Ⅳ
「ああ、そうだ」コウキはほぼ即答だった。適当に返したというより、予め用意しておいた答えを投げつけたかのようだ。「それが俺の選んだ道だ」
白狐さんの構えた刀の切っ先が僅かにぶれる。怒りが彼の手を小刻みに震わせていた。
「天に誓って言えますか」
「俺は天など信仰しない」
「ならば這い蹲って地でも拝んでいなさい」
そう吐き捨てた世捨て人の主を鬱陶しげに横目で流したコウキは、太刀が己に向けられていることにも全く関心がなさそうに、夜更けの満月を振り仰いだ。「……何かを変えるためには犠牲がつきものだ。そう思わないか?」
「笑わせないでください」白狐さんが苛立った声を出す。その響きはささくれ立った樹皮を思わせた。「無数の屍の上に成り立つ世界の成れ果てが、真に理想なのですか」
荒れた波が足下で砕ける。月は、徐々に水平線へと引力によって傾き始めている。西に近付くにつれその蜜に溶けたような輝きはいや増し、救世主の輪郭を淡くぼやけさせた。淀んだ黒雲が闇の貼りついた天を駆けていた。
「スコノス……」俺の声は相変わらず掠れていたが、先程よりもずっと平坦で静まっている。「白狐さんも……スコノスを切り離されたんですね……」
「……」
世捨て人の主は答えない。それでも俺の掠れた呟きは耳に届いたようで、眉間に美術品じみた皺が寄った。その表情は肯定としか捉えようがなかった。
彼のスコノスは俺たちの前に姿を現さなかったのではなく、そもそも存在しないのだ。やはり白狐さん自身も、不老不死とスコノスの消失を強制された犠牲者の一人だったのである。そして恐らく、死んでしまったという彼の父親と妹も――。
迷いなき殺意の先端を突き付けられて尚、コウキは心の機微をおくびにも出さない。誰も、何も言わない。滅多に見ることのない世捨て人の主の剣幕が、皮膚の下にまで染み込むようだった。
不意に苦しげな息遣いがげほげほ咳き込む。翔が背を丸め、口元を押さえている。飛び散った血や液体が俺の膝を汚した。
翔、と白狐さんが動揺する。そのとき初めて彼は翔の存在を思い出したらしかった。破れた着物から覗く無数の青痣に、動物に噛み千切られたような生々しい傷口に、白眉を苦しそうに歪めている。
「どうして」
か細い彼の震え声は、泡沫のように消える。奇しくも俺と全く同じ言葉を口にした白狐さんだが、彼の戸惑いは少し違っているようだった。
研ぎ澄まされた俺の耳は、世捨て人の主の心の揺らぎを過敏に捉える。
「馬鹿な子どもだ。己の過去に束縛され、スコノスを切り離すことを拒んだ。何、死に目にも会えないのは気の毒と思って生かしてはおいたが、そいつがいつまで生きているのかは俺の関心ではない」
「……」
違う。白狐さんの狼狽えは、決して拷問され、傷ついた翔の姿に動揺したためではない。
翔、どうして、と消え入りそうな呟きが聞こえた。世捨て人の主を窺う。いつに増しても青ざめた彼は幽霊のようで、信じられないように目元を引き攣らせていた。
その失望と切なさの綯交ぜになった響きに、ようやく俺は何もかも理解する。理解してしまった。翔が姿を消して数週間、彼が一体何を葛藤し、躊躇していたのかということを。
恐らくではあるが――世捨て人の主は、翔が狂気に憑りつかれたスコノスを捨て、いつまでも生きて欲しいと願っていたのだ。過去に囚われることなく……例えそれが親として如何に愚かなことか身をもって知っていても、尚。
数日前、彼が密かに固めた覚悟のようなものは、言うなれば翔と敵対する決死の覚悟だったのである。
う、と食いしばった翔の歯列から息が漏れる。瓦礫に血溜まりが広がった。そのまま身を捩って手をつく。立ち上がろうとしているのだと分かった。足を潰されても、翔にはそうしなければならない使命があるらしかった。
動けない俺に代わり、白狐さんが慌てたよう、崩れかけた翔の上半身を抱きとめる。
「どうしてか知りたいか? ……俺が、“人”だからだ」
その言葉が翔のものだと気付くのにしばらくかかった。押し殺したような声は衰弱した声帯を震わせ、絶叫にならず苦しげな喘鳴をも伴う。
しかし、翔は支えられながら、全神経を救世主へと注いでいた。碧眼は燃え、生命がそこに宿っているかのようだった。
