Ⅲ
世捨て人の主が運んできた漆塗りの盆には、彼の手料理が丁寧に盛られている。
程好く焙られた筍、蕨、つやつやに蒸した巾着団子、汁物。そして杏の黄色い果肉が入った米の粥。どれもこれも山で調達してきたものなのだろうか。飾り気はないが、素朴な料理の数々に、俺は拒絶感よりも惹きつけられる心地の方が強かった。
暖かな湯気が立ちあがり、何も入れていない胃袋が疼く。食欲があるのかないのかはっきりしないが、空腹ではあった。
早速箸を取る翔たちを尻目に、俺は逡巡する。別の世界の食べ物を口にして、自分の身体に何か異変はないのか、という一抹の不安がよぎったのだ。
「皓輝くん」と呼びかけられて顔を上げれば、世捨て人の主があの瞳がこちらを窺っている。
「食べる気が起きませんか」
「……」
「それでも、何か口に入れたほうがいいですよ。元気になります」
彼の言葉に励まされたわけではないが、その明るさが断りにくい気にさせるので、俺は仕方なく箸を手に取った。恐る恐る汁物の椀を手に取り、そっと口に近付ける。
「……」
ほんのりと磯の味が舌上に広がった。昆布だろうか。だしの香りが口の中で解け、喉まで染み渡っていくようだ。具材は細く刻まれた野菜のみで、半透明になるまで煮込まれた根菜が素朴な風味を出している。美味しい。胃が落ち着く。
身体の強張りが抜けていく。食べたものが指先の細胞にまで広がり、馴染んでいくような親和性がある。この世界に適応していくように。
ただの食べ物に、そんな効果があるとは、俺はどれだけ飢餓状態だったのか。
椀を啜りつつ、ちらりと周囲を見やる。心なしか、先程よりも視界の焦点が合っているように感じた。音もはっきりと鼓膜に届く。
夢見心地から醒めたよう胃がきゅうと鳴いて、次に俺は杏仁の粥を蓮華で掬う。水分を吸った白米が湯気を立てた。一口入れてみて、意外な味に面食らう。甘い。
杏は干したものを使っているらしく、見た目よりも甘さが凝縮されている。目を白黒させながら飲み込むと、熱いものが胃に届く感触があった。
俺は黙々と食べた。徐々に身体の奥から気力が湧いてくる。なるほど、世捨て人の主が俺を気遣ったのは、それだけ俺が死にそうな顔色をしていたからなのだろう。
「その蕨」不意に翔が話しかけてくる。右手に箸を持ったまま。「さっき、お前が寝ている間に採って来たんだぜ。光と一緒に」
へえ、そう。上の空で相槌を打つ。俺の知っている限りこの妹は泥まみれになって山菜取りをするような少女ではなかったはずなのだが、彼らに助けられてからどういう心境の変化があったのだろう。
「美味しい?」
「さあ」光に問われ、俺は適当に誤魔化す。この妹、偽物なんじゃないかという妄想すら過った。
「日当りのいい土手で採れるんだ。ようやく雪も溶けてさ。今は穏やかで、いい季節だね」
放っておけば、この翔という若者は一人でずっと喋り続けそうだ。俺と同い年くらいに映っていたが、笑うと子どもっぽかった。
頭に栄養が回ってきたのだろう。改めて俺は不安になる。自分が置かれている状況に疑問を呈すだけの心の余裕ができた。空になった椀に蓮華を置く。
この世捨て人たちは、一体何のつもりなのか。
こちらは身元不明、自分たちがどこから来たのかもよく分かっていない兄妹である。彼らにとって、俺たちを食卓に迎えることに抵抗はないのか。光の口ぶりから察するに、俺たち兄妹がどのような経緯を辿ってこの顛末を迎えたのか、彼らはある程度把握しているのではないか。
「何か言いたげな顔だ」目敏いのか、好奇心が強いだけなのか、翔が上目遣いに俺を見やる。
俺は視線を浮かせた。
話に聞けば彼らは真夜中転がり込んできた光に叩き起こされ、俺たちを助けてくれた。食べるものと寝る場所を惜しむことなく提供してくれた。この世捨て人の二人にかけるべきは疑念ではなく感謝の言葉であることはよく分かっている。
分かっているのだが。
「失礼な言い方にならなければいいんだけど」俺は掌を擦り合わせ、慎重に言葉を選ぶ。
「その……俺たちを怪しいと思わないのか」
「まあね」と翔。「でも、分からないことを考えても仕方がないじゃないか」
あっさりしたその口ぶりに、俺は拍子抜けする。達観しているというより、単に大雑把な性格のように見えた。
「だって、俺たちがどこから来たのか分からないんだろう」
俺の慌てぶりは、自分たちの怪しさを増幅させているようだった。
「まあね」
「何かもう少し、訊きたいこととか、疑問に思うことがあるんじゃないのか」
だんだん呂律がもつれ、自分が何を言いたいのか分からなくなる。俺はこのもどかしさを言葉に出来ないまま、黙った。
ただ、見知らぬ兄妹を窮地から救い、怪我を治療し、何の違和感もなく食卓に向かい入れる彼らはあまりに平然として、単なる親切の枠から外れている。それはお人好しの域を越え、非常識とも取れた。
