅迫されたことは決して嘘などではないのだろう。
俺は翔の背もたれとなっていた己の角度を斜めにずらした。ずるり、と崩れる翔を受け止めて、横向きに寝かす。少し休んでいいぞ、と顔を覗き込めば、思ったよりも青ざめた翔の面持ちがそこにあった。
「長遐に帰ろう。白狐さんも手負いだし、時間はかかるだろうが」
そう励まして翔に改めて外套を被せる。なおざりになっていた焚火に木をくべた。
じきに夜が明けるだろう。長い、長い一夜がようやく終わる。陽が昇ったら長遐へ帰る支度をするだろうか。それまでに、世捨て人の主が立ち直っていればいいのだが。
大人しくされるがままになっていた翔は、やがて真っ直ぐな碧眼を俺に向けてきた。なあ、と。
「ちょっと頼みがあるんだ」
「頼み?」
「そう、お前にしか出来ないだろうから」
きょとんとする俺に、翔は神妙に頷く。「あれを呼び戻してきて欲しい。さっき海に落とされてから、ずっと離れたままなんだ」
その言葉の意味を理解するのにそれほど時間はかからなかった。二つ返事で承知した俺は、埃っぽい地下牢跡に翔を残し、通路の薄闇に足音を忍ばせる。
砦城内は暗澹と冷たく、恐ろしさと死臭に満ちていた。亡者の呻きとも区別つかない、ひゅううという甲高い風切りが耳元を掠める。足先を駆ける鼠。しめやかな靴音と浅い呼吸が混ざり合い、暗闇に目が慣れるに従って皮膚感覚も鋭敏になる。
しかし、俺の心は灯のように温かかった。先程胸を満たした感情が生きているようだった。例えスコノスでも、例え友達を知らなくとも、そんなものどうでもいいじゃないかと軽々吹き飛ばしてしまった相棒のために、何か一つくらい俺も役に立ちたいと思った。
目指すは要塞砦の西側の区画。姿は見えずとも、視覚を瞑れば弱った蛍のように点滅する仄かな気配を感じた。透明な糸がある。以前感じたものよりも遥かに鮮明な共鳴の糸が。
慎重に慎重に。俺は注意深く瓦礫の山を乗り越え、周囲に視線をくばる。いつあの三枚刃の槍の穂先が飛んでくるか分からないのだ。




