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明後日の空模様 長遐編  作者: こく
第十八話 祭壇の戦い
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 ハッハッと舌のはみ出た口元から唾液が垂れる。貪欲で空腹な獣がしきりに匂いを嗅いでくるので、俺は気が気でない。それでも噛み付こうとしないのは、まるで主人にお預けを命じられた忠犬のようだった。

 少年の冷ややかな灰色の目は曇天を思わせる。発達途中の身体はどちらかといえば細身で、使い込んだ道具の柄のように、よく馴染んだ薄い筋肉がついていた。小柄な背丈に見合わぬ、どこかくたびれて薄汚れた佇まいが奇妙だった。

 左肩に乗せた蠢く真っ黒な生き物は、二枚の皮膜を翼のようにして夜空を羽ばたく鼠の悪霊、寓である。蝙蝠に似るとも評される小さな獣、この目で見るのは初めてだった。

 身動きの取れない俺をつまらなそうに一瞥し、彼は正面のコウキへと歩み寄る。


「俺の力が必要か?」


「……」


 孑宸語ではなかった。海の向こうの大陸で使われる、西系言語である。馴染みのない鼻にかかったイントネーションが気にかかった。しかし、何故だか俺は、少年の言うことの意味を朧げに掴むことが出来たのである。

 それはほとんど推測に近く、きちんと理解しているかは疑わしかったが。


「エディか」コウキもまた、西大陸の言葉で返した。それが少年の名らしかった。「見ていたのならば、加勢くらいしたらどうだ」


「必要ねえだろ。あんなゴミクズども相手に」


 口汚く唾を吐き、エディという少年は目を閉じる。その肝の据わった態度に、貫禄に、俺は彼の中身と容姿の年齢に錯誤があるのではと考えた。

 よく見れば少年が身にまとっている黒い制服のようなものは、コウキと揃いである。イダニ連合国の軍服なのだろうか。詰襟に胸の装飾が五つ並び、ふわりと長い裾丈は膝まで。ブーツとも呼べそうな長靴の踵はコウキのそれよりやや高い。

 まじまじ眺めたのが気に障ったらしい。少年の指先が無造作にそれとなく合図した、かと思えば優に俺の体重の二倍はあろう豻の巨躯が一気に圧し掛かり、牙の隙から生暖かい息がかかる。

 うっと呑んだ息、恐怖のあまり悲鳴すら出なかった。ばくばくと心臓が早鐘を打ち、間近で唸る悪霊への恐怖で身が縮む。足は竦み、蹴り上げることもままならない。

 このエディが遺跡に豻や寓を呼び集め、操っていた悪霊使いのようだ。そしてどうやら、俺の命は彼の掌の上にあるらしい。

 彼の濁った目が、豻に押し倒されている俺を捉えた。先程より長く、そして怪訝そうに観察している。顰めた眉は不愉快そうだ。隣のコウキに向けて口を開く。


「……あれがお前のスコノスか?」


「ああ」昔のな、とコウキは小声で付け加えた。


「何ともまあ……」


 呆れたよう何か言いかけたエディを、コウキは遮る。「今は俺に化けているのだ。本当はもっと違う姿をしている」


「何にせよ、醜いな」


「今、遠回しに俺のことも醜いと言ったか?」


 ふん、と鼻を鳴らした少年は踵を返し、俺の方へと歩み寄った。踵のある革靴が石床に反響する。鼻面を上げ、尾を振った豻を無視し、じっとこちらを覗き込んできた。


「抵抗しねえな。人型スコノスってのはもっと強くて凶暴なものだと思っていたんだが」


「個体差だ」コウキは俺のことを語るとき、決まってばつが悪そうな顔をする。「暴れると面倒なのは他と変わらん」


「俺の敵じゃない」


 エディの言葉は自信に満ち溢れている。何にせよ、彼が悪霊使いであるならばこの重たい独角獣を俺の上から避けて欲しかった。獰猛な捕食者の目をした豻がずっと噛み付きたくて仕方ないと言った様子で牙を剥いてくるので、まるで生きた心地がしないのだ。