粥を口に運んでいた白狐さんは、おかしそうに目元を緩める。
「じゃあ、念のため訊きますけれど、お二方はどこから来たんですか?」
「ええと」俺は口籠る。どう表現していいか迷った末、「神奈川です」と要領を得ない言葉が出る。
意外にもそれが興味を引いたのか、彼が穏やかに首を捻った。
「カナガワ……? 誰が治めている国ですか?」
「神奈川県は国じゃないです。国名は日本。治めているのは……」何と答えるべきか。「人間です」
「人間? なるほど……お二人は人間の世界からいらしたんですね」
その微笑みに、俺は椅子から引っ繰り返りそうになる。
彼の発音する「ニンゲン」という語には、相容れないよそ者を呼称するような排他的な響きがあった。嫌悪感こそなくとも、そこには確かに目に見えない透明な壁があったのだ。
「あなたたちは人間ではないと?」
「ネクロ・エグロです」白狐さんは事も無げに言い放つ。俺は混乱した。
「ネクロ・エグロとホモ・サピエンスは違う?」
「皓輝は難しい言葉を使うな」
翔は妙なところに感心しているが、俺はそれどころではない。地球ではない何処かの文化圏、人間ではない何者か。そんなものに囲まれ、暢気に食事などしている場合ではなかった。
思わず、がたんと椅子を後ろに下げて立ち上がった俺に、周囲の瞠目が集中した。
「兄貴、急に立ったら行儀が悪いよ」妹が、非難の眼差しを向けてくる。
顔の目前にある照明が、俺を馬鹿にするようにゆらゆら揺れた。叫び出したい気持ちだった。
同時に、何もかも捨てて屋上に立った癖に、と理性が言っている。今更何が起こっても、俺が人生に挫けたことに変わりはない。俺の人生は、既に敗北しているのだ。
一瞬、自棄になりかけた気持ちが、落ち着きを取り戻す。少なくとも、学校の屋上から飛び降りると決めたときのあの陰鬱な記憶は、今の俺を冷静にさせるだけの重さがあった。
「皓輝くん?」
世捨て人の主は、さすがにそろそろ同情の片鱗を漂わせつつある。
目覚めたときから俺が感じる疎外感は相変わらずで、周囲の暢気さに対して俺の慌てぶりはまるで道化のようだ。
かといって腹を立てたところで的外れになるのは想像に易く、結局俺は力なく椅子に腰を落とすほかない。
「どうして」俺は無気力に口を開く。「どうしてこんなことになってしまったんでしょうね」
この状況に至るまでの具体的な経緯を訊きたかったというより、終わっても尚ままならない自分の人生に対する嘆きがこぼれる。死ぬことすら、まともに出来ないなんて。
誰に向けた訳でもない独白は、別の意味で受け取られたらしい。光はこちらを窺うように瞬きをする。
「白狐さん曰く、あたしたち、“神隠し”に遭ったんじゃないかって」
「神隠し……?」
力のない声で反芻する。滅多に聞く機会のない単語に、理性が追いつかない。もう一度布団を被りたかった。
「神隠しっていうのは、あれだろう。神だとか天狗だとか、そういったものが人間を攫ったとかいうオカルトだろう」
妖怪奇譚の類で、神隠しは子供などが何の前触れもなく失踪する現象を、霊的な何かと結びつけて語られる。だが、大抵そんな失踪事件には論理的な真相があるものだ。文字通り、現実で子供が神や天狗によって攫われるなど、まさか。
迷信だ、下らない。そう声に出さなかったのは、恐ろしいことに彼らの雰囲気が冗談を言っているように感じなかったためだ。
世捨て人の主は箸を置く。硝子玉のような眼球に、俺の姿が反射していた。
「神隠しと呼ばれる現象が全て神による仕業と言うと、語弊があります。どちらかと言えば、不自然な迷子と言った方が近いです」
「迷子……」
「はい。例えば普段行き来する山道が、その日に限って延々と続いているように思えたり、地図にはないおかしな場所に足を踏み入れてしまったり。そういったことは、僕たちにとってさほど珍しくないのです。人が足を踏み入れない場所ほど、そういった不自然なことが起こります。空間が歪んでいるようなものです」
「……つまり、俺たちは何かの拍子に歪んだ空間に入ってしまった、と?」
彼の説明に理系的な数字や科学が一切感じられないのは不安だった。
「……」
束の間、食卓に沈黙が流れる。状況から鑑みるに、これ以上仮説を塗りたくったところで真相は明らかになりそうもないという諦めの境地が見えつつあった。彼らからしてみればこれが精一杯の解釈で、一晩考えた末の結論なのだろうから。
俺たちがするべきはこの状況を物理学的に、あるいは量子力学的に分析することか、それでなくとも帰る方法は最優先に探すべきである。
現時点で何の弊害もなくこの“文明世界”──という表現を安直に使うのは好きではないが──とやらに来てしまったのだから、戻る方法も必ずあるはずだ。差しあたって、俺はそう信じた。