「――俺は 償うべき罪をスコノスになんて押し付けない。あの日、両親を殺したのはスコノスじゃなくて俺なんだ! この罪は俺だけのものだ。他の誰にも押し付けるものか!」
喀血とともにまくし立てられた言葉の数々。袖口から握りしめた翔の拳が見える。触れられた訳でもないのに、俺はそれにがつんと殴られたような衝撃を覚えた。
「正気を失っているようだな」思いの外口早に反論したのはコウキである。
「償うべき罪だと? だからといってその気違った醜いスコノスと心中など悪趣味にもほどがある。過去に引き摺られるより、前を向いた方が余程健全だと何故分からない」
「その醜さも俺の一部だからだよ」
翔はまるで怯まなかった。一歩も譲らない、互いを牽制し合う野生動物のようだった。
「天に罪を擦り付けたと言ったな。でも、お前たちだって同じだ。自らが受け入れられなかった獣性をスコノスのせいにして、切り離したんだろう」
「……」
「どの面下げて皓輝の前に来たんだ? え? 皓輝がお前と同じ姿をしていることが、全ての答えなんじゃないのか?」
「……死に損なった過去の亡霊を俺と同じ名で呼ぶな」
そう言い放ったコウキは素早く身を翻す。何が起こったのか理解が追い付かない。目にも止まらぬ速さで閃いた白狐さんの刀が、コウキの頬を掠めたのである。即座に振り下ろされた二の太刀は救世主の白刃によって弾き飛ばされた。
「いい加減にしなさい」緊張のためか震える手で柄を握り直し、世捨て人の主は凄まじい剣幕で左目を爛々とさせている。その殺意に一片の迷いも感じられない。
「夢は他人に押し付けるものではありません。理想だの正義だの綺麗な言葉で飾り立て、罪のない人の心を踏み躙らないでください」
「……思ったよりも貴様は頭が悪いらしい」
対するコウキは仮面じみた表情を崩さなかった。まるで顔の周りを飛び回る羽虫を眺めているように、やや煩わしげに、白狐さんを見下している。
「これ以上大切なものを失いたくなくば……如何にするのが賢明か、貴様なら分かると思うのだがな。影家の女狐よ」
心臓を狙った白狐さんの一撃は敢え無く受け止められる。火花が散った。救世主の吐いた言葉には、俺には分からない侮辱の意味が込められていたらしかった。
「……憤っているところ悪いのだが、俺は貴様にはあまり興味がないのだ」
その素っ気ない言葉が留めとなった。ぞっと背中の毛穴が総毛立つようなどす黒い気迫が、周囲のあらゆるものを震撼させる。
激しい金属音がぶつかる。世捨て人の主の剣技はもう優美さの欠片もなく、ただ殺すために振るう本気の打ち込みだった。瞬く間に幾つも白光が閃き、絹のような銀髪が宙を舞う。
コウキの立ち回りには無駄というものが一切なかった。見せびらかすような派手さもなく、必要以上に塗れた殺意や敵意もない。崩れた石柱を避けては次々と斬撃を受け流していく歩の進みは、さして余裕があるようには見えず、かといってあと数ミリがいつまでも届かない。
息つく暇もない攻防。顔面を狙った突きを躱した瞬間、コウキが白狐さんの胸倉を掴む。その瞬間、俺は顔を伏せたが、聞こえる音は生々しい。
「――」
声にならない呻き。腹に刺さったコウキの剣が乱雑に引き抜かれた途端、人形のように崩れ落ちた。
「いくら不老を得たからといって、殺されれば死ぬということを忘れたか?」
痛みを食いしばる白狐さんは、力なく両膝をつく。荒い息遣い。下腹が抉れ、傷口を押さえる手も黒々濡れていた。ぼたり、ぼたり、粘着質に滴る流血の量が尋常でない。
それでも尚、刃の切っ先を地面に刺して立ち上がらんとする。僅かによろめく。彼を突き動かす衝動は仇敵への復讐か、救世主への義憤か。振り上げた刀は先程よりも目に見えて鈍っている。
刹那、白いものが空を薙ぐ。くぐもった嫌な音。華奢な世捨て人の主の身体が、半ば吹っ飛ばされるように瓦礫の山に倒れる。柄頭で顔面を殴打されたらしかった。
白狐さんの喘ぐような呻きが上がった。コウキの革靴の踵がその下腹に食い込んでいる。傷口を抉る水音はさながら獣の咀嚼音のようだ。瓦礫に押し付けられた白狐さんは、身を捩って懸命に逃げようとする。
