Ⅲ
己の身体に、胸から亀裂が入ったようだった。ばきり、と不吉な音を立てて四方に広がったそれは、翔の最後の一言が留めとなって俺自身を木っ端微塵に砕いてしまった。壊れてしまった。
ああ、終わりだ、と思った。
覚えたての単語を口にしたよう、スコノス、と鸚鵡返しにする。そう、と誰かが頷いた。その声が翔だったのかコウキだったのか、よく覚えていない。ただ心臓の音がうるさかった。それだけだった。
「俺が」
「そう」
「スコノス」
そう呟いたきり、次の言葉が出てこない。喋り方を忘れてしまったかのようだ。俺はしばらく口を開けている。
衝撃は、存外すぐに通り過ぎた。後に残ったのは自分でも見たことがない真っ白な無の境地だった。なにもない。あるとすれば、目の前に直立しているコウキの姿だけ。
俺は伏せたまつ毛をゆっくり上向け、見上げた先の彼に何かを言おうとした。唇が震える。しかし、声帯が動かない。首を絞められたかのように苦しくなる。この胸の痛みは何だろう。心が押しつぶされそうなほどの息苦しさは──。
「ずっと変だと……お前のものの考え方が、あまりにも人間とかけ離れていたから」
途切れ途切れの翔の声が、くぐもって聞こえる。怪我の処置などすべきことはすっかり頭から抜け落ちていた。自分がどこか違う時間の世界に置き去りにされたようだった。
「人型スコノスだよ」
「……」
「ほら、覚えているか? 俺のと同じなんだよ」
ああ。こぼれたため息が己のものなのか自信がない。思考の先にぼんやり浮きあがった記憶の輪郭。この世には稀に、人の似姿を象るスコノスが存在する。直立二足歩行して、人の言葉を操る知的なスコノスが。
「お兄さん、面白そうだから」とひび割れてけたたましい笑い声を漏らした翔のスコノスを思い出す。瞼の裏にちらつく、あの狂気に塗れて歪んだ満面の笑み。
「お前は……かつてコウキに宿っていた人型スコノスだったんだよ」そうだろ? 確認のように片眉を上げた翔の視線の先には、表情を動かさない俺と瓜二つの顔がある。唇を引き結び、端正な眉間にしわを寄せ。
切り離し、という言葉が延々と頭蓋に反響していた。
「スコノスを、からだから切り離して……」ようやく俺の口からまともに零れたのは、ひどく聞き苦しい掠れ声だった。譫言のようでもあった。「……なぜ……?」
コウキは怪訝そうに眉根を寄せる。その顰め面がまさに俺にそっくりで、やはり己自身と向き合っているような錯覚が起こった。
「覚えていないのか? 俺とお前がここで切り離されたときのことを」
覚えていないのかと訊かれると、覚えていないとしか答えようがない。閉口するこちらを一瞥し、コウキは目を細める。
「記憶を失くしているというのは嘘ではないらしいな。自分から忘れたのか、誰かに消されたのかは知らんが」
「……」
顔色を失っている俺の様子に、説明をする必要があると感じたらしい。ただ彼が喋りたかっただけなのか、それとも俺に“過去”を思い出させようとしたのか、定かでない。
膝に乗せた苦しげな翔の呼吸が伝わってくる。俺は自分がちゃんと息を吸って吐いているという実感がなかった。
「スコノスがとりわけ戦いを好む性質であることは周知の事実だろう。人間の凶暴性を煽り、その血肉を操ってまで命あるものを食い尽す。この地上で醜い争いが終わらないのも全て、この忌まわしい精霊のせいなのだ」
コウキは追い風を背に受け、さながら映画のワンシーンのように毅然と直立している。荒ぶる黒髪を気にする素振りもなく、その両目は瞬きもせずに俺を射抜いた。
「かつて、スコノスは人を殺す本能を帯びて天から降り――あろうことに人と結ばれた。人の中に残った獣性と。霊として不完全だったスコノスは、依代に頼らねば実体を保てなかったからだ。ならばネクロ・エグロに寄生虫の如く貼りついているスコノスを引き剥がしてしまえばいい。それが本来の人のあり方だろう」