 ふっと肺の辺りが軽くなる。気持ちが伝わった訳でもないだろうが、少年の合図により豻の前脚が俺の胸から降りた。後ろ脚がそれに続き、鉄を食らう猛獣はまるで訓練された犬のようにエディの元へ行く。

 重圧と恐怖から解放された俺は、胸を撫で下ろして上体を起こした。

 同僚らしきこの少年が加勢したことで、コウキの気持ちにも余裕ができたらしい。俺と二人きりの時に見せたあの動揺は、少なくとも今は鳴りを潜めている。豻の背を軽くたたくエディを窺い、意味ありげに彼と視線を合わせていた。

 脚が竦んで立ち上がれない。彼らから逃げようという頭は全くなかった。俺が恐怖を感じているのは相も変わらず空腹に唸る凶悪な独角獣と、時折威嚇じみた喚き声とともに耳元を掠める寓だけである。

 彼らは一体ここで何をするつもりだったのだろう。ただ翔を虐げ、見せしめにするにしては大掛かりだし、白狐さんに用はなかったらしい。仮にこの俺にわざわざ会いに来てくれたのだとすれば、喜ばしいと思うべきか……。


「ああ、そうだ」


 どこかわざとらしく仰々しいコウキの口調。面を上げればその足先は既に俺の方を向かず、別れ際にふと思い出したような恰好である。その体勢すら芝居がかって見えた。

 俺はじっと耳を傾ける。視界がぼやけて白み、どうやら貧血を起こしているらしかった。


「お前の妹は預かっている」


「いもうと?」


 面食らった。あまりに目の前のことに夢中になりすぎて、俺は己に妹がいたことなど今の今まですっかり忘れていた。


「約束しただろう。探すのを手伝うと」


 当然の顔をしてのたまう彼は、なるほど確かに誠意のある男らしい。「だが、ただで帰す訳にはいかない」と俺に寄越す視線は冷たかった。


「妹を返して欲しくば――次に会う時に、代償としてお前の首を差し出せ」


「次に会う時?」首を要求されたことについては、俺はほとんど聞いていない。「今じゃないのか?」


「今は、まだ」そこまで口にして、コウキは言い直す。今回やるべきことは概ね終えた、と。


 やるべきこと、つまり彼らはやはり何か目的があってここに来たのである。それが何か、俺には分からない。


「何故、今俺を殺さないんだ」


 己の口から吐かれた言葉は挑発のようだ。心のどこかで、コウキは俺を殺すことが出来ないだろうという確信じみたものが芽生えていた。ただの驕りかもしれない。俺はコウキの何もかもを知っているようにさえ思えた。

 彼は振り向き、やや勿体ぶった調子で言葉を紡ぐ。


「来るべきときが来たら――もし、トキヤヒカリを助けたいのなら」


「光のことなんか、どうでもいい」お前さえいてくれたら。そう言いかけたのを、口の中で訂正した。母さんもまた、コウキと等しく欠いてはならない。そのための光である訳だが。