そのときだった。ひゅ、と何かが空を裂き、コウキが初めて驚いた顔をする。反射的に後ろに飛び退り、三枚刃がついた槍の穂先を避けた。
ぐしゃり。半ば崩れるように地面に着地した翔が、槍を振り抜き、白狐さんを背に庇ってコウキと対峙する。拷問され、一体どこにそんな身のこなしをする体力が残っていたのかと感心するほどだった。
「皓輝、逃げろ!」
握りしめた槍を震わせ、吼える。血走った眼。その背に翼が広がっているようだ。「早く……っ」
「……」
「悪霊使いが……!」
何か言いかけた言葉は、切羽詰まった悲鳴に変わった。コウキが地面を蹴る音が飛び込む。軽々、防御壁の上に飛び上がった。右手に剣を携え、左手に――翔の足首を握って。
逆さ吊りになった翔は苦悶の断末魔を上げる。自由を奪われ、身体が伸び、傷が重力に引き裂かれているのだ。
「己の無力さを呪うがいい! 影家の女狐」
あっという間に出来事だった。さながら勝利演説のように高々宣言したコウキが、振り上げるようにして手を離す。宙ぶらりんの翔の身体は弧を描き、呆気なく投げ出された。防御壁の外へ。
耳を塞ぎたくなるようだった。人らしさを失った悲鳴は波間に遠ざかり、それがやけに長く尾を引いた。海に落ち込んだ水音は、砕けた荒波の轟きに呑み込まれる。
翔、と痛ましい絶叫。白狐さんだった。到底動ける状態ではないにも関わらず、彼は腕を踏ん張って立ち上がろうとした。腹部から流れるどす黒い塊は、血液というよりむしろ臓物のようだ。
そして瀕死の彼がただ我を忘れて防御壁を乗り越え、海に飛び込む光景を、どこか他人事のように見送る。翔を助けようとしていた必死さは伝わったものの、深手を負ったまま荒れ狂う海に身を投げるなど、正気の沙汰とは思えない。
声が出なかった。乾いた喉が張り詰め、ただ息苦しかった。俺は地面にへたり込み、何も感じず黙っていた。
嵐が過ぎ去ったような、冷たい静寂が訪れる。祭壇は、先程の死闘が嘘のように静まり返っていた。海の音はもう聞こえない。
視線を上げる。器用にも凹凸の防御壁の上に立ち、潮風に嬲られる彼の横顔。何の感情も浮かばぬ面持ちで眼下の海を眺めている。そこにどんな光景があるのか、彼の目には何が映っているのだろう。
やがてコウキは飽いたように崖下から目を背け、俺に一瞥くれる。身軽に跳び、さして膝も曲げずに地面に着地。ひらりと舞う服の裾が、視界の端に踊る。コウキは訝しげに、少しわざとらしく眉を顰めた。
「仲間がやられているのに何もしないのか。何も出来ないのか」無理に上がった口角から前歯が覗く。
「無様だな」
「……」
「やれやれ、せっかく東大陸まで赴いたのに無駄足だったか」
沈黙したままの俺に、コウキは嘆息して見せた。肩を竦め、夜更けの空を仰ぐ。皓々たる満月は遠く、いつしか西の水平線で滲んでいた。反対側の空が、徐々に白み始めている。十月十日の朝がしめやかに忍び寄ってきた。
薄明に浮かぶコウキの姿は、いっとう凛々しかった。
「おい、何とか言ったらどうだ」
いい加減警戒したか、直情的な目が不審げに細まる。俺は何も言わず、じっと見つめ返した。真っ向から視線がぶつかったとき、ほんの僅かにたじろいだのはコウキの方だった。
「まあいい」その口調は取り繕うように聞こえないでもない。「どうせお前もすぐ、奴らのところへ送ってやる」
冷ややかな蔑み。彼の剣が宙を裂く、ひゅっという風切りが聞こえた。俺はぴくりとも動かずにコウキの顔を凝視している。自分という意識が薄れ、肉体から乖離してしまったように。
心臓の音が聞こえた。どくんどくんと痙攣し、脈打っている。それが己のものなのかコウキのものなのか判別つかない。その両方であるようにも思われた。
振り下ろされた剣は見えなかった。遅れてやってきた鋭い痛みで、初めて俺は自分が斬られたことを知る。皮が裂ける感触。じわり、滲み出た液体はたちまち溢れ、手首から肘まで滝の如く濡らした。
コウキの動揺が剣先から伝わる。は、とも、あ、ともつかぬ彼の漏らした呼気はひどく震えて上擦っていた。