歴史書に曰く、ある頃天から殃禍が下った。奇しくもそれはスコノスが地上に降った時期と同じであった。書庫で見つけたそんな話を思い出す。
「宿主から切り離されたスコノスは、実体を保てずに霧散する。すなわち人で言うところの死だ」
「ああ」と漏らしそうになった声を、舌の上に留める。
「それでいい。地上を乱し人を穢すスコノスなど、この世から滅びればいいのだ」
決して声を荒げることなく、しかし静謐に揺るぎない覚悟を滲ませ、彼は薄い唇を引き結んだ。
もしコウキが壇上の演説者ならば、今まさに拍手喝采が起こったに違いない。彼のそれは、まるで自分の主張が世界で一番正しいと信じて疑わない政治家のようだった。何かを正しいと信じることが人間の才能のひとつなら、彼は間違いなく人間らしい男だった。
俺は肝心のコウキの話をほとんど聞いていなかった。その低調さは耳下を右から左へ流れていく風と何ら変わりない。ただ、その惚れ惚れするほど力強い二つの瞳に魅入られる。
逸らすことを許さない強靭な眼差し。見据えたもの全て粉々に砕いてしまうのではないかと思うほど、問答無用に人を惹き付ける。ああ、これが人間の強さなのだと。死にゆく運命に抗い、この世界を変えると決意を固めた“救世主”の目なのだと。
「お前は、分かっていない。スコノスと宿主は、そんな単純な関係じゃないってことを」
おもむろに口を動かしたのは翔だった。
「切り離して、それで終わる関係じゃない」苦渋に潤んだ碧眼が俺を見上げる。「スコノスはもう一人の自分なんだよ」
翔が自身の悲劇的な体験を踏まえているのだとすれば、これ以上なく説得力に満ちた発言もないだろう。過去を受け止めた者の言葉は重い。
宿主である人間とスコノスは一心同体、相即不離。片方が死ねばもう片方も消滅する運命にある。そもそも、生まれてからずっと共にあるスコノスを切り離すとは、如何なる方法なのだろうか――。
「ニィだよ」
翔は俺の手に軽く触れた。その口からニィという例の単語が出たことに対する驚きは、遅れてやってくる。乾いた血痕がざらついた感触を残した。気をしっかり保て、と俺を励ましているようにも、単に縋っているようにも見えた。
「――ネクロ・エグロの身体に、ニィを埋め込むんだ」
「埋め込むんじゃない。飲ませるんだ」すかさずコウキが訂正を入れた。
「どっちでもいいよ」翔が面倒くさそうに口を尖らす。「それで……うまく適合すると、スコノスが宿主の身体から剥離する」
「適合しなかった場合は?」
「死ぬ。宿主もスコノスも」
平たく言えばアレルギー反応のようなものである。ニィというのは何かしらの質量を伴った霊的な物質らしいが、ネクロ・エグロの体質に合うか合わないかはかなり癖があるらしい。
幸運にも、摂取したニィに拒否反応を起こさなかった個体は、魂の半身を代償に永続的な命を得る。
そして宿主の身体から切り離された哀れなスコノスには――消滅の運命が待っている。スコノスという精霊は、依代がいなければ存在を保つことが出来ないからだ。
平和を重んじる理性的人間が永遠を慎ましく守り、獣のスコノスは滅んでいく。争いのない永劫の世界、これがイダニの救世主たるコウキの思い描く、夢のシャングリラなのである。
全人類救済をも視野に入れた壮大な話の割に、理論は単純明快だった。子供でも分かりそうである。ひとりの身体にひとつの霊――それは自然の掟だ。ニィと結合したネクロ・エグロは、スコノスを捨てなければならない。
同時にそれが如何に無謀で道理に外れた行為だったか、初期の切り離し実験でおびただしい数のネクロ・エグロが犠牲になったことが物語っている。生まれながらにして与えられた魂の半分を切り捨てるという行為。自然界の法則に逆らおうとした代償に、死は相応しい。