 発言を遮られ、呆気に取られていたコウキを、少年がつまらなそうにからかう。


「さすがはスコノス。主以外にはとことん興味がねえんだな」


「“元”主だ」


 彼相手にもコウキは拘り抜く。何としてもこの俺が己の半身であることを認めたくないらしい。その徹底ぶりは頑固を通り越し、いっそ意固地な子どものようである。

 すう、とコウキは息を吸った。居住まいを正し、武芸の達人が精神統一するようだ。その力強い金の眼差しが俺を見据える。

 覚悟を決めた目だった。彼の唇が動く。


「――」


 いきなり、稲妻に打たれた。それは何気ない一言だったが、俺の根底を揺らがせる重たい一撃となって鼓膜を貫いた。

 束の間、息が吸えない。全身を駆け巡ったものは、紛れもない歓喜である。コウキの口からこぼれた三つの音が脳内で反響し、例えようもない高揚感となって共鳴した。

 それは、俺の真の名だった。他の人間が口にすることは許されない、他でもないコウキが俺につけた名前である。

 遥か昔のことがまるで昨日のように脳裏を鮮やかに彩り、すぐに忘却の彼方へと消えた。それでもそれが俺の名であるという事実だけはしっかりと胸に刻まれる。

 もう二度と忘れまい。俺は己の根底で眠る過去の記憶がフラッシュバックする奇妙な体験より、どうして今まで何もかもを忘れていたのかと、むしろそちらを不思議に思った。

 彼の視線が俺に注ぐ。それが先程よりも確たる意志に基づいた目をしていることに俺は気付いた。ぱさついたまつ毛に縁取られた双眸。黎明の朝焼けのような瞳孔に、見てくればかりはコウキに似せた醜い化け物が映っている。

 ああ、そうか。夏至祭のあのとき、彼が不自然に俺の名を訊こうとしたのは、そういうことだったのか――。


「お前は、俺が殺す。――必ず」


 どす黒い決意を滲ませ、コウキは唾を吐き捨てる。背筋に氷を当てられたようだった。或いは、骨の芯まで凍り付くようだった。

 彼はもう夏至祭の日のように視線を彷徨わせることなく、この化け物の姿をしかと目に焼き付ける。戦慄が全身を駆け、相変わらず怖いとは思えなかったが、さしもの俺も気圧されて黙った。

 この俺を消さなければ、彼の理想世界の夢を実現することは不可能なのだろう。そう悟った途端、胸がきりきりと締められて窒息するようだった。コウキの生きる世界に、もう俺は要らないのだろうか。

 本当にそうだろうか。


 空白があった。不意に海の潮騒が地面で砕けた。


 我に返る。夢から醒めたように。

 ――いつしか、俺は祭壇の遺跡の端で独りぼっちになっていた。

 脚が萎えている。放心気味に周囲を見渡せば、彼らの姿は跡形もない。忽然と消えてしまったかのように、悪霊一匹見当たらなかった。

 それがニィの瞬間移動のなせる業なのか、単に俺の意識が遠のいていただけなのか……判然としない。

 焼けるような激痛を感じた。いや、それはずっと俺の手の中にあったのに、コウキたちに気取られるあまり痛覚も忘れていたというのが正しい。

 掌を見やれば、右手は毒々しいほど鮮やかな真っ赤で染まっている。二筋の切傷が土埃に汚れ、流血は滝のように足元まで濡らしていた。

 素手で剣を受け止めたのだから、指が全部残っているだけましと思うべきだろうか。一体どうしてあんな芸当が出来たのか、さっぱり分からない。生々しい裂け傷から、温かい鮮血がとめどなく溢れ出ていた。


「……コウキ」


 気づけば俺は喉を震わせている。貧血気味の頭を一杯に埋め尽くしていたのは、やはりあの男のことだった。

 言うなれば前世の因縁だろうか。記憶がほとんどないにもかかわらず、俺は一目見たときから彼が己の主であると確信した。名を呼ばれたことが嬉しかった。あの澄みきった無垢な瞳が狂おしいほど愛しかった。

 そして、「次に会った時は殺す」と告げた背は、物言えぬ寂寥と空虚に満ちていた。

 空を仰ぎ見る、月。未だ沈まぬ丸い光は、そこだけくり抜かれた穴のようでもある。

 闇の貼りついた空は天井のようにのっぺりとし、立体感がない。頬を打つ風と荒れ狂った潮の轟音が、時が止まっていないことを教えてくれる。

 ふ、と。文字占いを思い出す。「未だ来ず」――この一文の意味だけは、どうしても分からなかった。だが、答えは初めからここにあったのだ。

 これは、俺の名である。

 一音一音を確かめるよう、俺は声に出して発音した。風が、俺の声を千切って攫った。



「ミ、ラ、イ」



 唐突に、俺は胸にこみ上げる切ない塊を呑み込みきれず、遥か西大陸の空に向けて吼えた。耳を劈くほど甲高い叫びは既に人のものではなく、精霊のものである。長く尾を引いた咆哮は逆走する稲妻の如く、遥か天を、海原を駆けた。


 俺が俺である限り、この愛しみが潰えることはないのだと知った。




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