掌で受け止めた刃が五本の指の腹に食い込む。俺はさして気に留めない。自分の指などどうでも良かった。傷が深まることも顧みずに握り込めば、呆気ないほど簡単に剣はコウキの手から滑り落ちる。からん、と鋼と石床のぶつかる音がした。
コウキの革靴が一歩、後退る。
「来るな」と聞こえた。まるで幼子のように怯えた声だった。そして同時に、動物を宥めるようでもあった。何をそんなに恐れているのか、俺には分からない。
頭がぼうっとしている。きちんと息が吸えていないのだろう。やや白んだ視界に、コウキの顔を捉えた。眉を顰め、目元と頬を強張らせ、半ば開いた口から浅い呼気を吐き――。
俺は地面に手をついた。躊躇いはなかった。片膝をつき、背筋を前のめりに伸ばす。彼の呼吸が頬を掠めた。ひ、と引き攣ったような小さな声。その豊かな黒髪は俺の耳の傍にあった。腕を伸ばす。コウキの背に回した。
「――愛してる」
時が止まったようだった。凍り付いたコウキの身体を抱き締め、俺は知らずのうちに微笑んでいた。息苦しさは解きほぐれ、胸中に染み渡ったのは安らかなぬくもりである。
「やめろ!」悲鳴じみた声が鼓膜を劈く。たちまち力一杯に突き飛ばされた。石床に叩き付けられる。視界がぶれて一瞬意識が遠のくが、俺はコウキから目を離しはしなかった。
やめろ、と再度コウキは喘いだ。その額には冷や汗のようなものが滲んでいる。
俺は笑顔を崩さなかった。ああ、可愛いなぁと愛しさすら込み上げた。自身の行動に微塵の違和感も覚えなかった。
「寄るな、化け物が」
幾度か唾を飲み、吐き捨てられた彼の言葉は、幾分落ち着きを取り戻したようだ。表向きは。己の心臓の辺りを掴み、コウキは肩を上下させている。
化け物、と繰り返すその牽制は、まるで闇雲に振り回される刃物のようだ。敵を遠ざけるために振るう、恐怖の入り混じった威嚇。
「何故、お前はここにいるんだ」息を整え、漏らしたその声は紛れもない本心から出た困惑らしかった。「何故、切り離されたのに消滅していない?」
夏至祭に出会ったときからコウキは気付いていたのだろう。俺がかつて、生まれてからずっと共にあったスコノスであることに。そして戸惑った。そのスコノスはとうの昔にこの世から消えたはずだったからだ。
俺は答えない。そんなものどうでも良かった。今コウキが目の前にいて、俺がここにいて、世界でそれ以外必要なものなどないように思われた。
宿主とスコノスは一心同体、例え切り離されても魂を分けたもう一人の自分であることに変わりはない。切っても切り離せない、目には見えぬ因縁があるのだ。
ふつふつと奥底から湧き上がる熱が身体を温める。そうして再びコウキの姿を見たとき、胸を締め付ける愛しさこそあれ、やはり恐れなど欠片も浮かばなかったのである。
俺は微笑みのようなものを洩らした。
「だって、お前は俺だろう」
「……そうだ、お前は俺だ」コウキは苦々しげに歯茎を覗かせる。「過去の亡霊だ」
過去。その言葉に俺の喉がぴくりと動く。知らずのうちに口が動いていた。
過去ではない。俺の名は、過去の反対だ――。
それは全くの唐突だった。背後に生暖かい息遣いを感じた。獣の吠える声。次いで視界が反転。何が起こったのか分からない。痛みが駆ける。冷たい石の床に引き摺られ、背に負った剣が耳障りな金属音を立てた。
仰向けに倒れ、黒いものが視界に迫る。鼻先と触れ合いそうな近距離で俺の上に乗ったのは、一本の角を額から生やした猛獣である。
見間違えようがない。月蝕の夜、湖岸で俺を食らおうとした漆黒の悪霊が目の前にいる。
がん、と名を呼んだ己の声は震えていた。力一杯に身体を暴れさせても、狼を凌ぐ巨躯の前には虚しく、ただ爪のある前脚が胸に食い込んで動きを封じ込められた。喰われる、とぎゅっと眼を瞑った俺は、いつまで経っても訪れない鉄牙の痛みを訝しみ、そっと瞼を上げた。
「――」
豻は相変わらずそこにいて、俺の首筋の匂いを熱心に嗅いでいる。ぞわ、鳥肌が立った。針金にも似た毛並みが月明かりを弾く。だが、その背後に先程までいなかったものが佇んでいた。
思わず目を擦る。それはあまりに場違いで、意表を突かれた。歳は十に満たないくらいだろうか。見知らぬ灰色の髪の少年がそこにいた。