「何が自然界の法則だ」荒っぽく唾を吐いたのはコウキだ。その声音に先程まではなかった忌々しさが滲む。「何が天だ。貴様らのそれは諦めだ。怠惰だ! 貴様らは天を言い訳に諦観しているに過ぎない。死を運命と名付け、生きることを諦めた!」
「……」
「自らの無気力を天に擦り付けるその救いようのない傲慢こそが、何よりもお前たちの神を侮辱していると知れ!」
「それはどうでしょうね?」
不意に、背後から刺々しい声が被さってきた。俺とコウキは同時に振り返る。扇状に象られた祭壇、要にあたる場所に見慣れた痩躯が佇んでいた。風に踊る銀の毛先すら、凜然と冴えわたっていた。
白狐さん、と翔が血のこびりついた唇を震わす。安堵したのか話すことも億劫そうで、俺は翔が今に意識を失ってしまうのではと思った。
「あなたの正義だの理想論だの、こちらにとってはどうでもいいんですよ」
「……」
「義なき世捨て人にご高説は不要です。仇敵との挨拶は回りくどくないほうがいい」
世捨て人の主がゆったり、しかし躊躇う様子なくこちらへ向かって歩いてくる。下駄が立てるからからという軽やかな笑い音が、場違いに小気味よい。
束の間、水を打ったような沈黙が祭壇を統べた。我々の息遣いもすべて月に吸い込まれていくかのようだ。
「ああ……」溜息を吐いたコウキは、お前か、とでも言いたげな面持ちである。それはまるで長年の知り合いに向けるような気だるい眼差しだったので、俺は面食らった。
対する白狐さんの表情は険しく鋭い。ここ数日かけた徒歩の旅で憔悴し、やつれたような顔にはぞくりとするほどの――色香が漂う。炯々たる眼光は、コウキを捉えて離さない。
「その紋章、イダニ連合国の執政官殿とお見受けします」
「如何にも。……救世主だ。向こうではそう呼ばれている」
救世主はさして興味もなさそうに目を閉じる。二人がどのような間柄なのか、初対面なのかそうでないのかということすら、俺には見当が付かなかった。
そして執政官と呼ばれるものが西方イダニ連合国での最高官職、すなわち総理大臣に相当する地位であるということを、このときの俺は知る由もない。
「長遐に棲みついている狐だな」コウキが瞼を持ち上げ、半眼で白狐さんを一瞥する。「やはりこいつらを飼い慣らしていた、保護者とやらは貴様だったか」
飼い慣らすなんて、と白狐さんは心外そうな声を出した。その語尾には彼らしくない不安定な揺らぎがある。何か強い感情を押し殺しているような、そんな震え声だった。「……放っておいて下さい。一緒に暮らしているだけです」
「で、狐がこの俺に何用だ。生憎俺は、貴様に構ってやれるほど暇じゃない」コウキは暗に、貴様など会話する価値もないと礼節も顧みず言い放つ。
白狐さんの抜刀に躊躇はなかった。水鳥の長い首のようにしなやかで、その所作もさることながら、鞘から抜き払われた刃が月影に反射して煌めき、彼自身がひとつの芸術品のようだった。直刀の太刀がコウキに突きつけられる。
「……いつかお会いしたいと思っておりました」
「俺の首を落とすためにか」
「その前に、ひとつお訊ねしたいことが」
切っ先がコウキの喉元を掠める。しかし本人はまるで動じず、世捨て人の主の次の言葉を待った。興味はなさそうだが、じっと眼を逸らさないのは彼なりの礼儀作法らしかった。
「あなたは真に正義なのですか。スコノスを宿したネクロ・エグロは、老弱男女くまなく悪なのですか」
「……」
答えない。沈黙は、是を表しているようだ。世捨て人の主は口調こそ丁重であったが、言葉の一つ一つが緊張を帯びて殺気立っている。
震え上がるような悪寒。肌に触れる風圧が急激に冷えていく。彼らのぶつかり合う目線が海風もろとも氷結させてしまったかのようだ。
「僕の父と妹を殺したのもあなたの正義だったということですか」
聞いたこともないような声で呻き、白狐さんはその美しい顔を歪めた。