「あの、お訪ねしたいんですが」空になった皿や椀を押しやり、俺は肩幅を縮める。食べたものが胃の辺りで強張っているようだった。
「もし俺たちが神隠しに遭った結果このような場所に来てしまったのだとすると……帰る方法、みたいなのは存在するんでしょうかね」
「……」
嫌な間があった。世捨て人たちは互いに顔を見合わせ、僅かに首を捻っている。それが答えだった。俺はほんのりと暗いものが胸に染み入るのを感じる。
「神に頼んでみるとか?」白狐さんは首を傾げる。
「神に、頼むんですか」
「そうです。文字通り、神頼みというやつですね」
その物言いに、俺は口許が強張るのを感じる。彼にそんなつもりはなかったのだろうが、混乱と疲労の連続で俺の神経は尖っている。
彼らとの会話に消化不良を起こしたような心地になるのは、この状況で最も重要な議題を神という漠然とした概念に投げ捨てたことへの不満があるのかもしれない。神頼みという手法が曖昧な存在に縋るほかない人間の祈りを指すのか、もっと違う意味なのかも判然としなかった。
「もしくは」人差し指を立て、白狐さんが思わぬ明るさで提案する。「もう一度、飛び降りてみるのは如何でしょう」
「はあ?」
「光ちゃんから、高い建物から飛び降り自殺を図った結果このような事態になったと窺いました。なら、もう一度思い切ってみては如何です?」
度胸を試されているのか、揶揄われているのか、俺は何も言えない。
脳裏を過るのは学校の校舎から飛び降りたあのときの光景だ。──確かにきっかけはあの瞬間だった。そうとしか思えない。一、二秒でも遅れていれば、俺と光は仲良くアスファルトの地面に突っ込んでいたはずだ。
そんな絶体絶命のタイミングで、神隠し──そんなことが有り得るのか?
「じゃあ、もう一回神隠しに遭えばいいんじゃない?」光は俺の不機嫌さに気付かないのか気付かない振りをしているのか暢気に言う。何となくその言葉が耳にこびり付いた。
何かの拮抗が崩れつつある。今まで積み上げたものが根本から突き崩されそうになっている。俺にとって神的な概念を思考に織り交ぜることは、すなわち非科学を認めるということにほかならない。俺が抱えている恐怖は、そういったものだ。
「あの、質問いいですか」右手を軽く挙げ、恐る恐る周囲の注目を集める。気は進まなかったが、これを訊かねば議論が前に進まぬようだ。
「神隠しは神や妖の類の仕業、と言っていますが……神や妖とはそもそもどういった存在なんですか?」
このままでは、互いにあべこべな定規を手に会話を続けることになってしまう。彼らの言う神、霊、妖などという呼び名が具体的に何を指すのか分からない。
嫌な予感のようなものが胸中に膨らみつつあった。最初の晩に見た、狐にも似た悪夢のような獣を思い出す。
あんなものが跋扈する文明世界など、想像するだけで悍ましかった。あの獣そのものが持つ恐ろしさというより、自分の理解を超えたものがあるということが俺には恐怖だった。
「神とは何か、と改めて問われると難しいですね」
世捨て人の主の困ったような微笑みを前に、俺は同意する。確かに、言語で表象できるものは神ではない。人間の知覚を越えているからこそ、神と呼ばれるのだ。無信仰な俺でも分かる。
「神は、神だよ」翔の適当な言い方は、その言葉自体口にするのを躊躇っているようにも見えた。
「上手くは言えないけど、神としか呼ぶことが出来ないものなんだ」
「たくさんいるのか」
「ああ、木にも、空にも、水にも、あちこちにいるよ。目に見えるとは限らないけれど」
彼らの答えはこのようなものだ。
神とは、多くは霊とも呼ばれる。彼らは両者を明確に区別しない。霊はこの世の森羅万象に宿っている。目に見えたり、見えなかったり、無形だったり有形だったり形態は様々だ。
この世界のネクロ・エグロは、大気の流れにも、樹にも、花にも、水の煌めきや小鳥のさえずりの中にさえ自然の霊を認め、それらは長い時間をかけて天と地を流転していると考える。つまり霊とは、ある種の生命力学的なエネルギーだと言えるだろう。
自然の中で生きる世捨て人にとって霊的なものは身近にあり、決して非科学的存在とは考えていない。というより、得てして生活の中の自然科学とは宗教と地続きなのだ。彼らが俺たちの境遇にそれほど驚いていないのは、超自然現象に寛容な宗教観のためなのかもしれない。
だから、彼らにとって、神隠しとはそれほど珍しい現象ではない。日常の傍らに神と呼ばれる“何か”がいる。少なくとも、そう信じられているのは事実だ。
普段であれば、こんな馬鹿げたことに耳を貸す俺ではなかった。しかし、今は事情が違う。この先どうなるか分からない不安、焦燥、苛立ち。目覚めてからずっと付き纏う異質な緊迫感が正常な判断を鈍らせている。
今の自分が置かれていることが何よりも馬鹿馬鹿しいのだと、そう認めざるを得ないことが何よりも腹立たしかった。